ビジネスマインドの弊害
ビジネスマインドが医療や教育に及ぼす悪影響については、既に多く語られている。
特に新しい話はない。
ただ実感を伴って、私のような老人の日常にも、それがついにやってきた、という話。
病院で
先日、私鉄でふたつ先の駅にある病院に、半年ぶりに行った。
行ってみて驚いた。
改組改革の結果、いきつけの皮膚科がなくなっていた。
もっと驚いたのは、受付の応対だった。
私が「担当医からの引き継ぎ事項として、どこそこの皮膚科を推薦しますみたいなことは言われていないのか」と尋ねると、「ない」と。
あまりにもの無責任さに、あいた口がふさがらなかった。
〈開業も自由、廃業も自由、改組改革も自由〉という、資本主義のオチ。
そこの皮膚科がいいと教えてくれたのは、私の街の床屋さんだった。
その床屋さんも、既に廃業してしまっている。
30年前、この街に引っ越してきたとき、なんて床屋と寿司屋の多い街かしらと思ったが、街の風景もかわった。いまじゃあ、後継者不足の結果、かなりが潰れた。
私は新しい皮膚科をインターネットで探さなければならなかった。
かつての皮膚科の担当医に、私が「街の床屋さんに紹介されて来ました」と言ったときの、担当医の笑顔が忘れられない。
学校で
私が奉職していたA女子短大も、廃業した。
私は短大の廃止に賛成であった。
しかし、廃止に賛成であったからこそ(そしてこの点が大半のひとには理解できないところなのだが)、「古き良き部分」を如何に存続させるか、そして廃止のリアクションと如何に向き合うべきかに思索を集中させた。
フランス革命の専門家として、革命のさいに重要なのは反革命への配慮だと知っていたからである。
しかし執行部はそのような点を考慮に入れることはなかった。
客=学生の数を稼ぐことだけが大事で、稼げなくなったら潰す、それだけだった。
潰されて驚いたのは卒業生だ。
これまで、学校の卒業生はみんな大切なファミリーのメンバーだと教えられ、卒業しても、いつでも遊びに帰ってらっしゃいと言われていたのに、なんなんじゃあ、と。手紙のひとつもよこしはしない、と。
おそらく執行部は、紙媒体による情報伝達から発生するコストを避けたかったのだろう。
ホームページに「募集停止にあたって」の一文を載せただけだ。
執行部のやりかたは明らかに誠意に欠けていた。冷たかった。
そんな学校に勤める教師が、どれだけ弱者にやさしくしましょうとか言ったって、虚しい。と言うか、逆にシニカルに聞こえるだけだ。
「えこひいき」を非難する寂しい人々
私の眼鏡屋は銀座にあった。
私の親が使っていたので、私もそこでお世話になった。
私の街からは遠いが、たまには銀座に行くのも楽しいので、良しとした。
その眼鏡屋が廃業したとき、「長いことありがとうございました」と言われ、今後のためにはどこそこの同業者を紹介しますと言われた。
その新しいところに行って、「●●の紹介で来ました」と言ったら、黙って何割か安くしてもらえた。
お得意さま=常連に対する、当然のサービスだと思う。
ところが寂しいひとたちは、これを「えこひいき」だと非難する。
あらゆる客を、まるでオートメーションでベルトコンベアのうえを流れてくる商品のように画一的に一律に扱うのが大事だと、言いたいらしい。
それは目の前にいる人間を、歴史を持った個として、みなさないということだ。
例えば私が務めた短大には、「お姉さんが卒業生だから」という志望動機でやってきた学生たちがいた。
私はそんな学生たちに目をかけた。
「お姉さん、仕事、たいへんそう?」「お父さん、お母さん、お元気?」。
しかし幾人かの学生は、私の態度を「えこひいき」だと非難した。
もちろんそのような学生たちは、金輪際、未来永劫、誰からも「えこひいき」されることはないだろう。すなわち誰からも愛されることはないだろう。
教室に集う学生諸君は、みんなそれぞれ違った歴史を背負っている。
みんな個性を持っている。そこに注目するのが「えこひいき」である。
私は地方出身の一人暮らしの学生に特に配慮した。
私自身がパリに留学して初めて一人暮らしをしたときのことを覚えていたからであった。
そのような特別な配慮をやめろと言うことは、あらゆる学生を、一律に、均質に、あたかも〈工業製品〉のようにみなせと言うことである。
それを「平等」とは呼ばない。
それは「画一化」に過ぎない。
そして〈工業製品〉が人間扱いされることは永久にないのだ。
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