見出し画像

『チェンソーマン』を観て ー少年よ、老人よ

主人公のたくましい非人間性=野性

昔の教え子(現アラサーマダム)が『チェンソーマン』に登場する「姫野先輩」のコスプレ画像をおくってくれた。しかし私は『チェンソーマン』を未見だったので、アニメでイッキ見をした。面白かった。

悪魔退治のチームがいる。主人公のデンジくんは半分悪魔で半分人間。彼の先輩が姫野さんで、チームのお姉さん的存在だ。デンジくんを自分のベッドに誘うなど、悪ふざけもするけれど、明るく元気で頼りになる先輩だ。
ところが敵に殺されてしまう。
私が面白いと思ったのは、彼女の死に直面したデンジくんの反応だ。指導教官が現れ、質問をする。

教官「仲間が死んでどう思った?」
デンジ「べつに~。」
教官「敵に復讐したいか?」
デンジ「復讐とか暗くてキライだね。」
教官「ひとと悪魔、どっちの味方だ?」
デンジ「俺の面倒、見てくれるほう。」
教官「素晴らしい。大好きだ。」

デンジくんのたくましい非人間性=野性(手塚治虫『バンパイア』のロックみたいな)が明るく楽しく描けている。私はアニメのシーズン1を観ただけだが、今後のデンジくんの成長が期待される。

少年漫画の緊張感

少年漫画にはイデオロギーがある。主人公は「強くなりたい」と願い、自分よりも巨大な敵に真正面から立ち向かっていく。そうして主人公は〈自分のため=他人のため〉となる戦いの大切さを学んでいく。

現代社会では、自分の弱さをウリにし、匿名性という陰に隠れ、自分のことしか考えない文化が蔓延しているが、これに対し、少年漫画のイデオロギーは実に健康的である。
教育に良いと思う。

しかし少年漫画には限界がある。
その理想主義的なイデオロギーを、少年が大人ではない(=性を知らない)ことのうえに置いている点である。

通常、ある人物を創作するときは、物語の進行には直接関係がないところまでも想像することで、リアルな像を作り上げる。例えば物語のうえでは、喜んだり楽しんだりしかしていなくても、その人物がどのような状況で怒ったり哀しんだりするのかを想定しておくことが、その人物のイメージに深みを与える。だから例えば主人公が朝食に米と味噌汁と納豆を食べるのか、それともパンとジャムを食べるのか、そんな食生活上の違いが大事になる。

ただ、問題となるのが性生活だ。べつにわざわざ映像化する必要はないが、それでも登場人物がどのような夜の営みをおくるのかをなんとなく想定できるか否かが、リアルなイメージ作りには大事になる。(例えば青年漫画『ゴールデンカムイ』のリアリティは、登場人物が旧大日本帝国陸軍の軍人たちだから、おそらく兵舎の周囲には遊郭があるのだろうと想定できる。その程度でじゅうぶんなのだが、やはり大事なポイントなのだ。)

さて、少年漫画の場合、通常、性生活は想定外にせざるをえない。

ところが『チェンソーマン』のように暴力をテーマにすると、性を不問にすることが難しくなる。何故なら、暴力は〈規範からの逸脱〉という点で、恋にも性にも隣接しているから。

さらに敵が妖怪・呪霊・悪魔のたぐいになると、ますます性を不問にすることが難しくなる。何故なら、闇に潜む禍々しいものは、これまた性に近いから。

かくして少年漫画は暴力そして妖怪・呪霊・悪魔に接近すればするほど、自らがタブーとする性に近づいていく。つまりどんどん自己矛盾に追い込まれていく。しかしその緊張状態こそが、新しい想像力の開花を促すのではなかろうか。そしてそれは少年漫画のためには良いことなのだろうと思う。

easy revengeしようぜ

しかしながら私は老人だ。
そして老人の眼からこんにちの日本のエンタメを眺めれば、中高生が主役のものばかり目につく。けれども私には〈思春期のみずみずしさ〉など興味がない。

私の心は冬だ。
私の心は、土足で踏みつけられ、汚れた雪だ。
精神はしらけ、身体は冷たい。土にかえるのだろう。
救えなかった幾つもの愛がまぶたに浮かぶ。

もちろん年の功で、許すことも覚えた。
しかし忘れちゃいけない、伝えておかなくちゃいけない歴史もあるだろう。

生は苦なり、老は苦なり、病は苦なり、死は苦なり、
怨憎するものに曾ふは苦なり、愛するものと別離するは苦なり、求めて得ざるは苦なり、
略説するに五蘊取蘊は苦なり。

「剣をとる者は剣で滅び、愛に生きる者は十字架で死ぬ」とも言う。
たとえそうであるとしても、老人よ、裏切られた夢のために―
Easy revenge!

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?