「粕取前線」北上の足跡を追え!! ~江戸時代の東北・関東地方における粕取焼酎普及の一考察~

以前のnoteに書いた通り、正調粕取焼酎の蔵元は、「九州北部」、「山陰」、「南東北・北関東」の3地域に集中しています。
今回のnoteでは、このうち「南東北・北関東」の正調粕取焼酎の歴史について、現時点の調査成果を整理します。

■「会津農書」と粕取焼酎

焼酎に関する古い文献の一つに、会津郡幕内村(現・福島県会津若松市)の農家・佐瀬与次右衛門が著した『会津農書』(1692年)があります。
この書籍の最大の特徴は、寒冷地、豪雪地、さらに外部から資源を調達しづらい山間部という会津の土地柄を踏まえ、地域の自然資源や廃棄物を有効に利用する「資源循環」の思想が根底にあることです。

そして、資源循環を具現化する工夫として、自然や生活に由来する26種類もの肥料が紹介されてており、その一つに「焼酎の粕」が含まれています。

焼酒の粕ハ庭に穴をほり、其中へ粉にて水を入とくとねせて、植る先に立て掛ヶ、前廉に細にくたき散し、中代かき入てもよし。
(焼酎の粕は、庭に穴を掘り、その中で粉状にした粕と水をかき混ぜて寝かせ、田植えの前に施す。また、それより前に細かく砕き散らして、中代掻きの時に施しても良い。)

焼酎粕の記述はごく短いのですが、このように淡々とした記述だからこそ、当時の会津地方で焼酎が当たり前のものであったと推察されます。
そして、この焼酎の「原料」については全く言及されていませんが、後の時代に粕取焼酎が全国的に普及したことから、会津農書の焼酎も「粕取焼酎」だったと考えられます。

海外から九州に上陸した焼酎の蒸留技術は、当時の日本の中心であった畿内(京、伊丹など)に伝わり、さらに17世紀後半には東北地方に到達し、会津地方で定着していたと言えるでしょう。

■農学書の探索と挫折、そして新たな気付き

「そういうことならば、江戸時代の他の農学書にも焼酎粕のことが書かれているのではないか?」
そのようにシンプルに考えた私は、農文協「ルーラル電子図書館」の1ヶ月会員となり、以下の東北地方の農学書の「肥料」の部分を調べてみました。

・『耕作口伝書』(陸奥国、1668年)
・『農書 全』(岩代国、1707年)
・『津軽農書 案山子物語』(津軽国、1700年代後半)
・『農業心得記』(羽後国、1816年)
・『伝七勧農記』(岩代国、1839年)
・『田家すきはひ袋 耕作稼穡八景』(岩代国、1857頃)

この中で、二番目の『農書 全』に「焼酎粕」のことが記載されていたのですが、実はこの本は『会津農書』を筆写したものと言われています。

そして、『農書 全』以外の本では全く「焼酎粕」の記述が見つからなかったのです。(もちろん、私の見落としの可能性もありますが…)

軽い徒労感に見舞われながら、うーん、どうしたものかと考えていたある夜のことです。
泡盛を飲みながら夜更かしをいるうちに、愛読書である吉田元著『江戸の酒』のことを思い出しました。

『江戸の酒』では、江戸時代の東北諸藩(仙台藩、会津藩、秋田藩など)では、上方から技術者を招聘して清酒の品質向上を図ろうとしたものの、気候風土の違いなど影響で大々的には成功しなかったことが指摘されています。

残念ながら、江戸時代の東北地方における上方流酒造技術の導入は、大々的な成果を挙げることはできなかった。気候、風土の違う東北に上方から直輸入された技術は、直ちに花を咲かせ、品質のよい酒を生み出すことはできなかった、(朝日選書版・p153~154)

その一方で、下記引用の通り、東北地方では濁酒(どぶろく)が盛んに生産されていたようです。

濁り酒は漁師、農民にとっては冬の防寒、滋養のために必要だという理由づけは、東北地方の文献資料を読んでいるとよく出くわす。濁り酒には為政者も比較的寛容で、あっさりこうした願い出を許可することが多い。(朝日選書版・p135)

このことから、江戸時代の東北地方では、清酒の普及は限定的であり、濁酒(どぶろく)のシェアの方が圧倒的に高かったと考えられます。
そして、どぶろく製造では酒粕が発生しないので、粕取焼酎を作れることができません。

つまり、江戸時代の東北地方では、清酒の製造が盛んな一部の地域でしか粕取焼酎が製造されておらず、会津地方はその「一部の地域」に属していたと考えられます。

■近江商人の活動から見えてきた「点と線」

それでは、なぜ会津地方は早い時期から清酒、そして粕取焼酎の製造が行われるようになったのでしょうか。

会津地方の酒造史を調べてようとウェブ検索をかけると、さっそく「会津若松酒造協同組合」のホームページに、手掛かりとなる文章を発見しました。

特に四百有余年前、豊臣秀吉の命で会津に入った蒲生氏郷公が産業として酒造りを奨励

蒲生氏郷は、織田信長の重臣かつ娘婿であり、主君信長の「楽市楽座」政策を自らの領地で忠実に実行し、先進的な産業振興政策を実行したことで知られます。
彼は生地かつ最初の所領であった近江国の日野で「近江商人」を育成し、後に伊勢国松坂(1584)、そして陸奥国会津(1590)に領地替えとなった際に、近江商人を引き連れて移転し、その能力と資本を活用して産業の振興を図りました

そして、「近江商人」という文字を見て、関東甲信越地方と東北地方には、江戸時代に近江商人が創業した酒蔵(江州藏)が数多くあることを思い出しました。

(参考)有名な「江州藏」の事例
・「田酒」の西田酒造店(青森県青森市)
・「刈穂」の秋田清酒(秋田県大仙市)
・出羽桜酒造(山形県天童市)
・辻善兵衛商店(栃木県真岡市)
・来福酒造(茨城県笠間市)
・「五人娘」の寺田本家(千葉県香取郡)

これは、「近江商人」に注目して粕取焼酎の北上を追ってみたら面白そうだ。。。ということで検索を進めてみると、またもや素晴らしい資料と出会いました。

情報誌「三方よし」第28号(2006年3月)の「特集 近江商人と醸造業」です。

この特集記事は、近江商人が関東地方で醸造業に携わるようになった経緯をまとめており、その中で以下の記述が注目されます。

・「(蒲生氏郷の)転封が日野商人発祥の大きな要因であったといわれます。近江の日野と会津を往復する途中の関東地方に、日野の千両店(せんりょうだな)というネットワークが張り巡らされたのです。
・「日野商人は、塗り椀や売薬などの持ち下りからやがて関東各地に(中略)で店を出し、呉服・雑貨を販売し次第に資金が大きくなると、その資本運用として醸造業に参入していったと考えられます。」
(※日野商人:近江商人のうち、近江南部の日野を拠点とした商人のこと)

こうして、「会津」と「近江」という二つの「点」が、蒲生氏郷の転封という一時の移動ではなく、「近江商人の往復」という「太い線」でつながりました。

京のすぐ東に位置する近江は、室町時代に僧坊酒「百済寺樽」が幕府に対して献上されたり、「大津酒」が京の酒造業者の脅威となったことが記録されているなど、当時の酒造技術の先進地域でした。
その近江と会津との間で、継続的な人の往来、それも商才にたけた近江商人が動いていたとなると、このルートで当時最新の酒造技術が伝わった可能性は十分にあると考えられます。

そして、この会津と近江のルート上に位置する「北関東・東関東(栃木・茨城・千葉)」は、正調粕取藏が数多く分布するエリアです。
栃木県では、現在も天鷹酒造、渡邊佐平治商店、西堀酒造が正調粕取焼酎を造り続けており、かつては他にも複数の蔵元がありました。
また、茨城県と千葉県は、現在こそ途絶えてしまったものの、平成初期まで複数の正調粕取蔵がありました。

このように、「近江商人の活動ルート」と「正調粕取藏の分布」が一致することから、ここに「近江商人が粕取焼酎蒸留技術の伝達を担った」という説を提唱します。

そして、この説を検証すべく、さらに調査を進めていきたいと思います。

■追伸~江戸時代の「二つの酒文化圏」~

この調査のプロセスで最も楽しかったのが、当初は全く想定していなかった「どぶろく」がクローズアップされたことでした。

そして、文章を書いているうちに、「どぶろく」と「正調粕取焼酎」は酒のスタイルこそ全く異なるものの、実は「兄弟」のような存在ではないかと感じるようになりました。
まず、当時の「清酒」がどちらかと言えば「都会、上流階級」のものであるのに対し、「どぶろく」と「正調粕取」は「田舎、庶民」の酒だという点が共通しています。
そして、「どぶろく」は米の全てを酒にし、「正調粕取」清酒の搾りかすを酒にするということで、ともに「自然の恵みを余すところなく摂る」酒だという点も共通しています。

江戸時代の日本の農山漁村に、この「どぶろく文化圏」と「清酒-正調粕取文化圏」という兄弟のような酒文化圏が並立していたと考えると、とてつもないロマンを感じます。

<了>

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