【外伝:豪雨復興支援】球磨焼酎の歴史と魅力<前半:前書き&焼酎先史時代編>

私が球磨焼酎に関心を持ったのは、いまから約3年前、焼酎の師匠である新橋のバー「玉箒」のマスターと、友人congiro氏の奨めによるものでした。その後、自分なりに色々なタイプの商品を試す中で、とりわけ常圧・長期熟成商品の「全体として静かでありながら、芯の部分に米の風味が凝縮されている味わい」に魅了され、すっかりファンになってしまいました。

そして、2018年の年末に球磨地方への聖地巡礼を果たした直後、報告がてら「玉箒」を訪れたところ、マスターから「明治波濤歌」という一風変わった焼酎を奨められました。何やら明治時代以前の製法を再現した「復古酒」だとか。。。

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(※写真は現在自宅にあるものです。)

「明治波濤歌」は、明治時代の確かな文献をもとに、当時の製法を可能な限り忠実に再現して、現代によみがえらせた明治の球磨焼酎です。それは、室町時代から明治時代まで続いた造りによる球磨焼酎の原点となる味わい。原料はすべて玄米。そこに黄麹を育て、日本の酒造りのルーツといえるどんぶり仕込み。そして蒸留は兜釜蒸留。古い造りではあっても、香りは芳醇で、上品な甘さが感じられる味わい。これは、ひたすら深い味わいにこだわり続けた先人たちの知恵と情熱が込められた焼酎です。
出典:大和一酒造元ウェブサイト
https://www.yamato1.com/product/meijihatouka/

ひと口含むと、その味わいはまさに波濤が直撃したかのようなインパクト。現代の球磨焼酎のなかにも「文藏」「球磨の泉」「極楽」「武者返し」など、濃厚な個性を持つ製品がたくさんあります。しかし、この「明治波濤歌」はまるで別の次元でした。米の外側の味をまるごと飲み込んだ風味は、濃厚というだけではなく大地に根差した力強さに溢れ、私が愛してやまない正調粕取焼酎に通じる世界観がありました。そして、味わい以上に、製品に込められた歴史と文化に強く惹かれ、ますます球磨焼酎に惚れこんでいきました。

話題は昨今に移ります。
このたび九州を襲った豪雨は、球磨焼酎の製造・流通・消費に大きな被害を及ぼしています。そして、この「明治波濤歌」を製造する「大和一酒造元」は最も大きな被害を受けた焼酎藏の一つであり、藏は全損、原酒2万リットルが流出し、再建には数億円の費用がかかるということです。

私たち消費者が被災した酒蔵を支援するには、情報の拡散、応援買い、義援金、ボランティア参加など、様々な方法があります。これまでも自分なりにできることを考え、実行してきましたが、さらに「書いて支援」ということで、「明治波涛歌」のスピリットを踏まえ、球磨焼酎の歴史を紐解いてみようと思います。

■そもそも「球磨焼酎」とは

球磨焼酎とは、簡単に言うと「熊本県南部の球磨地方(人吉市及び球磨郡)で造られる米焼酎」です。より詳しい内容を知りたい方は、以下の「地理的表示」(GI)の内容をご覧ください。

原料(米、米麹、水)
・原材料の穀類として国内産米のみを用いる
・国内産米から製造された麹のみを用いる
・球磨郡または人吉市で採水した水のみを用いる
製法
・発酵および蒸留が球磨郡または人吉市で行われている
・米、米麹、水を原料とした醪を単式蒸留器により蒸留している
・米麹および水を原料とした醪は、その1次醪に米麹と水を加えて更に発酵させたもののみとする
・貯蔵は球磨郡または人吉市で行う
・出荷容器への詰め替えは球磨郡または人吉市内で行う

球磨焼酎の誕生以降、ここに書かれている原料・産地の大枠は大きく変わっていませんが、製法については明治以降の近代化によって変化しました。以下では、時代を追って、球磨焼酎の成立と変容を追っていきます。

■球磨焼酎最古の記録

我が国最古の焼酎の記録は、1546年に薩摩国山川(薩摩半島の南端部)に上陸したポルトガル商人、ジョルジェ・アルバレスによる報告だと言われています。

「日本には、米からできたオラーカおよび身分の上下を問わず皆が飲む飲み物がある」
注:オーラカとは、東南アジアの蒸留酒のこと。

さらに、その13年後、1559年の記録として、鹿児島県伊佐市の郡山八幡神社で「焼酎」という文字が書かれた棟札が見つかっています。

「永禄二歳八月十一日 作次郎 鶴田助太郎 其時座主は大キナこすてをちやりて一度も焼酎ヲ不被下候 何共めいわくな事哉」
(訳:1559年8月11日 作次郎 鶴田助太郎 この時の住職はまことにケチで一度も焼酎をふるまってくれなかった なんとも迷惑なことだ)

郡山八幡神社の一帯は、現在は球磨地方の外側に位置しますが、この当時は球磨地方の領主である相良氏が領有していました。そして、当時はまだ芋焼酎の原料であるサツマイモが琉球から薩摩に渡来していなかったため、ここに書かれている焼酎の原料は米又は雑穀だと考えられています。以上2点から、この棟札は「球磨焼酎最古の記録」であると考えられています

これらの記録を踏まえれば、遅くとも16世紀中ごろ(戦国時代)には、球磨焼酎の原型となる米や雑穀の焼酎が存在したと言えます。また、前者で「米からできたオーラカ」を「身分の上下を問わず皆が飲む飲み物」を区別していること、そして、後者で「(僧侶が)ふるまってくれなかった」とあることから、当時の焼酎は庶民がめったに飲めない酒だったと考えられます。

と、ここまでは書籍、論文、インターネット等に数多く掲載されている情報です。

このnoteを書くに当たって、私はもっと前の時代のことを知りたいと思い、手を尽くして情報を探索しましたが、1546年以前の焼酎の歴史について本格的に言及している情報源は見つかりませんでした。なぜなら、歴史研究の対象とするためには、その根拠となる史料、道具、痕跡、建造物などの存在が不可欠だからです。これらが存在しない以上、専門家としては「書かない」ことが誠実な態度だと言えます。

そこで、ふと思いました。一介のアマチュアである私ならば、根拠が無い空理空論であることを自認しつつ、まだ誰も本格的に手を付けていない1546年以前の歴史に踏み込んでも良いのではないか。そんな訳で、恐れ多いことだと理解しつつも、この時代を独自に「焼酎先史時代」と名付け、自らの想像力を頼りに書き進めて行きます。

■はじまりは「どぶろく」から?

南九州(熊本県、鹿児島県、宮崎県)は世界有数の火山地帯であり、現在でも阿蘇山、桜島、霧島山などが噴煙を上げ、時に噴火することもあります。それ故、地表面には過去の噴火に伴う火山灰が降り積もり、米作に適さない土地(例:鹿児島のシラス台地)が広く分布しています。
こうした中にあって、熊本県最南部に位置し、九州山地の険しい山々に囲まれた球磨地方は、南九州では珍しい「米どころ」となっています。

現在の球磨地方には米焼酎蒸留酒)の蔵元が28ある一方で、日本酒など醸造酒の蔵元は一つもありません(2020年7月現在)。しかし、焼酎先史時代に全く酒が無かったかというと決してそのようなことは無く、稲作の伝来とほぼ同時に「どぶろく」(醸造酒)の生産が始まったと考えられます。(なお、前出のアルバレスの報告にあった「身分の上下を問わず皆が飲む飲み物」とは、どぶろくのことを指していたのかもしれません。)

世界の各地では、最初にビールやワインなどの醸造酒が誕生・普及し、蒸留技術の確立又は伝来後に、醸造酒を蒸留することによってウイスキーやブランデーなどの蒸留酒が誕生したと言われています。球磨地方もその例に漏れず、16世紀半ば以前に海外(琉球を含む)から蒸留技術が伝わり、醸造酒である米や雑穀のどぶろくを蒸留することによって、焼酎の製造が始まったと考えるのが自然だと思われます。

このような日本酒(どぶろくを含む)と球磨焼酎の関係性について、鮫島吉廣「焼酎の履歴書」の興味深い考察を紹介します。

清酒の酒母を蒸留したのが焼酎
焼酎はもともと清酒にならって造られていた。
黄麹菌による麹を造り、これに蒸米を加えて発酵させ(ドンブリ仕込み)、これを蒸留して焼酎を造っていた。清酒造りの第一段階である酒母(酛)を蒸留していたのである。
(中略)
日本において寒造りに不向きな暖地で、清酒もろみを蒸留して焼酎を造る流れは自然な成り行きだったと思われる。
出典:鮫島吉廣「焼酎の履歴書」イカロス出版、2020年、p96

つまり、清酒と焼酎の仕込み法はもともと同根でしたが、16世紀半ば以前に海外から蒸留技術が伝来したことにより、気候が温暖で清酒造りに不向きだった南九州では、清酒の仕込み工程の一段目以降が「蒸留」に置き換えられたというのです。

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果たして16世紀半ば以前の球磨地方で「清酒」が造られていたのか、また「段仕込み」が行われていたのか疑問はあるものの、球磨地方を含む九州では醸造酒をベースとして蒸留酒が誕生したという指摘は興味深いものがあります。

そして、球磨焼酎と日本酒(どぶろくを含む)のもう一つの共通点に「麹」があります。実は、球磨焼酎の麹は、今でこそ白麹や黒麹が使われているものの、もとは日本酒と同じく黄麹菌、それも空気中に存在する自然の黄麹菌によって製造されていました。ここで古式球磨焼酎「明治波濤歌」の説明文を見てみましょう。

そもそも黄麹にはアスペルギルス・オリゼーという学名がついていますが、「オリゼー」は稲を意味します。米の酒、米焼酎と黄麹とは切っても切れない関係があるのです。しかし、実は明治時代までは、種麹を使っていません。蒸した玄米に木灰を混ぜ一定の温度で放置しておくと自然と黄麹菌がお米に生えてくるのです。日本の風土の中でお米に自然に生えてきた黄麹菌。それを活かした焼酎。これが球磨焼酎の原点です。
出典:大和一酒造元ウェブサイト
https://www.yamato1.com/product/meijihatouka/

仕込み方法と同じく、麹菌についても、日本酒と古式球磨焼酎は「黄麹菌」という共通の根っこを持っていることが分かります。

球磨焼酎と日本酒は、同じく米を原料とする酒ですが、前者は蒸留酒、後者は醸造酒ということで間に「一線」が引かれがちです。しかし、このように焼酎先史時代への想像を膨らませると、両者が実はジャンルの垣根を超えた「兄弟」であるように感じられてきます。

■「蒸留」はいかにして伝わったのか?

続いて、球磨焼酎が誕生する直接のきっかけとなった「蒸留」です。かつて球磨焼酎の蒸留に使用され、「明治波濤歌」でも再現されている「兜釜式蒸留器」は、アジアで広く見られる古式蒸留器であり、室町時代に日本へと伝来し、明治時代まで広く用いられてきました。実物は大和一酒造元の動画をご覧ください。

過去のnoteでも再三指摘しているように、この兜釜式蒸留器が「いつ、だれの手で、どこに伝来したか」、そして「国内でどのように伝播したか」という実態は全くと言っていいほど分かっていません。

例えば、米元俊一「世界の蒸留器と本格焼酎蒸留器の伝播について-本格焼酎の古式蒸留器の伝播を香料学や調理学の立場から考える―」では、中国大陸から日本への蒸留技術の伝播について、以下4ルートの比較検討を行っています。

 ①インドシナ半島▶琉球経路説(最有力説)
 ②中国▶朝鮮半島▶対馬経路説
 ③中国南部▶東シナ海▶日本本土経路説
 ④中国(雲南)▶福建▶琉球経路説

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米元氏は、この中で「①インドシナ半島▶琉球経路説」を最有力と結論付けているものの、別の箇所では「本土の焼酎は琉球・中国・朝鮮の製法が伝えられて当然と考えられるが、実はかなり複雑である」としており、他のルートにも含みを持たせています。

そういうことなら、自力で球磨地方と海外をつなぐ「線」を見つけてやろう。。。

そう考えてインターネットを検索してみたところ、ある一人の人物が目に留まりました。鎌倉時代から幕末まで700年にわたって球磨地方を治めた相良氏の第16代当主・相良義滋(1489-1546)です。3代前の当主の庶子であった義滋は、困難の末に相良氏の内紛を収め、36歳にして家督を相続し(1526年)、内政に力を注いで相良氏を戦国大名へと成長させました。そんな義滋の代表的な業績の一つに「海外貿易」があります。

天文3年(1534年)1月16日から3月10日にかけて、長唯は現在の八代市古麓町上り山に鷹峯城(鷹ヶ峰城、古麓城)を築かせ、ここに居を移して、城下町も整備させた。
(中略)
天文8年(1539年)3月30日、予てより建造中の渡唐船・市木丸が完成したので、八代徳淵(徳淵津)で進水式を行った。徳淵は長唯の時代から相良氏の国内・海外貿易の拠点として発展し、この地域で最大の貿易港となった。長唯(=義滋)は、幕府の対明貿易を一手に任された周防の守護大名大内義隆と友誼を結び、船団護衛などの名目を取り付けており、琉球やその他とも交易をしていたことが伺える
出典:Wikipedia「相良義滋」

そして、義滋が海外貿易に力を入れた背景として、球磨地方の宮原という場所で銀が発見されたことが指摘されています。

この天文末年における相良氏の度重なる遣明船派遣行為の最大の契機となったのは、領内の宮原における銀鉱脈の発見と銀の産出にほかならないであろう。十六世紀半ば、中国に渡る日本船にとっての銀は、対明貿易上の商品であるのみでなく、現地に長期間滞在する遣明船乗船者たちが必要な食料や生活物資、あるいは日本への土産などを購入する際の支払い手段であった。
出典:鹿毛敏夫「アジアのなかの戦国大名 西国の群雄と経営戦略」吉川弘文館、2015年、p.29-30

球磨地方は山間部であり、海に面していませんが、当時の相良氏の支配領域はもっと広く、第12代・相良為続の治世であった1484年に球磨川の河口に位置する八代を領有しました。その後、一時的に八代を奪われたこともありますが、おおむね戦国時代(15世紀末~16世紀)の球磨地方は、相良氏の領土拡大によって「海に開かれていた」と言えます。
また、義滋は南方にも領土を広げ、薩摩国北部も領有しました。「球磨焼酎最古の記録」の棟札が発見された郡山八幡神社もこの領域に含まれます。そして、この記録(棟札)に記載されている年代は義滋が亡くなって13年後の1559年です。

空間、時間の辻褄が恐ろしいくらい合致します。
兜釜式蒸留器が相良氏の貿易ルートに乗って中国又は琉球から伝来したと想像すると、胸が高鳴るものがありますね。。。

また、もう一つの「線」も浮上してきました。戦国時代の九州と中国(明)は、貿易によって物資が行き交っていただけではなく、濃密な「人的交流」がありました。特に注目されるのが、西日本各地にあった「唐人町」の存在です。

「彼ら(筆者注:大内氏・相良氏・大友氏・島津氏らの西日本各地の戦国大名)は、みずからの領国内部で産出する硫黄や銀などの鉱物を資源として船にのせて中国江南沿岸域に接近し、明側が規定する海禁政策の表裏を巧みに使い分けながら貿易実利をあげていた。また、日本の戦国大名たちのこうした動きに対応するように、中国からも高度に専門的な能力を有した技術者や商人が日本に渡来し、「唐人」コミュニティーを形成しながら、九州を中心とした西日本の地域社会にとけ込んで、社会的機能を発揮していた。」
出典:鹿毛敏夫「アジアのなかの戦国大名 西国の群雄と経営戦略」吉川弘文館、2015年、p.164

上記の書籍にある「高度に専門的な能力を有した技術者や商人」の中に、酒造技術者が含まれていたという記載はありません。しかし、兜釜式蒸留器は器用な人ならば容易に製作できるシンプルな構造であり、また、前出の米元俊一氏の論文では、台所の「蒸し」調理を応用して蒸留器が出来上がったという指摘が見られます。
ということは、中国から渡来して西日本各地に居住するようになった「唐人」が、母国と同様の「蒸し調理器 兼 兜窯式蒸留器」を製作して自家蒸留を行い、それが周囲の日本人に伝わった可能性もあるのではないか。。。

これらの「相良氏貿易ルート伝来説」と「唐人町台所伝来説」は、現時点では根拠に乏しい空想です。しかし、16世紀の九州と中国の間で双方向的な物資・人的ネットワークが形成されていたことは確実であり、蒸留器・蒸留技術がそのネットワークに乗って伝来したことは、決して不自然ではないと思います。そして、真相はどうあれ、球磨焼酎にはアジアを股に掛けたグローバルなロマンが詰まっていると言えるでしょう。

前半の「前書き&焼酎先史時代編」はここまでとなります。
球磨焼酎の製造が本格的に行われるようになった江戸時代以降の歴史は、後半の「球磨焼酎発展&総括編」をお読みください。

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前半の参考文献
大和一酒造元ウェブサイト https://www.yamato1.com/product/meijihatouka/
鮫島吉廣「焼酎の履歴書」イカロス出版、2020年
米元俊一「世界の蒸留器と本格焼酎蒸留器の伝播について-本格焼酎の古式蒸留器の伝播を香料学や調理学の立場から考える―」『別府大学紀要』第58巻、2017年
鹿毛敏夫「アジアのなかの戦国大名 西国の群雄と経営戦略」吉川弘文館、2015年
本多博之「天下統一とシルバーラッシュ 銀と戦国の流通革命」吉川弘文館、2015年

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