見出し画像

家から出ないことが普通になりつつある私の"今日"

先週、健康診断のために大学へ行った帰り、駅から家まで歩いたとき、私の住んでる田舎ってこんなに景色綺麗だったか?と思った。

景色が綺麗な田舎といえば、のどかな田園風景とか、透き通った小川とかが真っ先に思い浮かぶ。

でも私の住んでいるところはそんな美しい所ではない、ただの田舎だ(失礼)。


コロナ自粛でパソコン画面と母の顔ばかり見ていたせいか、その日は電線のたゆみすら美しく感じてどうしようもなかった。
おまけにその日は虹までかかっていて、とにかく清々しい気持ちになる。

ストレスから解放された瞬間と全く同じ感覚だった。


世界が綺麗に見えるようになるなら、自粛も悪くないかも?

昔、好きな人に体調が悪いと言ったら、"大丈夫?早く休みな?"と心配されたことがあった。

私は心配して貰えたことが嬉しくて、友人に会ったときにそのことを"大変素晴らしい出来事"として話したが、よく考えたら、大してすごくもない。

むしろ大抵の人間がごく当たり前にすることだった。


喜びを感じる基準が、とても低いことに話しながら気づき、思い出す嫌な記憶。

私の基準点は、さらにその前に付き合っていた彼氏との出来事だった。
その人と話していると、体調が悪いときに休ませてもらえず、頭が痛いのにLINEで何時間もご機嫌取りをするハメになった(今思えば具合悪いって言ってんだろ黙れやくらい言ってやれば良かった)。

結果的に、体調悪いときは休むという当たり前が実現しただけでビックニュースになってしまった。

こうやってしょーもないことに感謝するようになるから、怖い。


別に例年通り学校に通っていても、清々しい日には清々しい気持ちになるはずなのに。


頑張りましょうね、そうですね

4月の自粛要請の頃、しょっちゅう祖母からLINEが来るようになった。

祖母とのLINEは長文で、毎回メールのような文章を送り合っている。
文章を2つに分けてしまうと下の文しか気づかず、読まないようなのでそうしている。

文章の〆は、
「今年は大変な世の中だけど、気をつけながら頑張ろうね」

おばあちゃん相手なので、肯定的に返信をするが、学校の課題で死にそうだし、友達とご飯くらい行きたい。
正直私はもうめっちゃ頑張っている。

世間一般には、徐々に外出し、ご飯とか国内旅行とか行って良いことになっていて、私も友人と食事くらいしても良いだろうと思う。

でも結構、頑張りましょうムードというか、そういうものを感じながら過ごしている人が少なからずいるようにも感じる。

きっと来年は良い1年になる?
私の貴重な今年はどうなるんだろう。来年になる前に病みきってしまうかもしれないじゃないか。


今週のnoteに特に結論はない。
生きてるだけで頑張ってると思うようにしないと生きていけない私を、ただ甘やかしているだけだ。

はやく泥みたいになってしまいたいな、もしくは赤ちゃん。


そういえば最近見た夢の中で、父が死んでいた(リアルな夢でその日家に帰ってくるまでが不安だった)のだが、その夢の中で昔好きだった人のことも死んだ人として扱っていた。

私があまり知らないところでピンピンしている、思ってないけどごめんね。

この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?