【(仮)アル添の歴史・原案】前編:シェリーと柱焼酎のつながりを探る

まえがき


お久しぶりでございます。
しばらくnoteの発信をしておりませんでした。
正直なところ、粕取焼酎の歴史研究は行き詰っており、これ以上進めるためには現地調査や聞き取りが不可欠だな…と痛感しています。
一方、自分自身が子育て中の主夫(兼業主夫)ということで、遠方に長期外出するチャンスが少ないため、まあ、そのうち…と気長に構えているところです。

そんなある日、クラウド上のデータを整理していると、気になるドキュメントを見つけました。
タイトルは「アル添の歴史メモ」
そう言えばそんなの書いたな…と中身を読んでみると、意外にもそこそこの分量だったので、記事にできるかも…と思って整えてみました。

結論を先に書いてしまうと、粕取焼酎と同じく、アル添の歴史についても「証拠が不足しているため真相は分からない」ということになります。
一方で、今後の「(仮)アル添の歴史」の執筆に向けて、追加で調査すべき事項(ミッシングリンク)がより明確になったことは、大きな収穫と言えるでしょう。

序 アル添をめぐる歴史認識の問題


「アル添」とは、「アルコール添加」の略称(スラング)であり、日本酒の製造工程で醸造アルコール(連続蒸留器で製造されたほぼ無味無臭のアルコール)を添加する技法
のことをいいます。
アル添加が行われるようになったのは明治時代以降です。
その目的は、「腐造・火落ち防止」、「増量」、「香味の調整」、「凍結防止」など多様であり、その時々のニーズに応じて、異なる目的(時に複数の目的)を狙って添加が行われます。
現代は「香味の調整」を主眼として行われています。

他方、これと類似した技法として、江戸時代から日本酒の醪への焼酎添加が行われてきました。
例えば、酒造技術書『童蒙酒造記』(1687年刊行という説が有力)には、次のような記載があります。
この技法は、後に「柱焼酎」と呼ばれれるようになります。

「醤酎(焼酎)を薄く取り、揚前五三日前に一割程酷(もろみ)の中へ入る也。依風味洒として足強く候、醤酎香ハ酷に除く也。」

(当方現代語訳)「焼酎を少し取り、上槽の5日~3日前に一割程度もろみの中に加える。これにより酒の風味がきりっとして日持ちが良くなる、焼酎の香りは醪から取り除かれる。」

出典:『日本農書全集 第51巻 農産加工2 童蒙酒造記・寒元造様極意伝』

近代以降に行われるようになった「アル添」と、江戸時代から行われていた「柱焼酎」は、「醸造酒に蒸留酒を添加する」という技法だけを見れば、同一の系譜ということができます。
しかし、添加の目的、当時の酒造技術・酒質などを考慮すれば、そうとも言い切れない部分があり、関係者の間で見解が分かれています。
以下、少し長いですが、Wikipediaから引用します。

現代の「アルコール添加」との関係

(当方補足:『童蒙酒造記』の記載における)「味がしゃんとし」とは、すなわち「味がしまる」「辛口になる」といった意味に読める。したがって、現在の日本酒の製造工程におけるアルコール添加の原型であるとする識者は多い。これはすなわち「今日のアルコール添加は柱焼酎にまで遡ることができる伝統的な技法である」とする立場である。
当時は現代のような醸造アルコール(連続式蒸留焼酎)を作ることができなかったので、せめて当時に存在するアルコール度数の高い飲料である焼酎を用いたのだという考え方である。

これに対して「今日のアルコール添加の原型に柱焼酎という伝統的な技法を見ることはできない」とする立場がある。それは次のような理由による。
1.江戸時代の日本酒は、現代の平均的な清酒に比べると、はるかに甘く重く、ちょうど今日の味醂のような酒質であった。これを「しゃんと」させるのと、現代のすでに十分に辛い日本酒に外から別のアルコール成分を入れるのとは意味が違う。
2.柱焼酎は腐造を防止するのが目的であったが、安全醸造が確立されている今日では腐造の危険はほぼ考えなくてよいので、その目的においてならば添加する必要はないはずである。現に、今日のアルコール添加は別の目的で行なわれている。
3.『童蒙酒造記』には、まず質の良い米焼酎の造り方から書いてあり、その記述どおりに造れば原価も手間も大いにかかる。原価や手間を省くためにアルコール添加を行ない、それを『童蒙酒造記』に書いてある柱焼酎の現代版だと主張するのは筋が通らない。

出典:Wikipedia「柱焼酎」

当方は、この論争からは距離を置き、シンプルに「日本酒への蒸留酒添加の歴史」を対象として、以下の二つのテーマについて調査を進めました。

  • 前編:シェリーと柱焼酎のつながりを探る

    • 江戸時代前期

    • 日本酒への蒸留酒添加の始まりである「柱焼酎」と、同様の技法によって製造されるシェリーの影響関係を探る。

  • 後編:柱焼酎からアル添に至る系譜を探る

    • 明治時代以降

    • 近現代の酒の歴史を俯瞰しつつ、日本酒への蒸留酒添加の歴史を検証し、現在のアル添に至る系譜を探る。

では、本題に入ります。

前編:シェリーと柱焼酎のつながりを探る

1 柱焼酎のはじまりとシェリー

柱焼酎はいつ始まったのか、どこで始まったのか、誰が始めたのか…実は、何もわかっていません。
現時点の最古の記録としては、前出の通り酒造技術書『童蒙酒造記』(1687年刊行説が有力)があります。

ここで、ひとつ興味深い証言があります。
かの剣菱酒造の白樫社長による、日本酒のアルコール添加の手法は「酒精強化ワイン」の影響を受けて始まったとする説です。

「黒松剣菱」は熟成期間は3~5年、醸造アルコールが添加された本醸造酒です。曰く、アルコール添加の手法は17世紀にスペインやポルトガルの影響を受けて始まったそう(酒精強化ワインみたいな感じ?)

出典:SAKE TIPS! 酒蔵見学レポート:剣菱酒造
http://saketips.love/kj-sakura006-jp/

酒精強化ワインは、主に地中海沿岸地域で作られており、酸化・腐敗防止など保存性を高めると同時に、味わいに個性を持たせるために、蒸留酒(ブランデー)を添加する技法を特徴としています。
なかでも、長い歴史を持ち、世界的に知名度が高い次の三つは、「三大酒精強化ワイン」と言われています。
(これ以降のシェリーに関する記述は、中瀬航也氏の書籍『Sherry - Unfolding the Mystery of Wine Culture』を読んだ上で、その参考文献をできるだけ確認し、整理しています。)

  • シェリー:スペイン南部アンダルシア地方が産地。17世紀までには酒精強化が行われていたと考えられている。

  • ポートワイン:ポルトガル北部のドウロ川沿岸が産地。17世紀後半に酒精強化が始まったと考えられている。

  • マデイラワイン:モロッコの西600キロの海上にあるマデイラ島(ポルトガル領)で作られる。18世紀中頃に酒精強化が行われるようになったと考えられている。

ここで注目して頂きたいのが、酒精強化の技法が始まったと考えられる時期です。
日本酒の柱焼酎の最古の記録は、17世紀後半の『童蒙酒造記」ですが、シェリーはその頃に酒精強化が行われていたと考えられているのに対し、ポートはギリギリ、マデイラはまだ始まっていません。
加えて、ポートワインの輸出量が急増したのは、ポルトガルとイギリスによるメシュエン条約の締結(1703年)以降のことです。

以上から、仮に、日本酒のアルコール添加の手法が酒精強化ワインの影響を受けて始まったとすれば、その立役者はスペインのシェリーである可能性が高いと言えます。

次に、日本におけるシェリー受容の歴史を整理してみましょう。

日本最古のシェリー伝来の記録としては、1611年、スペインの太平洋艦隊司令官セバスチャン・ヴィスカイノを乗せたサン・フランシスコ号が来日し、徳川秀忠と謁見する前に、ヴィスカイノと秀忠の家臣がシェリー(へレス酒)で乾杯を交わしたというものがあります(出典:村上直次郎『ヴィスカイノ金銀島探検報告』)。
また、それから3年後の1614年、平戸イギリス商館のリチャー・コックスがシェリー(サック:英語)を飲んでいたという記録があります(出典:永積洋子『平戸オランダ商館日記』)。

これらの記録を見る限り、17世紀初頭の「シェリー伝来」が日本酒の醸造技法に影響を与えた可能性は否定できないものの、酒造技術の移転につながるような濃密な交流が感じられません

2 慶長遣欧使節とシェリー

では、別の可能性を考えてみましょう。

ここで、日本とシェリーの母国スペインの接点として浮上するのが、学校の教科書にも登場する「慶長遣欧使節」です。
1613年(慶長18年)に、仙台藩主の伊達政宗が、フランシスコ会の宣教師であるルイス・ソテロを正使、支倉常長を副使として、スペイン国王・フェリペ3世、およびローマ教皇・パウロ5世のもとに派遣したものです。

石黒建大さんという方が、この使節団が酒造技術の伝来を担ったのではないかとする、魅力的な仮説を提唱されています。

実は、私もこの可能性を想定して、以前から慶長遣欧使節に関する本などを当たり、情報を探ってきました。
以下、慶長遣欧使節の足跡を整理し、シェリーとの接点を整理していきます。

最初に、慶長遣欧使節を介して酒造技術が伝わる「条件」について、次の二つを考えてみました。

  • 【条件1:酒造人材の渡欧】遣欧使節のメンバーのなかに、酒造りの工程を理解し伝達できる人材がおり、渡欧したこと。

  • 【条件2:シェリー産地訪問】上記の人材が、シェリーの産地(理想的には醸造所)を訪問したこと。

【条件1:酒造人材の渡欧】

伊達家文書の記録によれば、使節団の構成は次の通りです。
 ・武士:20名
 ・南蛮人:40名
 ・素性の知ない商人など:120名
当時の仙台藩では、藩主伊達政宗が、当時の酒造先進地であった奈良から酒造家が呼び寄せられ、仙台城内で藩営の酒造りが行われていました。
以上から、酒造りに従事していた職人などが「素性の知れない商人など:120名」に含まれている可能性があります

上方からの酒造技術導入が最初に実施されたのは恐らく仙台藩においてであろう。藩主が飲む酒を御膳酒、御膳酒をつくる酒屋を御用酒屋と呼ぶが、仙台藩では奈良出身の榧森家が代々御用酒屋を務めた。 初代榧森又右衛門が慶長十三年(一六〇八)、柳生但馬守の紹介で伊達政宗に是非にと召し抱えられ、「城内詰御酒御用」を命じられたのがはじまりである。その頃はまだ伊丹や灘 が名醸地となる前で、酒といえば奈良産が第一等だったのである。
城内三ノ丸の清水が湧く場所に五間×十六間の酒蔵を建設し、毎年四百五十石の酒造米が無償で与えられ、酒造道具一式、労働力、榧森の住居まですべてが提供されるという破格の待遇だった。 こうして仙台において奈良流の酒づくりが開始され、さらに榧森の推薦で奈良からほかに岩井家も呼ばれることになった。

出典:吉田元『江戸の酒 その技術・経済・文化』

また、使節団のうち名前の記録があるのは、『貞山公治家記録』の12名分と、ローマの入場記録の16名分のみとなっています。
以下、ローマの入場記録の16名を紹介します。

■武士
ドン・フィリポ・ハセクラ・ロクエモン (支倉六右衛門)
ドン・トマス・カミオヤジエモン (神尾弥治右衛門)
ドン・ルカス・ヤマグチ・カンジュロウ (山口勘十郎)
ドン・ショアン・サトウ・タロザエモン (佐藤太郎左衛門)
ドン・パウロ・カミルロ・コテラ・ゲキ (小寺外記)
ドン・シモン・サトウ・クラノジョウ (佐藤内蔵丞)
ドン・トメ・タンノ・キウジ (丹野久次)
■商人
ドン・ペドロ・イタミ・ソウミ (伊丹宗味) :摂津の商人→注目・後述
■不明、その他
ドン・トマス・タキノ・カヘオエ (滝野嘉兵衛) :山城の住人
ドン・フランシスコ・ノマノ・ハンベエ (野間半兵衛) :尾張の住人
ドン・ジョアン・ハラダ・カンエモン (原田勘右衛門) :?
ドン・ガブリエル・ヤマザキ・カンスケ (山崎勘助) :?
ドン・グレゴリオ・トウクロウ (藤九郎) :下僕
ドン・トマス・スケイチロウ (助一郎) :下僕
ドン・ディエゴ・モヒョウエ (茂兵衛) :下僕
ドン・ニコラス・ジョアン・キュウゾウ (九蔵) 下僕

上記のなかで、ドン・ペドロこと伊丹宗味が注目されます。
宗味は堺の豪商で、徳川家康の庇護のもとで朱印船貿易に従事し、日本とフィリピン(当時はスペインの植民地)を行き来していました。
また、若い頃から敬虔なキリスト教徒だったこともあり、ワイン(シェリー)と馴染み深かった可能性もあります。
これら16名のなかでは、酒造技術を伝えた可能性が最も高い人物だと思われますが、如何せん証拠が見つかっていません。

【条件2:シェリー産地訪問】

続いて、使節団がシェリーの産地を訪問したかどうかを確認します。

1613年10月 仙台藩領の月の浦(宮城県石巻市)を出発
(太平洋・メキシコ・大西洋経由)
〃 10月 スペイン・サンルカールに到着
  【シェリー産地付近】  
  ・サン・ルカールに10日間滞在
    第 7 代メディナ・シドニア公の歓待
  ・コリア・デル・リオに数日間滞在
    使節の約半数がこのまま滞在したという説あり

  ・セビリアに約一ヶ月滞在
〃 12月 スペイン・マドリードに到着・長期滞在
1615年10月 イタリア・ローマに到着・約二ヶ月滞在
1616年1月 スペイン・セビリアへ到着
  【シェリー産地付近】  
  ・コリア・デル・リオ近辺に1年以上滞在(諸説あり)
1617年7月 スペイン・サンルカールから出発
(大西洋・メキシコ・太平洋経由)
〃 8月 フィリピン・マニラに到着
1620年9月 常長は便船で日本へ帰国

ここで注目されるのは
シェリーの産地である「サン・ルカール」の滞在(10日間)
・産地から近い「コリア・デル・リオ」付近の長期滞在(諸説あり)

です。

前者の「サンルカール」は、シェリー産地の中核である「シェリー・トライアングル」の一角に当たります。
使節団の滞在期間がわずか10日であり、歓待の行事等があったため、シェリー醸造所等を訪問したとは考えにくいのですが、当地の統治者であるメディナ・シドニア公から歓待を受ける中で、当地の醸造文化に触れ、刺激を受けた可能性はあるでしょう。

シェリー・トライアングル
出典:ENOTECA online(https://www.enoteca.co.jp/article/archives/9610/)

後者の「コリア・デル・リオ」は、サンルカールから北東80km程度の場所にあり、シェリーの産地から少々離れています。
滞在期間と場所には諸説ありますが、何れのパターンでもコリア・デル・リオ付近で一年以上過ごしたことになります。
使節団とシェリーの関りを示す資料は存在しませんが、一年以上も過ごせば、当地の酒文化に馴染んでいたでしょう。
また、滞在場所の有力候補であるロレト修道院は、フランシスコ会に所属しています。
フランシスコ会は古くからワイン栽培を力を入れていることから、修道院を介して醸造技法と接点があった可能性も考えられます。

余談ですが、コリア・デル・リオは、「ハポン」(日本)という名字を持つ人が多くいることで知られています。
この名字はとても珍しいうえに、子供にはアジア人と同じく蒙古斑があったり、スペインでは珍しい稲の苗床栽培が見られるなど、日本人との繋がりを伺わせる事柄が多くあるそうです。
彼らは、使節団のうち日本に帰国せずスペインに残った人物の子孫であるという説もありますが、真偽のほどは定かではありません。

以上の二つの条件と事実関係を踏まえれば、慶長遣欧使節がシェリーの酒精強化の技法を持ち帰り、柱焼酎に影響を与えたという説は、時間・空間的な辻褄は合うものの、証拠が無いため何とも言えないということになります。

3 貝原益軒『大和本草』とシェリー

時代を少しだけ先に進めて、17世紀後半~18世紀初頭の出来事を見てみましょう。
この時期は、徳川政権の安定、経済の発展などを背景に、酒を含む衣食住の文化が大きく発展しました。
こうした活気ある世相のなかで、身の周りの自然物・食品・飲料・薬品などを研究する「本草学」(博物学)が盛んとなりました。
そして、マスターピースである貝原益軒の著書『大和本草』(1708年刊行)の「巻之四 醸造類」に、何とシェリーと思われる記述があるのです。

南蛮より来る酒にぶどう酒,ちんだ,はあさ,につぱ,阿刺吉,まさきなど云,本邦に古よりいまだあらざる珍酒也。ちんだはぶどうにて作る,葡萄酒と一類也,はあさもぶどうと,せうちうにて作ると云,につばと云は,焼きかへしの消酎のよし,阿刺吉,まさきは,焼酎に鶏砂糖など入れ,料理して用ゆと云

出典:貝原益軒『大和本草』

太字の箇所では、ブドウを原料とする二種類の酒が解説され
ています。
ちんだ」 → ぶどうにて作る,葡萄酒と一類也
・「はあさ」 → ぶどうと,せうちう(=焼酎)にて作ると云

このうち「ちんだ」は、中瀬航也氏が指摘している通り、シェリーと同じ地方での「ティンタ Tinta」というスティルワイン(酒精強化でも発泡性でもないワイン)だと考えられます。

当時、長期輸送が可能なワインは限られており、シェリーでなければポートワインでは? と言われることもあるのですが、先に触れたように、この時代には、まだポート・ワインは誕生していません。 逆に当時存在した証拠があり、輸送に耐えうるワインがスペインには幾つかありました。
その中にはとても興味深い、 ある赤ワインの存在があるのです。 それは現在でもヘレス周辺で少量だけ造られている「ティンタ Tinta」 (ティンティージャ・デ・ロタ種 Tintilla de Rota、別名:ヘレス Xerez) と、 スペイン南東部の 「アリカンテ」 (モナストレル種) というワインです。
これら2種のワインは1609年のオランダ向け輸出品目としても資料があり、それぞれ
●ティンテ
●アリカンテ
の名で出てきます。 オランダではワインは出来ませんから、彼らが日本に持ち込んだとしても、スペインなどから輸入されたものであることは想像に難くありません。

出典:中瀬航也『Sherry - Unfolding the Mystery of Wine Culture』

一方の「はあさ」については、「ぶどうと,せうちう(焼酎)にて造ると云」という酒精強化の記述があること及びその語感から、シェリーのスペイン語読み「へレス」が「はあさ」に訛ったものだと考えられます
ちなみに、むかしの日本語(和語)には「ラ行」が存在せず、中国から渡って来た単語はあったものの、発音が得意では無かったと言われています。

貝原益軒は博物学の巨人ですが、酒の専門家という訳ではありません。
おそらく、同時期の伊丹・池田などの酒造家も、酒精強化ワインの技法を知っていた可能性があると言えます。

4 前編まとめ

以上3つのトピックから言えることは、次の二点に集約されます。

  • シェリーの酒精強化が日本酒の柱焼酎に影響を与えたという説は、時間・空間的な辻褄は合う。

  • しかし、直接的な証拠がない。

一方で、個人的には、日本で独自に柱焼酎が始まったという説もあり得ると思っています。
江戸時代の前期には、京・大坂や九州などで、既に焼酎が作られていた記録があります。
スペイン人がワインへの酒精強化を発案・実行したように、日本人が同様のことを発案・実行してもおかしくありません。
特に粕取焼酎は「廃棄物の循環利用」という性格を持っていたので、「色々なことに試してみよう」という創意工夫が働き、醪への添加に至った可能性もあるのでないでしょうか。

もう一点、最近、フィリピン(ルソン)の日本人町が、アル添に限らず多様な酒造技術の伝播においてが重要な役割を果たしていたのではないか…と注目しています。
その理由は次の三点です。

  • 江戸時代初期の日本・スペイン貿易は、実質的に日本・フィリピン(ルソン)貿易であり、ルソンが重要な対外交流の窓口となっていたこと。

  • フィリピン(ルソン)の日本人町は規模が大きく、日本人のみならず現地人・中国人などと雑居しており、東アジア・東南アジアを股に掛けた活発な交流の場となっていたこと。

  • この時期のフィリピンではカブト釜での焼酎製造が行われており、それがスペインのガレオン船貿易を介してメキシコに伝わり、メスカルの蒸留器に影響を与えていること(吉田集而氏の論)。

色々と想像は尽きませんが、ここで前編を終えたいと思います。

参考文献等

・中瀬航也『Sherry - Unfolding the Mystery of Wine Culture』志學社、2017
・永積洋子『平戸オランダ商館日記』 講談社学術文庫:、2000
・藤本義一 『定本洋酒伝来』 TBS ブリタニカ、1992
・村上直次郎 『ドン・ロドリゴ日本見聞録 ビスカイノ金銀島探検報告 (異国叢書 ; 第11巻)』雄松堂出版、2005
・佐々木徹『慶長遣欧使節: 伊達政宗が夢見た国際外交 (531) (歴史文化ライブラリー 531) 』吉川弘文館、2021
・大泉光一『支倉常長 慶長遣欧使節の悲劇』中央公論新社、1999
・松田毅一『慶長遣欧使節』朝文社、1992
・松田毅一『伊達政宗の遣欧使節』新人物往来社、1987
・中丸明『支倉常長異聞』宝島社、1994
・吉田元『江戸の酒 その技術・経済・文化』朝日選書、1997
・吉田元校注『日本農書全集 第51巻 農産加工2 童蒙酒造記・寒元造様極意伝』農山漁村文化協会、1996
・玉村豊雄『焼酎・東回り西回り(酒文選書)』TaKaRa酒生活文化研究所、1999
・(論文)岸野久「徳川家康の初期フィリピン外交―― エスピツトゥ・サント号事件について――」史苑35(1) 1974.09
・(論文)清水有子「徳川政権期の日本・スペイン外交文書(1)」※掲載誌、年度不明
・(論文)石黒建大「日本酒セールスプロモーション研究 日本酒の生酛系造りの手法(丹波流(灘)と能登流(能登・加賀))の違いによる 味わいの特性および販売市場特性に関する研究 (日本酒振興の為の提言・第4章(最終章)) 」令和3年2月24日
・(テレビ番組)「400年後の真実 慶長遣欧使節の謎に迫る」NHK、2017
・(ウェブサイト)「SAKE TIPS! 酒蔵見学レポート:剣菱酒造」(http://saketips.love/kj-sakura006-jp/)2023.5.16閲覧
・(ウェブサイト)「生酛本来の味に対しての疑問 その1 本日の紹介酒は、菊正宗 生酛本醸造 さけパック (兵庫県 灘)」(https://note.com/tatehiro639/n/n852c0a8a97fc)2023.5.16閲覧

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