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連続パーフェクト

シーズン記録というものは、1シーズン通して活躍するだけの実力があってようやく達成されるもので、それも江夏豊のシーズン401奪三振のような超人的な数字がたたき出されると、おいそれとこれを抜くことはできなくなる。さらに通算記録となるとそれを毎年続けられるだけの実力が要求されるわけで、なおさら記録更新は困難になってくる。したがって記録保持者の一覧にはたいていお馴染みの大選手の名前が並ぶということになる。

一方、これが連続記録というジャンルに移ると、失礼ながら大選手とまでは言い難い、その記録をもって今日でも名前を知っているという人が多くなるような選手も、しばしば見かけることになる。失礼承知で名前を挙げるなら、例えば東映の嵯峨健四郎である。投手で8年通算53勝という成績は上位の数字とは言い難く、これだけではあまり歴史に名を残すことはできなかっただろうが、1964年のシーズン77打席連続無安打、そして翌年にわたって90打席連続無安打というのは誠に不名誉な日本記録であるにせよ、ここに名前を残したことで「でもこの年本業の投手では20勝をマークした」という活躍も合わせて言い伝えられるわけで、歴史に埋もれる選手も多い中で、たとえ不名誉なものであっても記録に残るということはやはり選手を語る縁(よすが)となるものである。

連続打席無安打の反対は連続打席安打ということになろう。レイノルズが1991年に更新したのが11打席連続安打という日本記録である。日本でプレーした3年間を通じてレギュラーの座をキープしベストナインの獲得経験もある選手だが、それを踏まえても3年通算354安打という成績では、やはりふつうは記録の山には埋もれていくことになるだろう。

ところで、連続打席無安打にはもうひとつ反対側の記録がある。打者が安打を打つということは打たれる投手がいるということで、つまり投手の連続被安打0記録である。これを1試合やり遂げて完封すればノーヒットノーランとなるわけだが、それ以上連続した記録となると案外知られておらず、判明している範囲では1972年の高橋善正がレコードホルダーである。高橋は完全試合も達成しているがこの記録はそれとはまた別で、5月18日の東映対西鉄8回戦で1回先頭の基満男と菊川昭二郎に安打を許したものの以後9回まで6四球ながらも無安打に抑え、続く5月23日の東映対近鉄6回戦でも3四球だけで無安打を続け、ノーヒットノーランが見えてきた8回2死から鈴木啓示に打たれるまで、16回2/3を無安打に抑えたものである。打者数に直せば54打者連続無安打ということになるが、四死球があれば打者数はいくらでも伸ばせるので、ここは打数か投球回数で評価するほうが正しいだろう。

高橋の記録はプロ野球記録大鑑でも紹介されているのでまだ知られているかもしれないが、さらにこの反対、すなわち連続打者被安打となるとなかなかすぐに出てこないのではないか。これは9者連続被安打というのが日本記録で2人が記録しており、その1人目は山内孝徳である。1984年5月23日の南海対近鉄8回戦に先発した山内は2回まで1四球の穏やかな立ち上がりであったが、3回1死から大原徹也に初安打を許すとここから近鉄打線が止まらなくなり、大石大二郎の二塁打に平野光泰の2点適時打以下単打6本を連ね、最後は有田修三が2点適時二塁打で9連続安打、ここでようやく投手交代となった。打たれた山内の記録としてより打った近鉄の9連続安打が当時のパリーグ新記録として知られ、2010年に更新されるまで日本タイ記録として君臨していたものである。

もう1人は則本昂大で、2016年5月18日の楽天対オリックス9回戦に先発して2回に先制ソロを浴び、2死は取ったもののブランコのセンター前ヒット以下4連打でさらに2点を失った。重盗失敗でこの回を終了したものの、続く3回も先頭の安達了一から小谷野栄一まで5連打、2回とつなげての9連続単打となった。イニングをまたぐ連続安打記録は走塁死や盗塁死がないと成立しないため山内の記録より一段と珍しいものとなった。

このように、打者の連続記録というのは割合取り上げられる機会が多いが、投手の連続記録というのは意外と注目されない傾向にある。連続安打記録で言えば打者には代打での連続安打や連続打席本塁打、さらには連続打席二塁打、そして件の連続無安打のように名誉不名誉取り混ぜてさまざまな集計がなされているが、投手になると先の連続被安打も連続無安打もあまり注目された形跡がなく、連続被本塁打などという記録も公式に確認はされていないようである(永本裕章、仁科時成、木田勇の4連続被本塁打が最長記録である)。

もう少しポジティブな記録に目を向けると、高橋の16回2/3連続無安打に類するものには白木義一郎の2シーズンにわたる92回連続無四死球、金田正一の64回1/3連続無失点などの記録があるが、ではこれらを組み合わせた連続無安打無四死球無失点記録というのはどうだろう。さらに無失策をつけるならば、これは連続して打者をパーフェクトに抑えた記録、完全試合の延長版という記録である。投手として一人の走者も許さず得点も許さないということを続けるのは言うまでもなく最上の成績であるが、方や打者に廣瀬純の15打席連続出塁や王貞治とウィルソンの4打席連続本塁打という記録がありながら、これがあまり話題になったことがない。そこでこれを調査してみたのが本稿である。

ただし本稿でその調査を十二分に尽くしたとは申さない。これは先発登板の中に潜む連続パーフェクト記録を追うことが非常に大変だからである。例えば9回8安打4失点完投という登板が連続した場合でも、方や4回以降パーフェクト、方や6回までパーフェクトということになれば、つなげれば12イニング連続パーフェクトということになる。こう言ったケースをひとまず絞り込んでみたところ、それでも記録更新の可能性を秘めたケースが5000例以上存在した。これを調べ上げるということは、筆者にすればライフワークに匹敵する事業である。したがって、本稿はあくまでその網羅的な調査に至る前段階として、捉えていただきたい。

本稿では打者との対戦で無安打、無四死球、無失策(暴投・捕逸・ボーク・振逃を含む)、無失点を連続した人数を集計した。ここで問題となるのが、前の投手が残した走者とその走者にかかるプレーの取り扱いで、後続の投手になんら責任はなくとも試合展開を左右する要素になってしまうからである。まず大前提として走者がホームイン、すなわち失点が記録された時点で記録はストップとした。そのため犠飛とスクイズは記録ストップとなる。また、前の投手が残した走者(以下本稿で単に「走者」と言えばこの例を指す。)がいる間の野手選択は記録ストップとして扱う。野手選択は記録として残ってくるものではなく、また本来は打ち取った当たりとして評価されるべきなのだが、アウトカウントが増えないため後続の評価が大きく変わってしまう点を考慮した。

一方、仮にバントを失敗した場合は凡打として記録されるが、これを通常の凡打と区別することが非常に大変な作業となるため、これは記録継続として扱った。走者をアウトにしても記録継続とする以上は、打者自身をアウトにした犠打、すなわち野手選択と失点をともに伴わない犠打についても記録継続として扱った。また同様の理由で、失点や失策を伴わない走者の盗塁成功や盗塁失敗、走塁死の場合も記録継続とした。ただしプレーの詳細について判明した部分は折に触れて説明する。なお打者走者の走塁死は、通常安打の記録を伴うため当然記録ストップとなる。その他併殺については打者数1、投球回数は併殺なら2/3回、三重殺なら1回として扱う。同様に盗塁死と走者の走塁死は打者数0、投球回数は走者1アウトにつき1/3回とする。

まずは戦前の記録から見ていこう。戦前は投高打低のイメージがあるが、デーゲームの多さにも起因する四球の多さやグラウンド不良に由来する失策の多さなどもあり、完全試合達成者はついぞ出なかった。その中でも最初期の記録として近藤久の連続21打者パーフェクトを起点に置く。1938年秋のリーグ戦、10月1日の阪急対ライオン3回戦では負け投手になったが7回2死で浅野勝三郎を歩かせた後は7人を抑え、10月9日のライオン対セネタース3回戦で2回に大友一明をリリーフして佐藤武夫をアウトに取ってから6回までパーフェクト、7回1死から苅田久徳にヒットを打たれるまで14人、合計21人を連続パーフェクトに抑えたものである。

翌1940年には野口二郎が6月8日のセネタース対名古屋5回戦で7回2死から7人、次いで6月11日の巨人対セネタース5回戦に先発して5回2死まで14人の連続21人で近藤の記録に並んだが、早くも夏には中尾輝三がこれらを更新した。8月16日のイーグルス対巨人7回戦に先発、8回1死で望月潤を歩かせてから5人を抑えて完封勝利を挙げると、8月21日の巨人対イーグルス8回戦にも先発し7回1死に岩垣二郎にヒットを許すまで19人をパーフェクト、合わせて24打者連続パーフェクトとした。なお最初に歩かせた望月は併殺でアウトにしているため、投球回数にすれば8回1/3となる。

戦争がはじまり道具や環境が粗悪になっていく中で投高打低の傾向はますます強くなり、これを背景に記録も伸びてくる。広瀬習一は、1942年5月17日の巨人対朝日4回戦で1回に1安打1四球を許したが2死から内藤幸三を三振に切って取ると2回以降は一人の走者も出さず、連続25人として中尾の記録を更新、これに5月20日の試合で先頭打者を打ち取った1人を加えた連続26人まで記録を伸ばした。5月17日の試合は準完全試合にも届かなかったが、1試合の中で連続25人凡退というのは完全試合が達成されるまでは最長の記録であった。

だがこれもつかの間、かつて並んだ日本記録を2か月で塗り替えられた野口が、今度は半年で記録を塗り替えた。11月7日の大洋対朝日15回戦に先発、4回に続いて5回も満塁のピンチを迎えたが、相手投手の林安夫を打ち取って気合が入ったか、6回以降打者12人をパーフェクトに抑えて完封勝ちすると、翌8日の朝日対南海14回戦では5回2死で重松通雄をリリーフ、ここでも13人を抑え込み連続26人の新記録とした。1日置いた10日の南海対朝日15回戦は先発マウンドに登り、1回3人を抑え2回も先頭の岩本義行をショートゴロに打ち取った、と思われたがこれがエラーとなり記録は途切れてしまった。それでも連続29人パーフェクトまで記録を伸ばした。

この記録に、翌年藤本英雄が挑んだ。1943年7月9日の南海対巨人6回戦は初回2死から満塁になり押し出しの1点を献上したが、増田敏を打ち取ると2回からがらりと変わって9回までパーフェクト、連続25打者を封じて広瀬の1試合連続凡退記録に並んだ。1日置いた7月11日の朝日対巨人6回戦にも先発して記録を伸ばしにかかったが、1回2死で中谷順次にヒットを飛ばされ連続27人でストップ、野口の記録更新とはならなかった。

結局戦前は野口の連続29人が記録であったが、戦後になってこれを真田重蔵が更新した。真田は1948年9月6日の阪神対大陽18回戦でノーヒットノーランを達成したが、2回2死に後藤次男をショートのエラーで出しただけという、史上2例しかないエラーで逃した完全試合であった。それでもこのエラー以後9回まで連続22人を打ち取った真田は、3日後の9月9日に大陽対急映14回戦で先発、4回2死で関口義雄に二塁打を打たれるまで11人を封じ込め、合わせて連続33人としたのであった。

その1か月後、記録更新とはならなかったが惜しい記録が生まれている。吉江英四郎は、9月30日の急映対阪急15回戦に先発、天保義夫との投げ合いの末延長12回0-0の引き分けに終わるという結末であったが、この中で吉江が打たれたヒットは1回1死の平井正明だけ、出した走者も他に3回1死の荒木茂がショートの悪送球で出ただけで無四球という快投を演じた。この荒木も続く宮崎剛の併殺でアウトになったので、この試合だけで連続28人、投球回数にすれば9回2/3を抑え切ったわけである。連続記録はこのあと10月9日の急映対巨人17回戦で1回青田昇にソロを浴びるまで30人に伸ばし、真田の記録には届かなかったが戦前野口の記録を上回った。しかも1試合の中で28人を連続アウトに取ったというのは真田を超える快挙で、幻の完全試合を探すとするならばこれは立派な候補の一つになるだろう。

1938年の近藤、1940年の中尾、1942年の広瀬と野口、1948年の真田と、戦争を挟んだ点を除けば2年ごとに更新されてきたこの記録だが、真田の記録が更新されたのもまた2年後の1950年だった。これがご存じ藤本の完全試合第1号にまつわる記録である。ことはその前の登板、6月20日の巨人対西日本9回戦に始まる。この試合6回2死に永利勇吉にタイムリーヒットを食らったものの、続く南村不可止を打ち取ると7回から9回は3人ずつで片付け完投勝利を挙げた。この試合で連続10人を抑えていたので、6月28日の巨人対西日本10回戦で完全試合を達成して記録は一気に連続37人まで伸び、あっさり真田の記録を更新した。その3日後、巨人対松竹12回戦に意気揚々と先発した藤本であったが、2回1死でヒットを許して連続記録は41人でストップ、このヒットを放ったのが野口の記録も止めた岩本義行だったのは奇遇であった。

このように完全試合を挟んで前後の登板をつなげると一気に記録は伸びていく、と言いたいところだが、実のところ完全試合達成者はその前後の登板で意外と打たれており、連続記録につなげてみるとあまりいい数字は出てこない。例えば2人目の達成者である武智文雄は、直前の登板で犠牲フライを打たれた後に1人を抑えて降板したのはまだしも、直後の先発では初回先頭打者本塁打を浴びており記録を伸ばすどころではなかった。これは極端な例としても、他にも八木沢荘六など武智同様28人で終わったケースがあるほか、大半は連続30人がやっと、記録を伸ばした例では島田源太郎の連続35人が目立つくらいである。結局、完全試合達成者からは藤本の記録を抜く者は現在まで生まれていない。

では藤本の記録が現在の日本記録かというと、これを歴代2位にした記録が存在する。記録を作ったのは1956年の小山正明であった。

この年3月27日の広島対大阪4回戦に先発、初回先頭からいきなり7連続奪三振の快投で6回まで無失点に抑えながら7回に一挙4点を奪われ逆転負けを喫した。以後しばらくリリーフに回ることになったが、この試合で最後に打者1人を抑えたのを皮切りに、3月31日の大洋対大阪1回戦で6人、4月3日の国鉄対大阪2回戦で6人、4月5日の国鉄対大阪4回戦で9人と小刻みに記録を重ね、4月7日の中日対大阪1回戦で5回1死に大崎三男をリリーフすると8回まで11人をパーフェクトに抑えた。だがこの時は9回先頭の原田督三にヒットを打たれると一気にサヨナラ負けまで転げ落ち、連続33人で記録は途切れてしまった。

ならばと次は6月6日、大阪対大洋15回戦では先頭の沖山光利をヒットで出したものの続く引地信之を併殺に打ち取ると、この後1人の走者も許さず27人で試合を終えて準完全試合を達成した。次いで6月10日はダブルヘッダー、第1試合の大阪対国鉄15回戦は先発大崎の後をけて9回のマウンドに登り3人で片づけると、これをウォームアップとばかり続く第2試合の16回戦に先発、6日とは違って先頭の佐藤孝夫からきれいに打ち取ってみせ、5回1死で佐々木重徳にヒットを許すまで13人、藤本の記録を更新する連続42人パーフェクトを達成した。以後これが今日まで日本記録として残っている。

小山は後年、9回2死から安打を許してノーヒットノーランを逃すというこの時とは逆パターンの記録を経験しているが、試合後「阪神時代13回まで打たせなかったときの緊張を思い出して投げた」というコメントを残している。当時のサンケイスポーツは小山の連続記録を「連続13イニング無安打、無四球、無得点の好成績」と伝えており、連続パーフェクトについては小山自身もよく覚えていたものだと思われる。ただ記事でそれ以上触れられた形跡もなく、あまり注目されないまま小山の記録は歴史に埋もれてしまい、準完全試合だけがこの記録の氷山の一角として後世に残ってしまったものだろう。

このように、一度は並んだ日本記録を更新された野口が再び記録を塗り替えたり、その野口に今一歩及ばなかった藤本が、スライダーという武器を得て完全試合を手土産に記録を塗り替えたり、さらに小山が1シーズンに一度ならずチャレンジして自己ベストを更新がてら記録を塗り替えたりと、この記録の更新過程は結果的に激しい再挑戦の繰り返しであった。小山以降記録は更新されていないが、その後何度も記録に迫ろうとした投手の中で、特筆しておきたいのは外木場義郎である。

外木場と言えば完全試合を含むノーヒットノーラン3回達成で知られている。1968年の完全試合ではその前の登板が二塁打を打たれての降板、完全試合の直後は先発して1回2死からヒットを打たれたため、連続29人に終わっている。また最初のノーヒットノーランが1965年10月2日の阪神対広島20回戦で、この時は3回1死から鎌田実を歩かせただけの準完全試合であった。その次の登板となった10月7日の産経対広島27回戦でも初回から3回までパーフェクト、4回1死から岡嶋博治にヒットを打たれるまで、連続31人を抑えていた。

この後1972年にもノーヒットノーランをやっているがこの時は連続20人どまり、他にも1971年に7回2死までパーフェクトなど惜しい記録は何度もあったが前後の試合で打たれて連続記録は伸ばせなかったが、このように連続27人以上を抑える記録を2回達成したことが、藤本、小山に並ぶ3人目の記録であった。

ここまで、記録更新を中心として歴史を振り返ってきたが、以下では記録更新とはならなくとも惜しかった記録をピックアップしていく。

1957年には稲尾和久が記録に迫ったが届かなかった。これは小山同様に、7月6日の西鉄対阪急11回戦で初回先頭のバルボンに本塁打を許して以降27人を抑えるという準完全試合からスタートしたものだった。翌日はダブルヘッダー、第1試合の西鉄対阪急12回戦でリリーフ登板し先頭のバルボンを外野フライに打ち取ったが、これが犠牲フライになってしまい1点を失ったため、記録としては27人で途絶えてしまった。しかしこの後4人を打ち取り、第2試合でも増田敏に四球を与えるまで7人を抑えるなど稲尾自身としては連続39人をアウトに仕留めていただけに、前の投手が残したランナーが残念だった。

1960年には島田源太郎が8月11日の大洋対大阪20回戦で完全試合を達成、その前後をつなげて連続35人の記録を作った。直前8月7日の国鉄対大洋19回戦では完投勝利を挙げたが、9回1死に安打を許して最後に抑えたのは打者2人、そして直後の8月16日、国鉄対大洋21回戦に先発して3回土居章助に打たれるまで2回6人を抑えたもので、真田の記録を上回る歴代3位の記録とした。

ここまで見てきた記録と比べてかなり異質なのが、1970年に江夏豊が記録した連続34人で、これは江夏の伝説的投球の1ページとして知られている試合でもある。9月16日の阪神対中日22回戦は江夏と田辺修の淡々とした投手戦となったが、わけても江夏は2回2死で高木守道に安打を許して以降一人の走者も出さないパーフェクトピッチングを続けた。9回を終わっても記録は続き、0-0で延長戦に突入した11回1死から高木を打ち取ってついに連続27人、それでも止まらず延長13回まで連続34人パーフェクトを継続した。そして14回表、先頭の木俣達彦にとうとう決勝ソロを許し降板、敗戦投手となってしまったのは不運だったが、それでも連続34人は1試合の中で記録されたものとしては完全試合はもちろん、吉江の記録も上回る過去最長という面での日本記録であった。

ところが、試合中から不調の兆しを見せていた江夏が木俣に本塁打を浴びたところで心臓発作を起こして降板そのまま入院、しばらく休養することになったという発表のために、翌日は各紙とも記録どころではない紙面構成となってしまったのは仕方のないところであった。中日スポーツですら一面大見出しは田辺でも木俣でもなく「江夏倒れ阪神ピンチ」であったが、唯一記録に言及したのは報知新聞の宇佐美徹也で、「過去パーフェクト・ゲームをやった投手は10人いるが、いずれも9イニングで打者数は27。34打者を連続アウトにしたのは江夏がはじめてだ」と1試合での記録にフォーカスした内容に読める。この点と13イニングで被安打1という点を話題としていた。

1981年には定岡正二が記録に挑んだ。4月11日の阪神対巨人2回戦は、初回先頭の北村照文に二塁打を打たれただけ、以後打者27人をパーフェクトに片づけ、先頭打者1人だけの準完全試合を達成した。これで連続27人とした定岡は次の4月17日の巨人対広島1回戦に先発し、1回2回と順調に抑えたが3回先頭のガードナーにヒットを打たれて、連続33人どまりとなった。この記録は日刊スポーツでも取り上げられたが、そこでは「連続打者凡打の日本記録は江夏(日本ハム)の持つ34打者」と記している。見てきたように江夏は1試合での最長記録だが、定岡のように複数試合に渉るなら小山の記録があるため、この時点で既に小山の記録は埋もれてしまっていたことが分かる。

その江夏は南海に移籍以降リリーフに転向して成功を収め、リリーフ投手の地位向上と分業制の浸透促進にまさに革命的役割を果たした。連続パーフェクト記録もその流れに沿って、これまでは主に先発投手の投球と合間のリリーフ登板との組み合わせで達成されてきたが、1980年代に入るとリリーフ専門の投手がリリーフ登板だけをつなぎ合わせて記録を生み出すようになってくる。その嚆矢は1987年の清川栄治による連続29人で、これまでの記録が1~3試合で達成されていたのに比べ、清川は7試合にまたがる記録であった。

さらに1990年代に入るとリリーフ投手も細分化が進み、先発から抑え投手につなぐまでの間にさらに中継ぎ投手を挟む継投策が「勝利の方程式」と呼ばれるようになるなど、中継ぎ投手の重要性が増した。この流れの中でできた記録が2000年の森中聖雄である。2000年と書いたがこれは達成の年で、記録のスタートは1999年10月7日の横浜対阪神27回戦、坪井智哉を歩かせた後の2人を併殺込みで抑えたことだった。この年さらに2試合で9人を抑えて11人連続パーフェクトのままシーズン終了、翌年は4月1日の横浜対阪神2回戦を皮切りに4試合で20人、4月16日の巨人対横浜2回戦で2死までとった後マルティネスにヒットを打たれるまで、連続33人を抑え込んだ。リリーフ登板に限った記録としては1956年小山の1回目に並ぶものであるが、こちらは過去最多の8試合かけた達成というのが時代の違いである。

とはいえリリーフ投手で連続30人以上を記録したのは他に1989年の佐藤誠一と2016年のマシソンがあるだけで、それらも連続30人止まりであるから、やはりこの記録を目指すには長いイニングを食う起用法が適しているようではある。だが、ロングリリーフという起用方式は現代では廃れる一方で、例えば2回を超えて投げたリリーフ投手は小山が日本記録を作った1956年には延べ1133人もいたのが1976年は延べ629人、1996年は延べ484人、2016年は延べ120人と減少の一途である。したがって記録更新の可能性が高いのは先発投手ということになるが、それも7回を超えて投げた先発投手は1956年は延べ697人だったのが1976年620人、1996年498人、2016年269人とだんだん減少しつつある。よほど完投能力があり調子に乗ると手が付けられなくなるような先発投手か、完全に抑え込むリリーバーでない限り、今後のこの記録が更新されることもなく埋もれていくのだろう。

最後に、記録調査にあたっては、日本プロ野球記録を参考にさせていただいた。また戦前の記録については「職業野球!実況中継」を運営されるshokuyakyu氏に調査結果を提供していただいた。おかげで記録の更新経緯が判然となったので、この場を借りて御礼を申し上げる。


(注記)
以上の文章はこれまで私が書き続けてきたもので、調査がまだ途中であったため公にしてこなかったものである。しかし2022年4月に佐々木朗希が完全試合を達成したうえ連続52人パーフェクトという記録を作り、しかもいまだ継続中という状況となるにあたって、ひとまず2022年4月16日までの内容にて公開したものである。今後加筆修正を行う場合は、別途の方法、機会としたいと考えている。

(追記)
公開後1か月間の内容を踏まえ、連続パーフェクト 補遺にまとめました。(2022.5.18)

(追記)
他記事との表記統一のため注記及び追記として整理しました。(2023.7.14)


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