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カラオケ行きたい!(言葉の話)

去年あたりから奥田民生にどっぷりハマりこんでる。今さら感しかないけどw

奥田民生は音楽的にすごい人なので、ネットを検索しても彼の歌詞について書かれたものが少なくて、それはかなり不満。というのも、私は奥田民生の歌詞もかなり好きだからだ。

本人が「歌詞には重きを置いてない」と言ってるからといって、素直に、歌詞を味わわないのは勿体ない。歌詞に重きを置いていないというのは、おそらく「言葉」が気持ちや状態やその他いろんなものを表すのには全く足りてないツールだという気持ちの表れなのだろう。

「言葉」には限界がある。いや、限界しかない。

目の前の花を、眠る猫を、揺れる木を、自分の気持ちを、言葉で表現しようとしたとき、「言葉」というものがいかに足りていないかということがよくわかるだろう。一枚の写真で事足りることが、原稿用紙何十枚費やしたって描ききれないのだ。同じイメージを共有することはできない。

だから奥田民生は歌う。「言葉はひとことかふたことでいいくらいだ」(『ぼくら』)

そんな奥田民生の『トリッパー』という曲の歌詞が好きだ。(他の歌詞ももちろん好きだけど)

『トリッパー』奥田民生
(略)
まっさおな空はまだまっさおではない
あれが見たい あれを見たい
きっとすごいあれを見たい
(略)
まっ白な雲なんかまっ白じゃない
あれはどこだ あれを見たい
もっとすごいあれを見たい
一本の光 まっすぐで
泣きそうになっている
誰もきっとおんなじなのさ
たぶん君もおんなじなのさ
まっさおな空はただ
まっ白な雲はただ
それだけではない たぶんない
(略)

「まっさおな空」「まっ白な雲」そんな言い回しに疑問を呈し、「あれが見たい/きっと(もっと)すごいあれを見たい」と、名詞化することもせず「あれ」と呼ぶ。こんな真摯な言葉への向き合い方があるのかと私は感動する。

そして、彼が求めている「まっさおな空」でも「まっ白な雲」でもない「あれ」が何なのか、言葉にはできないけれど伝わってくるのだ。

短歌なんか作っているとよくわかるのだが、出来合いの言葉を使うことによってイメージを固定化してしまうとすぐに一首が陳腐になってしまう。

「まっさおな空に浮かんだまっ白な雲を見ている秋の夕暮れ」

ほらね、誰でも作れてしまうし、この中に詠み手の言いたいことなんかカケラも入らない。

そうだ、『星の王子様』の冒頭、王子様に「ヒツジの絵を描いて」と言われた絵のヘタな飛行士が、最後にやけくそで書いた「箱」の絵。「この中にヒツジ入ってるよ」と渡したら、王子さまは箱に書かれた小窓から中を覗き込んで「これが僕の欲しかったヒツジだよ!」と大喜びするという場面。

絵のヘタな飛行士がどんなに頑張って描いても思うようなヒツジの絵はかけないけれど、「ヒツジの入っている箱」なら描ける。その「箱ごと」渡せば、「欲しいヒツジ」を見てくれる。

短歌でやろうとしているのはそういうことだ。と今思った。気持ちや情景や美しさや、どれだけ言葉をつくしても描けない「あれ」を、言葉で箱を描けば箱ごと渡すことができる。その中には伝えたかった気持ちや情景や美しさや「あれ」が入っているんだ。

っと、何か興奮して書きなぐってしまった(笑)久々にヒトカラ行って奥田民生歌いたいなと思って書き始めただけの話だったんだけど(笑)




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