【外伝:豪雨復興支援】球磨焼酎の歴史と魅力<後半:球磨焼酎の発展&総括編>

江戸時代を迎えると、球磨地方の史料に焼酎のことが現れるようになります。さらに、明治時代以降は焼酎の製造、流通などに関する具体的な記録が増加し、現在に至るルーツが見えてきます。
そこで、自由に空想を巡らせた前半とは対照的に、この後半は史料に基づいて球磨焼酎の歴史を追っていきます

■現代の球磨焼酎の分類とそのルーツ

現在、球磨地方(人吉市及び球磨郡)には27の藏元があり、200以上の銘柄の焼酎が製造されています。ここでは、製造方法によって大きく以下の3つのタイプに区分します。

①伝統製法:明治以前の製法を取り入れた「素朴で力強い米焼酎」
明治時代までの球磨焼酎は、「玄米、黄麹、どんぶり仕込み、兜釜式蒸留器」で製造されていました。この時代の製法の全部又は一部を取り入れた製品として、次のものがあります。
・大和一酒造元「明治波濤歌」:当時の製法を忠実に再現
・豊永酒造「玄米仕込 完がこい」:原料に有機玄米を使用(その他は通常の常圧蒸留と同じ製法)

②常圧焼酎:伝統製法を近代技術で改良した「しっかり濃厚な米焼酎」
大正時代から昭和初期にかけて、球磨焼酎の製造技術は「白米、白麹又は黒麹、二次仕込み、近代化した常圧蒸留器」へと改良され、これが現在「常圧蒸留」として販売されている焼酎のルーツとなりました。味わいは全体的に濃厚であり、特に長期熟成のものは筆舌に尽くしがたい奥深さがあります。

③減圧焼酎:現代の技術で製造した「すっきり爽やかな米焼酎」
「減圧蒸留」とは、1970年代に福岡県で開発された蒸留法で、すっきり爽やか、時に華やかやかな酒質に仕上がることが特徴です。球磨焼酎はこの減圧蒸留をいち早く採り入れ、1980年代の焼酎ブームでは芋焼酎や麦焼酎と並んで好評を博しました。現在球磨焼酎の中で最も生産量が多いタイプです。

また、①~③を横断する分類として、「熟成の有無」「熟成容器の違い(甕/タンク/樫樽など)」というバリエーションもあります。特に、近年増加している「オーク樽熟成」は、黄金色に輝く色彩と、オーク樽に由来するバニラのような風味が加わり、球磨焼酎に新たな魅力をもたらしています。

以下では、このような球磨焼酎のバリエーションが、江戸時代以降の歴史を通じてどのように出来上がってきたかを概観していきます。

■伝統製法の時代:江戸時代~明治中期

【江戸時代】貴重だった米焼酎

江戸時代、米は主食であることに加え、貨幣としての役割も持つ極めて重要な農産物でした。幕府はその生産・流通を厳しく制限し、その一環として明暦3年(1657年)から「酒造株」を持つ人しか酒を製造販売できないことになりました。

後の宝永7年(1710年)の『巡見使応対之覚』という史料によれば、球磨地方で酒造株を持ち、焼酎の製造販売を許されていた酒屋(焼酎蔵)は20軒、うち19軒は人吉城下にありました。また、同資料に「時分は酒少なく御座候故、麦焼酎など用い申し候」、「(酒屋は)春夏秋の雑穀にて焼酎を調え」とあることから、酒屋では冬場のみ米焼酎を造り、それ以外の季節は麦焼酎や雑穀焼酎を造っていたことが伺えます。一方、庶民による自家醸造・蒸留は自由であり、大麦や雑穀のどぶろくや、それを蒸留した焼酎が広く造られていたようです。

このように、江戸時代の球磨地方には多種多様な酒があったようですが、その中で米焼酎は「特別なもの」と見なされていたようです。高田素次「球磨焼酎のふるさと」(1987)は、凶作に伴う米焼酎の相次ぐ製造禁止が、茸山騒動(なばやまそうどう)という百姓一揆の遠因になったと指摘しています。

「人吉藩家老田代善右衛門の日記を見ると、文政11年(1828)8月26日の条に、「当秋大風洪水,其上虫入凶作、米穀払底に付,正酎(焼酎)煮調商売致候義、来月朔日より来丑(文政12年)3月中迄差留候。(中略)」とあり、米を節約するために善右衛門のとったこの非常手段が、この年だけでなく、凶作の年毎に常用されたため、遂に郡民の反抗を買うことになり、天保12年(1841)2月9日の茸山騒動の遠因となり、善右衛門は責を負うて切腹をせねばならないはめになったことは、気の毒の極みであった。
出典:高田素次「球磨焼酎のふるさと」1987年、p631

以上から、江戸時代は、米焼酎としての球磨焼酎が本格的に造られるようになり、しかも、地域を代表する酒としてのアイデンティティーが形成された時期であったと言えるでしょう。

【明治前期~中期】米焼酎の大衆化

江戸幕府に代わり実権を握った新政府は、富国強兵のための財源として酒税に着目し、酒の増産を図るため1871年(明治3年)に酒造株制度を廃止し、届出さえすれば誰でも酒造りを行えるようにしました。加えて、1873年の地租改正で税が「米の物納」から「貨幣の支払い」に変わったことで、各地域の米の流通量が増加し、全国的な酒蔵(清酒及び焼酎)の創業ラッシュとなりました。さらに、政府は、酒造業者からの要望に応えつつ酒税の増収を図るため、徐々に自家醸造酒への規制を強め、1898年(明治31年)ついに自家醸造を全面禁止しました。

上記のなかで、球磨地方でも、江戸時代は20軒しかなかった焼酎藏が急増し、自家醸造の解禁直後には早くも60軒、ピークの1901年(明治34年)にはが216軒にも達しました(清酒蔵も相当数含む)。一方、自家醸造の禁止に伴い、かつて庶民が製造していた大麦や雑穀を原料とするどぶろく、焼酎の文化は失われてしまいました。

ここで、税田徳「球磨焼酎に就きて」(1908年(明治41年))に基づき、当時の球磨焼酎の姿を見て行きましょう。まずは製造量です。

明治三十六年(1903年)
造石高(ほぼ米焼酎) 6,313.2石(=1136キロリットル)
輸出高(ほぼ米焼酎) 1,473石(=265キロリットル)
(上記の差し引きによる域内消費高 4840.2リットル)
輸入高 清酒 1,002石(=180キロリットル)
製造人員 161(おそらく焼酎蔵の数だと考えられる)
人口 75,235
其の他少量の濁酒もあり、泡盛芋焼酎等の輸入高は詳ならさるも、當業者の談によれは非常に多額なるものなり
出典:税田徳「球磨焼酎に就きて(前半)」1908年、p47
※カッコ内は筆者による補足

上記から、この年の球磨地方における一人当たり焼酎消費量を計算することができます。
・一人当たり焼酎消費量は11.6リットル、アルコール換算で5.2リットル(当時の米焼酎の標準的な度数である45度で計算)
・一人当たり清酒消費量は3.5リットル、アルコール換算で0.53リットル(清酒の標準的な度数である15度で計算)
・一人当たりアルコール摂取量は5.73リットル(上記の合計)
・上記以外に少量の濁酒、そして移入の泡盛・芋焼酎が相当あった模様

現代の一人当たり年間アルコール摂取量が約7リットル、それに対して当時の球磨地方で一人当たり5.2リットル(アルコール換算)の米焼酎が消費されていたことから、明治時代後期の球磨地方では米焼酎が大衆化していたと言えるでしょう。

続いて、製造方法です。復古酒「明治波濤歌」の製法が、この文献を基にしていることが良く分かります。

製麹法(玄米、黄麹)
凡て玄米を使用し、(中略)製麹の際種麹を使用する事なし
仕込法(どんぶり仕込み)
玄米麹七升、玄米煮飯二斗、汲水二斗六升の劉合にて内容七入斗の小桶に仕込む
蒸餾器及蒸餾法(兜釜式蒸留器)
蒸餾器は兜釜式なれとも、下釜等の構造総て他地方に於て見さる
出典:税田徳「球磨焼酎に就きて(前半)」1908年、p48~50を要約
※カッコ内は筆者による補足

熊本税務監督局の技手である税田氏は、この製法について随所で「幼稚」「不潔」「驚かさるを得ず」と形容しつつも、製品については「香味共に佳良にして殊に甘味強く、到底白米、粟、黍、芋製等の及ふ所に非す」と絶賛しています。
(余談になりますが、この記述から、自家醸造が全面的に禁止されるまで、球磨地方で粟や黍を原料とする焼酎が造られていたことが伺えます。)

■今日の「常圧蒸留」への道:明治末期~終戦直後

明治時代に入って製造量が増え、味わいも高く評価されていた球磨焼酎ですが、一方で、地域外から流入してきた安価なアルコール類との競争にさらされるようになり、それを契機として技術改良が始まりました。前記の税田徳「球磨焼酎に就きて」(1908年)に、この経緯が紹介されています。

・当時の球磨焼酎の製造法は効率が悪かったため、製造者組合が価格を高めに設定し、利益を確保していた
・一方、低所得者層は値が張る球磨焼酎を敬遠し、移入された芋焼酎、泡盛、そして新興のビールの需要が伸びつつあった。
・こうした中で、いくつかの地域外出身の蔵元が、玄米麹に代わる白米麹の使用、どんぶり仕込みに代わる段仕込みの採用などに取り組み始めた。
・その成果が広まると、保守的であった蔵元たちも、同年の鉄道(肥薩線)開通で泡盛や芋焼酎などが大量に流入してくることを憂慮し、組合を挙げて焼酎製造の研究所を設け、「改良仕込み法」に取り組むことになった
出典:税田徳「球磨焼酎に就きて(後半)」1908年、p46~47の内容を筆者が要約どんぶり

明治末期から昭和戦前にかけての技術改良の概要は、下記の表に示した通りです。

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以下では、球磨焼酎の近代化を取り上げた論文の記述を拾いつつ、それぞれの技術改良の経緯を追っていきます。

【玄米から、白米へ】

■各種論文の要旨
・明治時代末期に、地域外出身の蔵元が麹米に白米を使い始めた。
・大正の初め頃から、麹米として白米を用いた「片白仕込」が行われるようになった。
・1917年(大正6年)頃より、掛米の一部にも白米が使用されるようになった
・1917年(大正6年)~1931年(昭和6年)までの記録を見ると、麹米・掛米とも玄米・白米を使うケースがある。また、白米の状態は砕米であったり粗白米(低精白米)であったり様々である。
・1932年(昭和7年)以降1940年(昭和15年)までは変化はないが、一次仕込みの掛米に玄米を、二次仕込みの掛米に粗白米を使用したるものが80%を占め、球磨焼酎独特の風味維持に努めていた

球磨焼酎の原料は、「効率(アルコール収率)」と「品質(球磨焼酎独特の風味)」の綱引きの中で、徐々に玄米から白米への転換が進んだようです。

【黄麹・自然製麹から、黒麹or白麹・種麹へ】

■各種論文の要旨
・1907年(明治40年)、鹿児島の泡盛製造で沖縄から取り寄せた黒麹が使用された(本土で初めての黒麹の使用)。翌年には芋焼酎製造でも使用。
・1910年(明治43年)、河内源一郎氏が黒麹菌の分離・培養に成功。
・1921年(大正12年)頃、黒麹が鹿児島県の芋焼酎製造に幅広く普及。但し、鹿児島の米焼酎は昭和初期まで黄麹が優勢だった。
・明治時代末期、球磨焼酎の改良仕込み試験で、大阪樋口製の黄麹を購入して使用した。
球磨の米焼酎では、1940年(昭和15年)まで黄麹仕込みで、その後黒麹に代わるが、昭和25年でも27%は黄麹を使っていた。球磨では二次仕込み法とともに黒麹が広まった。

江戸時代まで、種麹は近畿・東海地方しか流通しておらず、それ以外の地方では「友麹法」(製造した麹をもとに麹菌を繁殖させる方法)が主流でした。そして、球磨地方では、麹室(地下の石藏)を掃除せずに使用することで、室内に常に麹菌が漂う環境を作り、そこで自然製麹を行っていたそうです。したがって、種麹を買うということは大きな変化であったと言えます。そして、黄麹から黒麹への移行は、芋焼酎よりだいぶ遅く、ゆるやかに進行したようです。

【どんぶり仕込みから、二段仕込み、二次仕込みへ】

■各種論文の要旨
・明治時代末期に、地域外出身の蔵元が「どんぶり仕込み」に代わり「段仕込み」を行い始めた。
・1917年(大正8年)から広く「清酒式二段仕込み」が行われるようになった。
・1942年(昭和17年)から「二次仕込み」(現在の製法)が行われるようになった。

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上記の仕込み方法の変化に関しては、先に鹿児島県の芋焼酎・米焼酎で「どんぶり仕込み→清酒式二段仕込み→二次仕込み」という技術改良が行われ、後に球磨地方の米焼酎がそれを取り入れた指摘されています。
このように、近代化の過程で、清酒の技術(二段仕込み)が芋焼酎に応用され、さらに芋焼酎の改良の成果が球磨焼酎に移転されたというのは、非常に興味深いところです、

【兜窯式蒸留器から、改良型蒸留器へ】

■各種論文の要旨
・鹿児島では、大正初期にボイラーの設置も普及し、江戸時代より使われていた兜釜式蒸留器が改良された。この新しい蒸留機でつくられた焼酎は南九州で「機械焼酎」とよばれ、蒸留能率、蒸留歩合を高めるに役立った。
・大正時代、球磨地方では蒸気吹き込み式蒸留が普及した。
・終戦直後の球磨地方では、ほとんど小型ボイラーを据え付け、醪タンクは鉄製二重底とし初め下方に蒸氣を通じ、醪を熱した後直接醪に蒸氣を吹き込み、馬首(大抵木製、一部錫製のものあり)を通して錫製蛇營冷却器に導く方法を採用している。

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※図の出典:菅間誠之助「本格焼酎製造業100年 の軌跡」(1975年)

球磨焼酎の蒸留器の近代化については、現時点では具体的な記録を見つけることができません。おそらく、大正時代初期に鹿児島県で普及した蒸気吹込み式の改良型蒸留器が、球磨地方でも少し遅れて普及したものと考えられます。

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以上ように、明治末期から終戦直後の技術改良の経緯を調べてみると、球磨焼酎の技術改良は20年以上の時間をかけて漸進したのち、戦時中~戦後にかけて一挙に「白米への転換」「黒麹の採用」「二次仕込み法の採用」が進んだことが分かります。

前出の税田(1908)で絶賛されている通り、伝統製法の球磨焼酎は高品質であり、また、地元消費が中心であったため、品質の観点からは技術改良の動機が強く働かなかったと考えられます。
ところが、戦時中に米不足が深刻化すると、米を効率的に利用するため玄米から白米への転換が進みました。また、球磨地方でも芋焼酎が造られるようなり、その指導のため鹿児島の焼酎杜氏(黒瀬杜氏、阿多杜氏)が球磨地方に入り、「黒麹」と「二次仕込み」が伝わりました。

このように、今日の球磨焼酎の製法は、単純な「近代化」ではなく、米不足という「危機」を乗り越えて出来上がったと言えます。そして、このことに、先人たちが球磨焼酎を何とか継承しようとした執念を感じます。

■球磨焼酎の多様化:昭和戦後以降

終戦直後の米不足に伴う米焼酎製造禁止を乗り越え、製造を再開した球磨地方の蔵元たちは、昭和37年に全蔵元の傘下によって「球磨焼酎株式会社」を設立し、共同で瓶詰め・出荷、市場開拓などに取り組み、徐々に全国へと販路を広げていきました。
同時に、市場のニーズ(特に東京、大阪など大消費地のニーズ)に適合した焼酎を製造するため、さらに新しい技術を取り入れていきました。

【白麹の普及】

前述の通り、戦時中から戦後にかけて、球磨焼酎の麹は「黄麹」に代わって「黒麹」が主流となりましたが、さらに昭和30~40年代にかけて「白麹」が普及します。
白麹菌は、黒麹菌の突然変異によって生まれたものであり、黒麹菌の分離・培養に成功した河内源一郎氏が1924年(大正13年)に発見しましたが、当時は黒麹による焼酎製造が軌道に乗っていたため注目されませんでした。
しかし、戦後、黒麹菌と違って麹室や衣服が黒くならない、酵素の力が黒麹よりも一段と強く製品が安定するという製造側のメリットに加え、黒麹に比べてスッキリした酒質に仕上がることも評価され、昭和30年~40年代にかけて、球磨地方を含む全国各地に広がりました

【減圧蒸留の普及】

減圧蒸留とは、通常の気圧(常圧)の蒸留とは異なり、真空ポンプで蒸留器内部の気圧を下げ、水が40~50℃くらいで沸騰する状態を作り出し、低温で蒸留を行う方法です。焼酎醪の中で雑味と見なされる成分は、一般的に沸点が高いものが多く、低温で蒸留すれば雑味を減らすことができます。それ故、減圧蒸留の焼酎は「すっきり、爽やか、そして時に華やか」に仕上がる傾向にあります
減圧蒸留の技術は、1970年代前半に福岡の喜多屋(当時は白花酒造)が開発しました。喜多屋は特許を取得せず、普及、販売を機器メーカーに無償で許可したため、減圧蒸留機は全国へと急速に普及しました。
なかでも、球磨焼酎の蔵元たちは、いち早くこの減圧焼酎を取り入れ、昭和50年代の焼酎ブームで全国的に注目を集めました。

【樽熟成の普及】

球磨焼酎は、伝統的に甕(素焼きの容器)で貯蔵されており、現在も甕に並々ならぬこだわりを持つ藏が多くあります。その一方で、戦後はホーロータンクが普及し、さらに近年はオーク樽が使われるようになりました。その背景には、ウイスキーやブランデーなどの洋酒の大衆化があったと思われます。
オーク樽熟成の始まりについて正確なことは分かりませんが、ウェブ上には、大石酒造、常楽酒造などが約30年前から取り組んでいたという情報が掲載されています。そして、九州の数ある焼酎産地の中で、球磨地方はオーク樽熟成に取り組む藏が多い印象があります。

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明治末期~終戦直後までの球磨焼酎の技術改良が、主に「安全醸造」と「効率化」の観点から進められたのに対し、戦後の技術改良は、主に「市場ニーズへの対応(特に数多くの顧客に受容されるための味わいのライト化)」の観点から進められました
そして、その成果として製品のバリエーションが多様化し、なかには「焼酎ブーム」などの潮流に乗って全国的な人気を獲得したものも現れました(減圧蒸留の「鳥飼」など)。戦後の厳しい市場環境のなか、現在も球磨地方に27もの焼酎藏が存続していることは、このような戦後の努力があってこそだと言えます。

■総括:歴史から見た球磨焼酎の魅力と底力

ここまで2回にわたって、自分なりに球磨焼酎の歴史を調べ、書いてきました。そして、書き進めるにつれ、当初は想像していなかった発見が数多くありました。

最も大きな発見は、現代の価値観からすると「僻地」(失礼!)と言っても差し支えない球磨地方の焼酎が、ローカルの価値だけではなく、ナショナル、そしてグローバルの価値を兼ね備えていると感じたことです。
球磨地方は、南九州では珍しい米どころであり、かつ、周囲を厳しい山岳に囲まれた「隠れ里」でした。こうした気候風土に根ざし、長年にわたって地域の生活・生業に寄りそって育まれてきた球磨焼酎は、まさに「地の酒」(ローカルの酒)だと言えます。
そして、球磨焼酎の糖化・発酵技術の歴史をたどると、醸造酒・蒸留酒の区分や、原料の違いを超えて、どぶろく、清酒、泡盛、芋焼酎との関係が浮かび上がります。この観点から、球磨焼酎は日本の酒造技術が分枝・交流するなかで発展した「國酒」(ナショナルな酒)だと言えます。
さらに、蒸留器の伝播について考えると、必然的に中国へとたどり着きます。いつ、だれが、どのようにして蒸留器を伝えたかは依然謎に包まれているものの、球磨焼酎を始めとする日本の焼酎は、アジア大陸と蒸留技術を共有する「アジアの酒」(グローバルな酒)だと言えます。
これらの「ローカル・ナショナル・グローバル」の価値について、概念図を作成してみました。

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もう一つの発見は、球磨焼酎の歴史が決して平坦なものではなく、時代の波に翻弄されつつ、渋太く生き抜いてきたということです、特に、米焼酎でありながら、戦中・終戦直後の「米不足」に対処するなかで今日の製法の基礎が築かれたというストーリーは、調べ、書きながら胸が高鳴るような興奮を覚えました。
そして、このことから、約500年の歴史の中で培われてきた強靭さをもってすれば、今回の豪雨の被害も何とか乗り越えてくれるに違いないという希望を感じました。

私は一介の飲み手に過ぎませんが、たとえ1ミクロンでも復興を進める力になればという想いから、今後も球磨焼酎の素晴らしい味わいと、その背景にある歴史・文化のの魅力を訴えていきたいと思います。

球磨焼酎はいいぞ!!!

<了>

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後半の参考文献等
大和一酒造元ウェブサイト https://www.yamato1.com/product/meijihatouka/
高田素次「球磨焼酎のふるさと」『日本釀造協會雜誌』第82巻第9号、日本釀造協會、1987年
高田素次「焼酎天国 球磨」『日本釀造協會雜誌』第71巻第1号、日本釀造協會、1976年
税田徳「球磨焼酎に就きて」『日本釀造協會雜誌』第3巻第2号、日本釀造協會、1908年
野白金一「熊本縣「 球磨燒酎」 の今昔」『日本釀造協會雜誌』第46巻8号、1951年
鮫島吉廣「本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察(その1)『日本釀造協会誌』第84巻第11号、日本釀造協会、1989年
鮫島吉廣「本格焼酎製造方法の成立過程に関する考察(その2)『日本釀造協会誌』第84巻第12号、日本釀造協会、1989年
宮田章「III.焼酎(そ の2)本格焼酎の減圧蒸留について」『日本釀造協会誌』第81巻第3号、日本釀造協会、1986年
菅間誠之助「本格焼酎製造業100年 の軌跡」『日本釀造協会誌』第81巻第3号、日本釀造協会、1975年

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