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大学人の反実力主義と、左翼堕落の一因


大学の先生の劣等感


ふつうのひとには理解しがたいかもしれませんが、大学の先生のなかには、深い劣等感のなかで生きておられる、可哀想な方がおおぜいいらっしゃいます。
例えば、あくまでも一般論ですが、しばしば、短大の先生は四年制大学の先生に対して、私大の先生は国立大の先生に対して、留学経験のない先生は外国で学位を取得した先生に対して、日々悶々としておいでです。

わたしは劣等感が嫌いです。
だって劣等感って、暗くてジメジメウジウジした気持ちですから。
でもわたし、アッサリサッパリが好きなんです。

反実力主義者の弁明


困ったことに、劣等感のなかで生きていらっしゃる可哀想な先生は、必ずしも常にではありませんが、しばしば反実力主義の立場をとります。
つまり実力よりも実力以外のものを重視することで、自分よりも実力の面で優越している人々に復讐をする傾向があります。
もちろんわたしは実力以外のものの重要性を100%否定するつもりはありません。けれども重視しすぎることに疑問を抱くのです。

例えば実力がなくて縁故があるひと。
そういうひとは、自分は縁故を持つことができる能力があるのだ、なぜなら自分は人格者だからだという論法を使いつつ、教育や学内行政において人格は極めて重要だと主張して、自己正当化をはかります。
その結果、大学教員の評価において、論文の優劣だけではなく、人格の優劣が議題になります。
わたしは人格を考慮に入れることに必ずしも全面的には反対しませんが、他人様の人格を主要な議題にしてえんえんと論じるひとの人格を疑います。

さらにこんにち、大学人における縁故とは、いわゆる学閥だけを意味しません。
父上が有名な先生だというのも、縁故のひとつとです。
「世襲大学人」というわけですね。
たしかに子供の頃から家庭内教育で培われた「知」というものは存在すると思います。
ただひとつだけ言えるのは、世襲大学人は、世襲国会議員を世襲だからという理由で批判することはできないということです。

またフェミニストの政治力の進展の結果、パリテの原則が部分的にですが採用されるようになりました。
染色体が、大学の人事において考慮に入れられるべき要素のひとつになったのです。
そのうち、目の色とか肌の色とかも、考慮に入れられるようになるのでしょうか。

後天的学習の価値の失墜


いずれにせよ実力以外のものを実力よりも重視しようとするとき、中心となるテーマは、その人間自身がしたことではなく、その人間自身が責任を取ることのできないこと、になります。
例えばその人間の属性(性別や年齢など)がテーマになります。
その結果、人間というものは属性に還元されて評価されるものだという思想が強くなります。
その結果、ある人間が自分の属性に反抗して得られたものは軽視されるようになります。(例えば自分の父親に反抗して得られたものが軽視される。)
わたしが恐怖するのは、まさにこの点です。
ひとびとの視線が、先天性原理に傾く、つまり保守的になるのです。

実際この10年あまりで、〈フェミニスト=革新派〉というイメージは覆されました。
フェミニストが、「性からの解放」ではなく、「性の権益拡大」の視点から反実力主義的政策を推進したのが、その一因です。

そもそも勉強をするとは、後天的な学習によって得られた実力によって、先天的に与えられた現状を変革していく営みだと、わたしは信じます。

わたしだったら、あなたの染色体に関係なく、あなたの出身校に関係なく、あなたの肌の色に関係なく、ただただあなた自身が為してきたことから判断して、あなたがこの役割にふさわしい能力の持ち主だと判断したから、我々はあなたにこの役割を任せます、と言われた方が嬉しい。
そのほうが自分の実力を思う存分、クリエイティブな方向で活用できると思うから。

おそらく日本が変わらないのは、劣等感にまみれた可哀想な反実力主義者がたくさん存在するから。
たとえ彼らが自分で自分を「左翼だ」と唱えていたとしてもね。
だってフェミニストやポストコロニアリストのような新興勢力に限って、自分たちの正義(あるいは権益)の拡大のために、反実力主義に訴えるでしょ。
おそらく勝利を目的とするのではなくて、どのように戦うか、戦い方にこだわるのが大事なのだろう。

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