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細川ガラシャは怒っているか? -過去の使用方法について

静岡県知事川勝氏が辞任したさい、細川ガラシャの辞世の句「散りぬべき 時知りてこそ 世の中の 花も花なれ 人も人なれ」を引用して、自分のいまの気持ちを表した。
これに対して『ABEMA的ニュースショー』は、細川ガラシャの子孫は「みんな怒っている」と報じた。

三つのことを考えねばなるまい。
川勝氏の引用は適切か、否か。
細川ガラシャの子孫の怒りは適切か、否か。
これを報じた『ABEMA的ニュースショー』のジャーナリストとしての姿勢は適切か、否か。

過去のコンテクストからの切り離し

過去の引用はしばしばコンテクスト(往時の状況)から切り離されて為される。
その結果、意味が変容することもある。そのとき政治文化的闘争が発生することもある。
例えば第2次世界大戦期の「従軍慰安婦」。私見によれば、「従軍慰安婦」と呼ばれる人々の中には、性奴隷と呼ぶにふさわしいひとも確かにいたとはいえ、またそれと同時に高級娼婦と呼ぶにふさわしいひともいた。しかしこんにちの日韓左翼陣は、過去の多様な諸事実から、自分の政治的主張にとって都合が良い部分だけを切り離して「従軍慰安婦は性奴隷だった」と単純化する。

もっと身近な例を出そう。例えば「情けは他人(ひと)のためならず」という言葉。昔々、相互扶助的文化が機能していた頃、この言葉は「他人に情けをかけるのは、他人のためというよりも、自分のためです。他人にかけた情けはめぐりめぐって自分にかえってきます。だから積極的に他人に情けをかけましょう」の意で用いられていた。しかし最近、個人主義的(エゴイスト的)文化が普及するにつれ、この言葉は「情けをかけるのは他人の自立を阻害するので、してはいけません」の意で用いられるようになった。つまり現代人は自分たちに都合よく、いにしえのコンテクストを無視して、「情けは他人のためならず」という言葉の意味を変えたのだ。

あるいはキリスト教に起源を持つ文化的実践。クリスマス復活祭ハロウィンなど。
日本でこれらが実践されるとき、まさに本来の起源から、そして過去のコンテクストから、いちじるしく外れて行われる。実際、僕のようなキリスト者は、日本における仏教徒のクリスマス・フィーバーを、なかば困ったものだと思い、なかば滑稽だと思い、仕方なく微笑むだけである。とはいえそれを「原始キリスト教の信者たちに対して無礼千万だ」と怒ることもないし、絶対悪だとも思わない。

いろいろな事例を想起するとき、過去のコンテクストから外れた使用方法がすべて悪いとは言えないのではないかという気持ちになる。

『ABEMA的ニュースショー』の記事に思う

たとえ川勝氏の、細川ガラシャの辞世の句の引用がコンテクストから外れていて、適切ではなかったとしても、それを細川家の子孫が「無礼千万だ」と弾劾できる理由がどこにあるのか。
細川家の子孫は、ガラシャの辞世の句には彼女の「信念」が込められているのだと説く。どのような信念なのか、記事からはよくわからない。自殺をしないというキリスト者としての信念か。しかし自ら、部下に命じて殺させたのは、自殺だと言わないのか。それとも父や夫との約束を遵守したことか。しかし妻は夫の奴隷ではなかろうに。そもそもガラシャには夫と約束をしないという選択肢があったのか。僕に言わせれば、ガラシャは家父長的権威主義の犠牲者にすぎない。

そもそも何故『ABEMA的ニュースショー』は辞世の句の引用に関して、日本の戦国時代の専門家に質問をするのではなくて、ガラシャの子孫に質問をしたのか。
ガラシャの辞世の句の正確な理解ができるのは、ガラシャの子孫だけだと判断したのか。
また、果たして子孫は血が繋がっているという理由だけで、ガラシャの「あの世」での現在の気持ちを代弁する権利を持ちうるのか。
そもそも『ABEMA的ニュースショー』はガラシャの子孫が「みんな怒っている」と見出しで唱えるが、ほんとうに子孫「みんな」にインタビューしたのか。

しかしこうした「報道」がふつうに為され、ふつうにPCをとおして僕の目にとまるのが、この日本という国なのである。
寛容な読者諸氏は、僕がどれだけ日本人の民度を嘆き悲しんでいるか、そしてどれだけこの国での生活に疲れ果てているか、おわかりでしょう?

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