過去が進行形になる

以前、本棚の整理をしていた時に、過去との向き合い方をぼけっと考えてnoteに書いたことがある。っと思って読み返してみたら、書いてなかった(笑)なので、改めて書く(アホかもしれん)

今、たぶん部屋にある本を1/3ぐらいは捨てたのかな。発掘されたカセットテープやCDも半分以上捨てた。昔こまめに作ってた(らしい)スクラップ帖も捨てた。

捨てる作業っていうのは本当にキツい。

でも、ひとつ基準が見えた気がしたんだ。

買いためてきた本っていう、「過去」を具現化したようなものたち。その中で「もうふり返らない過去」(純然たる過去)に属するものは捨てる。例えば当時流行ってたから買った本とか。「ふむふむ、面白かったね」で終わった本とか。

それから、「今の私の中に吸収された」と思えるものは捨てる。これは多くが運動関係のもの。この本のおかげで私の知識が増えたし知らないことをたくさん教えてくれた、と思える本たち。

捨てないのは、「今も吸収が続いている」と思うものたち。三島由紀夫もそうだし、萩尾望都もそう。いしいひさいちも、坂田靖子も、田辺聖子も、野坂昭如も。大和和紀の「はいからさんが通る」は捨てたけど「あさきゆめみし」は捨てなかった。そういう感じ。

過去は三通りに分けることができるんじゃないか、と思うようになった。とにかくすべての過去は封印しようとしてきた。現在をフルで動くためには、過去は後ろ髪を引くものでしかないと思っていたから。

でも、「現在も続いている過去」(それって「進行形」だよね?)は捨てなくていいんだということに気づいた。

それに気づいた数日後。

大学時代の後輩がウチの夫さんの取引先だということがわかって、交流が復活した。私も彼女も寮生で、私の一番仲の良かったトモダチと同室だったのが彼女。毎晩のようにお茶会に誘って、いろんな話をして過ごしたひと。40年ぶりの再会。再会して現況を語り合って、ラインも交換して…。過去が、進行形になった。

過去を振り返らずに突っ走ってきた人生だから、ほんとに過去と向き合うのが怖くて、だから過去に属する人間とはほぼ付き合いを断ってきたんだけど、進行形になる過去もあるんだと本の片づけを通して気づいた途端に、リアルでも過去が進行形になった。

不思議すぎて、娘に電話して「かくかくしかじかなんだよ。なんかすごくない?私死ぬのかもw」って言ったら、「それが『還暦』ってことなのかもね。ステータス上がった状態でリスタートするってのが還暦ってことなんじゃないの?」と言われた。

なるほどね。

私が恐れているほど、過去は私を敵視してないのかもしれない。

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