短歌のこと

短歌はフリーズドライ

短歌という文芸に、想像力というお湯をかけると、長編小説が現前する。短歌というのはそういう意味で「フリーズドライ」の文芸だと思っている。その凝縮のさせ具合が、短歌の良し悪しを決めると思っている。

例えば俵万智の中学校国語の教科書に載っている作品

白菜が赤帯しめて店先にうっふんうっふん肩を並べる

これと、有名な一首、

「この味がいいね」と君が言ったから七月六日はサラダ記念日

この作品と較べた時、どちらが作品としての完成度が高い(お湯をかけた時の戻り具合が大きい)かと言うと、後者だと私は思う。

前者の「白菜」の歌は、発想のおもしろさはあるけれど、目の前の白菜しか出てこない。想像力妄想力を駆使しても、ちょっと浮かれた気分で買い物に来た若い女性が「この白菜、私が持ってるあの赤いオフショルダーの服着てるみたい」と思ってるぐらいしか思い浮かばない。

それに較べて後者は、「君」はおそらく彼氏、サラダを褒められたぐらいで「記念日」なんて言っちゃうんだから、まだ結婚生活をしているという感じではないけれど、サラダの味を褒めてくれる程度の関係だから、他人行儀でもない。同居を始めて半年ぐらいか。いつもはサラダをもしゃもしゃと無言で食べている(あるいは世間話などしながら食べている)「君」が、ふとこちらを見て「この味、いいね」と言う。少し手をかけてドレッシングを作ってみた彼女は「よっしゃ!」と心の中でガッツポーズ。「今日はサラダ記念日って名づけよう」と思うぐらい嬉しい一言。折しも明日は七夕。少なからずロマンティックな夜がこれから訪れることを予感させる。さらに「君」と呼ぶところから、この彼氏は年下なのかもしれない、など想像は広がるばかりだ。

これが短歌のおもしろいところでもあるし、作る側からすると難しいところでもあると私は思っている。

短歌は客観

私が師に就いて短歌を作りはじめ数年経ったころ、20代後半だったと思う。自分の失敗や至らなさに凹んで、どうしようもなく愚痴のような短歌しか作れなかった時に、師が私に言ってくれた言葉が

「あのね、短歌は客観視の文学なの。凹んでる自分が詠むんじゃなくて、凹んでる自分を詠むの。凹んでる自分を詠むためには、詠む自分は天井あたりから部屋の隅でベソかいてる自分を見なきゃダメでしょ。部屋の隅でベソかいてる30歳手前の女を眺めてごらん、少し笑っちゃうでしょ。そこで初めて歌ができるのよ。」

というもの。愚痴なんて誰も聞きたくないけど、愚痴っている人間を観察したものなら読んでもらえる。それが文学というものだ、と思った言葉だった。

先に引用した「サラダ記念日」も、浮かれてる自分が詠んだものではなく、浮かれてる女を詠んだもの。それが「創作」と呼べるものなのだと思う。

蛇足になるが、「サラダ記念日」の歌を浮かれてる自分が詠んだらどうなるか。やってみちゃいます(笑)

手をかけたサラダの味を褒められて記念日つくるぐらい嬉しい

こんな感じかな?読者はどう思うか。「はいはい、良かったね」終わり。

これが主観と客観の違い。私の師は「そんなもんは日記の隅にでも書いておきなさい」と言う。ごもっとも。

「個の確立を志向する」

これは、私の師が作っていた短歌グループ(全国結社の下部組織のひとつだった)の「基本理念」。普通、短歌をやるグループに「基本理念」なんて作らないんだろうけど、私の師は敢えてそれを明記していた。こだわりの強い変わり者のひとだった。

そもそも「師」とか「先生」と呼ばれることを極端に嫌うひとだった。

「短歌は人に教えられるものではないし、私はあなたたちに教えようとも思っていないから、そういう呼び方しないで。お互いがお互いの『個』を大切にしながら文学をぶつけあう場としてこのグループはあるんだから」

だから、私たちは彼女を名字で呼んだし、彼女も常に私たちに敬意を払ってくれていた。彼女は、短歌を作っていくことで、「自己を客観視」する力をつけて、それが「個」の確立につながっていくんだと常々言っていた。

理解しにくい歌に出会ったとき「私はよくわからない」と言えるかどうか。「私はこう捉えた」と言えるかどうか。「万人にわかってもらえるために媚びたような作品はきたない」とも言っていた。「我はかく思う」という姿勢を大切にしなさい、と。

一首鑑賞(1)

高校時代に与謝野晶子と出会ってから、短歌に興味を持ち始めた。好きな短歌はたくさんあるけれど、与謝野晶子から一首。

なにとなく君に待たるるここちして出でし花野の夕月夜かな 与謝野晶子

ここでいう「君」は具体的なひとを指すものではないのかもしれない。なんとなく「誰か」が待っている気がする夕暮れ。そんな経験が誰にもあると思う。少しそわそわした気持ちで、夕方外に出てみる。春なので足元には小さな花がいくつも咲いている。やわらかい風が吹いている。遠くの花の香りも運んできているかもしれない。夕暮れに私を待ってくれているのはだあれ?とあたりを見渡す。誰もいない。ねぐらに帰るカラスの声が上から降ってくる。その声に目を上げてみると、大きな月が山の端からのぼってきている。ああ、お月さんだったのね、私を待ってくれていたのは。

少女期の落ち着かない感じと日々をわくわく過ごしている感じが上手く融合して、夢見る少女の姿が浮かんでくる。

一首鑑賞(2)

マッチ擦るつかのま海に霧ふかし身捨つるほどの祖国はありや 寺山修司

男はひとり。祖国のために身を捨てていった同胞たちのことをふと思う。煙草をくわえ、マッチで火をつける。マッチが燃える間だけ、海を覆う霧が見える。霧が見える。霧の先に何があるのかは見えない。そこに沈んでいった同胞たちの姿はまして見えない。同胞たちの魂も見えるはずがない。こうして生きている自分。死んでいった者たち。問いかけても誰も答えない。自分で答えを出すしかないのだ。それが生きるということなのだから。

「マッチ擦るつかの間」は、「マッチ売りの少女」を想起させる。マッチ売りの少女はマッチが燃えきるまでの間夢を見ることができた。だが、この男は夢さえ見ることができないのだ。マッチが燃えている間見えているのは生みを覆う霧だけ。絶望的な孤独。

おわりに

短歌の入門的なnoteにしたかったのに、結局わけがわからない文章になってしまった。しかも、これを読んで「短歌を作ってみよう」と思う人はおそらくいないだろうと思うほど、短歌のハードルを上げてしまった気もする。

でも、どう考えても「短い文学だからチャチャっと作れる」とは思ってほしくないし、そんなものではないと思う。千年を超える歴史を持つ文学だから、間口は広いし、懐も深い。けれど、奥に踏み込むためには覚悟と決意が必要だと思うのだ。

と、ここ十年近く短歌を作れない状態が続いている私が言うのも説得力に欠けるかもしれないけれど。

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