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リリーフ投手の完全試合

1987年6月26日、首位巨人を2.5ゲーム差で追う広島は、甲子園に乗り込んで阪神との11回戦に臨んだ。最下位を独走する阪神に取りこぼしをしたくない広島は先発の白武佳久が6回まで3安打無失点に抑えるも、打線も池田親興に封じられ0-0の進行。

ようやく7回表に長嶋清幸にソロが出て1点を先制したが、その裏白武が先頭のバースにソロを打たれてあっさり同点。田尾安志に打たれたところで川端順にスイッチ、2アウトまでこぎつけたが代打永尾泰憲に勝ち越し適時打を打たれてしまう。

さらに8回にもバースにダメ押しの2本目を浴びてしまい、田尾を迎えたところで清川栄治が登板。送りバントで得点圏にランナーを抱えたが、続く八木裕は三振に斬って取ってこの回を収めた。打線が山本和行にかわされてしまい結局1-3で負けてしまったが、この試合でひっそりと記録が生まれた。達成の主は清川である。

清川は左のワンポイントリリーフが主戦場だが、右打者の原辰徳にグランドスラムを浴びるなどこの年出だしは今一つで敗戦処理もやっていた。それでも5月16日の巨人対広島8回戦で岡崎郁、篠塚利夫、クロマティと左打者3人をぴしゃりと抑えてゲームを締めてから復調し、6月23日の広島対中日12回戦では最長となる3イニングのリリーフもこなすなど徐々に信頼を取り戻していった。

気がつけば、5月16日からこの日の阪神戦までの6試合で打者27人と対戦し、一人のランナーも許すことなくパーフェクトに抑えていた。バックもこの間無失策であったから、細切れながらも完全試合をやってのけたようなものである。

達成したことについて、本人はちゃんと解っていて秘かな誇りにしていたというが、他には誰も気づいていなかったようで、当時の新聞などにも取り上げたものは見当たらないようだ。

翌1988年の週刊ベースボールのインタビュー記事には「緊張感を保つために清川は『一人の打者に対してどれだけ連続して抑えているか、新聞にも出ないような記録を自分ひとりで大切にしています』という。」とある。自身の投球とその記録に対する清川の密かな誇りが窺えるが、27人を抑えたというのもまた「新聞にも出ないような記録」の一つだったわけだろう。

事実、一度話題になれば次の達成者に向けて注目が集まるものだし、現に注目を集めてもよさそうな記録ではある。だがこの時に話題にならなかったためか、その後誰某が達成したという話は今日に至るまであまり聞かないようであり、また逆に清川以前の達成者についても遡って調査されたともあまり耳にしない。

そこでこのリリーフでの完全試合を達成した選手を改めて調査したのが本稿である。


本稿では、清川の定義を念頭に、安打、四死球、その他出塁を許さず、バックの失策もない、まさに完全に抑えた登板を続け、結果連続27人以上を抑えたケースを対象とした。したがって、登板の途中から始まったり登板の途中で27人をクリアした後に打たれたケースは記録達成とはしていない。

本来の完全試合も試合という単位で評価されるものであって、前後の試合の一部をくっつけて評価されるわけではないことに倣ったものである。ただし、「打者を連続して何人抑えたか」というのも興味ある記録だと思い、前後の試合も含めて連続何人を抑えたかという点はそれぞれに確認を行い、一応紹介した。

例えば清川のケースでは、直前4月30日の登板では1アウトも取れずに降板している一方、次の7月2日の中日対広島17回戦では2人を抑えて3人目の打者である落合博満に本塁打を打たれているので、連続では29人を抑えたということになる。

清川栄治 9回 27人 連続29人パーフェクト
表2-1 清川栄治の完全試合

さて結論の一つを言えば、清川以前にはこういった試合単位で連続27人を抑えたケースは発見されなかった。リリーフ登板途中からスタートしたり、あるいは登板途中までで連続27人を迎えたケースは散見され後述もするが、「試合」単位でつなげたケースとしては清川が史上初の達成者であったと見られる。一方、清川以降については調査の結果6人7人(2022.2.*訂正)の達成が確認された。

まずは1992年の角盈男が、4試合で連続27人を抑えている。清川同様左のサイドスローで巨人のリリーフエースとして鳴らした角は、現役最晩年の1992年にはヤクルトに在籍していた。5月12日の試合で2/3回を1安打1四球で降板した後から記録が始まる。

5月21日は1回、5月28日は1/3回、いずれも敗戦処理だったがこれをしっかり抑えたことで調子を上げたと見られたか、首位争いの直接対決となった5月31日のヤクルト対広島6回戦では先発の高津臣吾を4回で降ろしてのリリーフに起用されると、期待に応えて5回を完璧に抑えてシーズン初勝利を挙げた。

さらに、6月6日の広島対ヤクルト7回戦にも9回1死二塁から2回2/3を投げて延長戦で勝ち投手となり、4試合連続27人となった。

翌6月7日の広島対ヤクルト8回戦も1点差の9回から登板したが今度は2死から1安打3四球で同点にされ、延長11回には残したランナーを返されてサヨナラ負けを喫してしまった。結局打者連続29人で終わったのは清川と同じであった。

なおこの時は、『週刊ベースボール』1992年7月6日号で、『角盈はこのロングリリーフでの白星救援をはさんで、前後4試合にわたり合計9イニング、打者27人に対し、一人の走者も許さなかった。文字通りパーフェクト・リリーフを演じてみせた。』と記録達成について少し触れられている。

角盈男 9回 27人 連続29人パーフェクト
表2-2 角盈男の完全試合

角の次の達成者は森中聖雄で、6試合で29人を抑えている。権藤博監督の下1998年に優勝した横浜で左のリリーバーであったが、記録は1999年からである。この「から」が珍しいところで、1999年からスタートして2000年に達成というシーズンまたぎの記録は唯一の事例である。

10月7日、9回を1死からの1四球だけで抑えた次の、10月10日の横浜対巨人27回戦から始まる。この日は2回1/3を投げて勝ち投手、さらにシーズン最終戦となった10月15日の横浜対ヤクルト27回戦に2/3回を抑えて都合連続9人でシーズンを終えた。

2000年は開幕第2戦の4月1日、横浜対阪神2回戦にシーズン初登板して1回を片付けると、4月6日に1回、4月8日に2回、そして4月13日ヤクルト対横浜3回戦で2回2/3を封じて連続29人としたが、これは試合単位の記録としては6人中最多である。

この後4月16日にも1回を無失点に抑えたが、2死から安打を許して連続記録はストップ、前後をつなげると打者連続33人だから延べ11イニング抑えた計算になるが、これは特筆ものである。

森中聖雄 9回2/3 29人 連続33人パーフェクト
表2-3 森中聖雄の完全試合

続いて達成したのは河端龍で、7試合で28人を抑えている。2003年4月に記録を達成したのだが、この年の開幕戦で早速登板した際は1安打1四球、次の登板では1回投げて2失点、次いで4月2日も3回1/3を投げて3安打2四球と決して安定したシーズンインではなかった。

しかし4月9日のヤクルト対巨人1回戦を1回3人で抑えると調子を上げ、4月11日から19日まで中1日で5試合に登板、これで連続22人とした。大差の展開での登板が多かったが時には1点差でも起用され、4月25日のヤクルト対中日4回戦も1点ビハインドの9回を3人で抑えるとその裏チームが同点に追いつく展開で、延長10回も完全に抑えて連続28人としたものである。

森中には1人及ばないが、同一シーズンということでは河端の28人が最長である。他にも、7試合の間にセリーグの5球団すべてと対戦している点(森中も6試合で5球団と対戦しているが2シーズンにまたがる)、記録達成に要した日数が最少の17日(角も17日で達成しておりタイ記録)という点も特筆に値しよう。

なお続く4月26日には先頭打者に安打を打たれたものの3人で抑えており、打者連続では29人であった。

河端龍 9回1/3 28人 連続30人パーフェクト
表2-4 河端龍の完全試合

ここまでが、まだ現在のホールドが採用されない時代の記録であった。今の基準で計ると清川は1ホールド、角は2勝でホールドなし、森中は1勝2ホールド、河端は2ホールドとなる。このホールドという点で最も成績が良かったのが次のファルケンボーグである。

記録を達成した2010年は最多ホールドで最優秀中継ぎ投手になったのだが、防御率1.02でWHIP0.76など内容も抜群であった。5月30日は2安打1四球を許しながら勝ち投手になったが、次の6月2日、ソフトバンク対ヤクルト4回戦から7月3日のソフトバンク対オリックス11回戦までの間に9試合を1回ずつ投げて連続27人を抑え、6ホールドを挙げた。

この間16奪三振で最後(9試合目)の3人は3者三振、というのは外木場義郎の完全試合を彷彿とさせるものがあり、内容的にも6人の中では群を抜く成績である。またファルケンボーグの記録がスタートしたのは交流戦の最中であったため、セリーグ4球団・パリーグ3球団にまたがる記録になっているというのも特徴である。

この後7月10日の試合では延長11回に登板して最初の打者を歩かせてしまったため打者連続28人で止まったが、それでも3人で抑えてその裏のサヨナラ勝ちにつなげている。

ファルケンボーグ 9回 27人 連続28人パーフェクト
表2-5 ファルケンボーグの完全試合

2016年にはマシソンが8試合で27人を抑えた。こちらも最優秀中継ぎ投手を獲得した年で、7月8日の巨人対DeNA12回戦から7月27日の巨人対広島14回戦までの8試合で1勝3ホールド12奪三振と内容も文句なしであったが、この年苦手としたヤクルトとの対戦が1か月近くなかったことが記録達成に幸いした。

記録が始まる前の7月3日のヤクルト対巨人14回戦で敗戦投手になっていた一方、記録が途絶えたのも7月29日の巨人対ヤクルト15回戦、1死から四球を与えてしまったため打者連続では30人となっている。

もっともこの試合も3三振で危なげなく切り抜けるなどこの7月に一気にギアを上げたマシソンは、記録の始まった時点で3.56だった防御率が7月末には2.89まで上昇、さらに8月の月間防御率は1.23、9月も1.59と安定感を一気に増しており、7月のパーフェクトはその前兆でもあったのだろう。

マシソン 9回 27人 連続30人パーフェクト
表2-6 マシソンの完全試合

ファルケンボーグやマシソンが実績ある李リーバーとして君臨する中での成績だったのに対し、次の2人はいわば発展途上での記録で、実力で地位をつかんでいく過程での達成であった。

その一人が2019年の森原康平である。この年の交流戦ではセリーグ6球団相手に10試合11回を2安打2四球9奪三振の自責点0という活躍ぶりで、その勢いを買われてリーグ戦再開後は7回以降のセットアッパーに定着していた。

記録は交流戦期間中の6月19日、阪神対楽天2回戦から始まり、リーグ戦再開後の7月9日、楽天対オリックス14回戦まで8試合に連続27人を抑えた。森原もファルケンボーグ同様セリーグ4球団・パリーグ3球団にまたがる記録となっている。なお前後の試合を加えると打者連続29人であった。

森原康平 9回 27人 連続29人パーフェクト
表2-7 森原康平の完全試合

もう一人が2022年の伊勢大夢である。開幕以来12試合で防御率0.00という安定感と勢いで7回あるいは8回を任されていたが、5月3日のDeNA対中日4回戦から始まって9試合を1イニングずつ3人で片付けて、5月22日のヤクルト対DeNA9回戦での記録達成となった。

1イニングずつ9試合といういわば完全なセットアッパースタイルでの達成はファルケンボーグ以来2人目、この間セ5球団を総なめしたが、交流戦初戦のソフトバンク対DeNA1回戦で先頭打者に安打を打たれて記録ストップ、さらにシーズン初失点のおまけまでつけさせられ、打者連続では28人にとどまった。

伊勢大夢 9回27人 連続28人パーフェクト
表2-8 伊勢大夢の完全試合

以上が達成者となるが、この間には残念なケースもあった。
日高亮は、2012年4月19日から5月16日にかけて10試合で連続29人に安打も四死球も許さなかったのだが、この間に1失策があり記録達成とはならなかった。
準完全試合といってもいい内容ではあったが、この1失策は4月30日の広島対ヤクルト5回戦に日高自身が記録したエラーであったため、自業自得の結果となってしまった。

日高亮 4回1/3-1失策-5回
表2-9 日高亮の準完全試合

この記録、清川以降の25年ほどで達成者が清川含め8人というのを多いと思うか少ないと思うか、やはり本家の完全試合を踏まえれば同じようにめったに出ない記録という捉え方もできるだろうし、ファルケンボーグやマシソンのような安定感抜群のセットアッパーが増えてきている昨今なら、もう少し件数があってもいいのではないかという考え方もできるだろう。

最後に、試合途中から、あるいは試合途中までで連続27人以上を抑えたケースをいくつか紹介する。

小山正明は1956年3月27日の試合に先発して負け投手となった後はしばらくリリーフに回った。3月31日から3試合で連続21人を抑えた後、4月7日の阪神対中日1回戦でも5回1死一三塁でリリーフして2者を抑えると8回までパーフェクトピッチ、連続32人まで伸ばした。
9回先頭打者に安打を打たれて途切れると3安打1失点でサヨナラ負けを喫してしまったが、リリーフ登板だけで連続27人以上を抑えたケースとしては最も古いものと思われる。

小山正明 10回2/3 32人
表2-10 小山正明のリリーフ登板中連続32人パーフェクト

1962年の中村稔は惜しかった。6月6日の巨人対大洋9回戦で6回に登板してピンチを切り抜け、7回の先頭打者に安打を許して以後打者9人を抑えると、7日の10回戦は5人、10日は巨人対国鉄のダブルヘッダーで、第1試合の9回戦で10人、第2試合の10回戦でも6人を打ち取り、さらに12日の巨人対広島8回戦も8回に登板して先頭打者を抑え連続31人とした。

ただし7日の試合は1死満塁からの登板で、金光秀憲を内野ゴロに打ち取ったものの走者が帰って1点を許しており、前の投手が残したランナーのおかげでパーフェクトとはならなかったが、まさにこれこそ純粋な「ノーヒットありラン」だといえる。それにしてもわずか7日間での記録というところに、当時の中村の絶好調さがうかがえる。

中村稔 「ノーヒットありラン」
表2-11 中村稔のリリーフで「ノーヒットありラン」

1989年には佐藤誠一が記録した。6月8日の日本ハム対オリックス10回戦では7回1死からリリーフして勝ち投手となったが、最後に南牟礼豊蔵を三振に仕留めて試合を締めたのをきっかけに、翌日の日本ハム対西武8回戦で7人、1日空けた10回戦で6人、6月22日の日本ハム対ダイエー14回戦で8人と安定したピッチングを続けた。
6月25日の西武対日本ハム11回戦でも8人を抑えたが、9回2死から石毛宏典にヒットを打たれて記録は途切れさらに満塁のピンチ、これを秋山幸二の三振で切り抜けてしっかりセーブを挙げた。

都合連続30人を抑えたわけだが、これが翌日の日刊スポーツに「疑似パーフェクト」としてちょっと取り上げられた。特に詳細に掘り下げられてもいない小さな記事であったが、角の時の『週刊ベースボール』といい、リリーフ投手の完全試合はメディアが気づけばちょっとネタになるような出来事ではあった、とはいえるだろう。
だがそれらはあくまで散発的なものであって系統立てて捉えられたことはなかったようであり、従って前例も調べられていないような状況であった。

佐藤誠一 10回 30人
表2-12 佐藤誠一のリリーフ登板中連続30人パーフェクト

最近では2017年に鍵谷陽平が連続27人を記録している。5月27日の日本ハム対ソフトバンク8回戦で8回から登板、2死から安打を許した後の4人を抑えると、以後の8試合まで連続26人を抑え、6月13日の中日対日本ハム1回戦で9回に先頭打者を抑えて10試合目で連続27人とした。次の打者に安打を打たれて記録はストップしたが、その後2人を抑えて無失点で切り抜けていた。

鍵谷陽平 9回1/3 27人
表2-13 鍵谷陽平のリリーフ登板中連続27人パーフェクト

このように試合単位という枠を外すなら、連続27人という記録は1976年の鈴木孝政や2000年のペドラザのようにまだいくつかのケースが確認できる。
さらにリリーフに限るという枠も外せばより多くのケースを発見できるものと思われ、それらの確認の先に連続して打者を抑える記録、すなわち連続打者凡退記録とでも称すべき記録が見えてくると思われるが、その調査は作業量が膨大なものとなるため、これは別に筆を起こすことにしたい。


(注記)
本稿の最後は上記のように締めくくっているが、ここにいう「別に筆を起こ」したものが拙稿「連続パーフェクト」(上記では「連続打者凡退記録」としている)である。時系列的には本稿を先に成しているためこのような記述となっているが、著述した当時の状況を残す意図で、あえて改めずに残すものである。

(追記)
表番号を修正しました。また他記事との表記統一のため筆者注を注記に改めました。(2023.7.14)

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