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自分が世界で一番幸せだなって思った瞬間

私には、noteを読んでくれるリアルの友人が何人かいる。
私の生恥晒しアカウントをいつも見守ってくれて、感想を聞かせてくれる、みんなあったかくて大好き。

4月の外出自粛期間中、まだ新学期も始まらず暇を持て余した私は、週に2回投稿していた。家にいるだけなので書くことがなくて、困る。

それでも、運動不足でたるんだ体と同じようになってはいけないと思い、書くことにした。結果ネタ切れである。

インスタでリクエストを募ったところ、ある友人から『自分が世界で一番幸せだなって思った瞬間』というコメントが届いた。
私の幸せってなんだろう。


私はたぶん幸せ

私はたぶん幸せだ。
でもずっと、「幸せになりたい」と思っている。つまり私は幸せではないのだ。


ある時期から「普通の人間になりたい」と思うようになった。

普通という言葉は好きではないが、あえて使うと、私はいたって普通の人間だ。
これまで他人と比べて特殊な環境にあるわけでも、私自身が体に(例えば病気をしたとか)そういう経験があるわけでもない。
よくある家に生まれ、よくある環境に育ち、さらに家族から愛されて育ったはずが、どういうわけか幸せではなく、ただ漠然と「私は普通ではない」という感覚があった。


私が確かに幸せだったのは、おそらく幼稚園まで。当時の私は、普通になりたいと思っていなかった。"普通"というバイアスだらけの概念がそもそも頭になかった。


普通ってなに

20年強生きてきて、ありがたいことにずっと信頼できる友人がいる。今は趣味も夢もある。
それでも「幸せになりたい」と思うのはなぜだろう。


普通になれたら、幸せになれる

そう思うきっかけとなる初めての出来事は、たぶん小学校2年生のときに起こった。

なんてことない、休み時間。
ある女の子が、私に

「せいちゃんってかわい子ぶってるよね」

と言った。
実はこのエピソードは以前にも取り上げたことがある。
小学2年生が悪意なき主観で言葉をぶつけてくる生き物なのは分かっているし、きっと彼女も小学2年生のまま大きくなることはないだろう。分かっている。今さら責めるつもりは毛頭ない。

それでもすごく衝撃的な出来事だったのだ。


確かにそれまで、周りの目を気にしたことはなかった。
幼稚園のころからディズニープリンセスが好きだった私は夢を見すぎている女だったかもしれない。
幼稚園のころ、近所の男の子とばかり遊んでいたからか小学生になっても家に男の子ばかり呼んでいた私は、はたから見ればヘンな子だったかも。


かわい子ぶってるつもりはなかった。
ただ生きていただけだった。

私は仲良しと思っていた彼女に実は嫌われていたと分かって(というより思い込んで)、他人にどう見られるかがとても気になるようになった。
嫌われたくない。可愛いとか、かわいこぶってるとか思われると嫌われる。
どんだけ単純なんだよ、と思うかもしれないが、本当に単純だった。


普通は存在しない

それから、私のなかに徐々に蔓延していったのは、劣等感、羞恥心、罪悪感

普通が存在しないことは分かってる。
普通とは、人々が勝手に持ったバイアスだらけの概念だ。

例えば、父と母が揃っているのが普通で、正社員であることが普通で、人前では感情的にならないのが普通で、普通でいることが正しい。
でもそんなの、ただの人の頭の中の勝手な妄想だ。偏りしかない。

揃って両親がまともとは限らないし、正社員がホワイトな企業で働いているとも限らず、人は人前でだって泣く。


当たり前のことだ。すごく当たり前のことだ。
自分も他人も、誰も普通じゃない。普通なんて存在しない。
そう言いつつ、自分の中にある偏った価値観で普通とそうでないものを分類する。

「(普通と比べて)変な家だよね」
「(普通と比べて)いい会社だよね」
「(普通と比べて)かわい子ぶってるよね」

プラスの意味でもマイナスの意味でも、その評価の中にはその人なりの"普通"がある。

そういう言葉にさらされることで、存在しない普通を求めるようになる。

普通よりできなければ、劣等感。
人前で失態を晒せば、羞恥心。
そして、自己防衛のために誰かを傷つけたときや、普通の幸せな環境で生活しているにも関わらず不幸だと思ったときに罪悪感を感じる。


私は普通になりたかった。
誰かに何かを言われることのない、何も考えずに生きているただの人間に。慢性的な劣等感、羞恥心、罪悪感を感じることもないただの人間に。

私の憧れる普通とは、バイアスだらけの平均化された虚像だった。なれるわけがないのだ。
分かっていても、ただ生きていただけの人間に戻りたい一心だった。そういう風に生きている人間が、私の普通だった。
いろんなものを抱えて生きている人間の、表面の幸せそうなところだけを見て、みんなは普通に幸せだと錯覚したのだ。
これは私のバイアスだったと思う。


なにが幸せか

どう頑張っても、普通にはなれない。
でもきっと幸せにはなれる。

他人と比べることが苦しいのなら比べない。
比べてくる人からは積極的に逃げる。
誰かとの比較のない好きをぶつけてくれる人と仲良くする。

ときに他人に牙を剥きつつ、ここ1年ほどそんな生活を続けてきた。

そんなに簡単にいうな、と自分でも思うが、簡単じゃないからこそ積極的に自分を幸せにする努力をしたとき、とてつもない達成感があった。

人と自分を比べることから完全に離れることはできないし、日々なにかの影響を受けて生きている。
それでも、ちょっと頑張って何かをすっぱり切り捨てることで、自分を大切にする癖がついた気がする。次第に、牙を剥かなくともうまくかわせるようになった。


以前なら、罪悪感があったはずだ。
言われたくないことを言われ傷ついているのは私なのに、相手に言い返したら傷つけてしまうという思考回路しかなかった。

譲れないものが、何個かあったって良い。

20歳になって、直接的に「かわい子ぶってる」とか「ヘン」だとか言われることはそうそうなくなった。
しかし、自分でも気づかぬうちにたくさんのバイアスと共存している限り、同じくバイアスのかかった言葉で嫌な気持ちになることは絶対あるし、私も人を傷つける。

全てと争う必要はないが、譲れないものがあってもいいはずだ。
私を幸せにできるのは私しかいないから。


自分が世界で一番幸せだなって思った瞬間

正直、私はまだ幸せではない。
最近やっと、ただ生きている時間が増えてきたくらいだ。
それでも、劣等感からはやく死にたいとしょっちゅう思うし、簡単にそう思う自分に罪悪感も覚える。自分を卑下するくせもある。

それでも揺るがないのは、絶対に幸せになるまでは死ねないという強い意思。
じゃあ幸せになったら死ぬのかというと、幸せになったら、そんな思いごと忘れると思うので長生きできる気がしている。

なりたいな、しわしわのおばあちゃんに。

きっと私の世界一幸せな瞬間はまだ来ていない。

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