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「オタク」は恥ずべきことだった

愛されたいけど自立したい様のこちらの記事を拝読しました。

私はお絵かきが好きだったけど、没頭して同人誌を作るほどの情熱もない中途半端な人間だったので、同人誌を作っていたと聞くと無条件に尊敬してしまう!!そしてこの記事をきっかけに、ファッションとは全然関係ないんだけど、オタクにまつわる自分の経験を思い出したので、書いてみた。


「オタク」は恥ずべきことだった


私が小学生の頃は、モー娘。が流行っていて、辻ちゃん派と加護ちゃん派に分かれていた。ワンピースやNARUTOのアニメも流行っていた。子供だからみんな当たり前のようにアニメを見ていた。ちゃおやりぼんも読んでいた。私はお絵描きが大好きな子供だったので、自由帳に漫画を真似て絵を描いて友達と見せ合う遊びもよくやった。


中学生になると状況がガラッと変わった。

みんなそれらを卒業して、大塚愛やEXILEを聴き始めた。中学生になってもアニメや漫画、絵を描くのが好きな人たちはオタクだと呼ばれ、格下扱いされた。そういうことに興味ない方が正常で、イケてる。独特のノリではしゃいでいるオタクは異端者で、関わらない方が良い。BL読んでるとかキモチワルイ。私のいた学校にはそんな空気が流れていた。

私は相変わらずお絵描きが好きだったが、オタクのグループには入りたくなかった。差別意識があった。オタクもオタクで壁を作っていて、自分のような「漫画がまあまあ好き、アニメはみない」みたいなレベルの人は彼女たちの会話についていけなかった。

学校で「普通」だと思われるために、私は自分の趣味を隠さねばならなかった。今までは親の前でも絵を描いていたが、それもやめた。誰の前でも、そういうのはもう興味がありませんよという風に振舞った。でも漫画(といっても落書きレベルで世に出せる代物では全くない)を描きたい気持ちは溢れてくるので、毎晩のように勉強するフリをして自分の部屋でこっそりノートに絵を描いていた。家族が来たら速攻で隠した。この行動は、絶対ばれちゃいけないんだ、恥ずかしいものなんだと心底思っていた。証拠隠滅したいがためにもっともらしい理由をつけてシュレッダーを買ってもらったくらいだ。

同じオタクでもジャニオタの子たちはさらに酷い扱いを受けていた。ジャニオタ同士、推しのうちわを持ってきて、休み時間に教室の隅でわいわい盛り上がっているだけで、クラス中から冷たい視線が注がれていたのを覚えている。その視線の意味は、「お前らのレベルでイケメンにキャーキャー言ってんじゃねえよ」だ。目立つグループの女子がTAKAHIROかっこいい〜と言うことだけが許される、そういう価値観が教室を支配していて、私も同調していた。最低だ。

高校生になると、またもや大きく環境が変わった。進学した先にはアニメ好きが多かったのだ。というか、進学校だったので偏差値的にTHEヤンキー!みたいな子がほぼいなかったんだと思う。そのため中学とは一変して、サブカル濃度の高い子たちがクラスのリーダー的存在になった。文化祭でもAKB48の曲やアニソンを歌ったり踊ったりすることが「普通」の世界になった。

しかし、それでもまだ、「アニメとかわかってる俺たち逆にイケてんだろ?」感は拭えなかった。なぜなら電撃文庫を読んでいる人たちはガチのオタクとして中学の頃と同様距離を置かれる立場だったし、目立っていた男子は部屋にアニメのフィギュアを飾っていることをみんなに隠していたらしい。私も友達にケロロ軍曹が好きだと言ったらそれはオタクじゃんと言われ引かれた。つまり当時はトレンドとしてアニメを抑えているということがステータスだっただけで、みんなガチのオタクだとは思われたくなかったのだ。

それがどうだろう。
大学生になる頃には、SNSの普及もあってオタク文化や中二病的センスがかなりメジャーなものへと立場を変えていった。絵の上手な人たちは絵師と呼ばれ人気を集め、デジタル画の技術書が売れ、企業が痛バ作りを推奨し、雑貨屋には推し活グッズコーナーが展開されはじめた。陽キャの友人たちはカラオケで三代目の曲を歌うと同時にラブライブの曲も歌い踊っていた。

特にここ数年「推し活」は勢いを増していて、推せば推すほど人生楽しんでる感じになってきている。推しのアイドルやキャラクターがいるのはもう当たり前で、みんな日常的に堂々と推しを語っている。推し活に絡めたツイートがバズる。ファンアートもバズる。

私は最近「うっせぇわ」のMVを観て、このような画風は学生時代だったら堂々と好きということすら許されなかったなと思った。今は何の遠慮もなく、これを好きな人は好きって言える。もう若い人には、この「好きと言うのをためらう感覚」は理解されないのかもしれない。

良い時代になったな。

…と今はそう思えるのだが、正直言うと、そうやって時代が変わっていくさまに、最初は抵抗感があった。なんでこんなに嫌われていた文化が良しとされているの?どうしちゃったの?これ現実??と思っていた。めっちゃ時代に取り残されていた。

この感情はフェミニズムに反感を抱く女性の心理と似ていると思う。私自身オタク気質なのに、それを否定する側の価値観に加担してずっと生きてきたため、のびのびとオタクをやっている人たちにムカついた。なんで私の時はダメだったのに今はいいの?という感じだ。自分の世代の苦労を知らない若者に嫌味を言う陰湿な大人みたいだった。

もう一度オタクになることで浄化された

当時のそんな気持ちを和らげてくれたのは、アイドルグループ「でんぱ組.inc」のリーダー、りさちーこと相沢梨紗ちゃんだった。でんぱ組は大学生の頃に存在を知り、はじめは自分がアイドルにはまることに抵抗があったものの、次第にメンバーの区別がつくようになり、いつの間にか夢中になって、気づけばライブで白のペンライトを振っていた。私はアイドルオタクになった。

りさちーはとんでもなく可愛い、気高い女神であり、同時に泥臭い生身の人間でもある。2.5次元伝説を自称しているが、完璧な偶像を演じているわけでなく、1人の等身大の女性として輝いている。彼女を見ていれば、彼女が相沢梨紗という仕事を前向きにのびのびと楽しんでいるのが伝わってくる。当然辛いこともいっぱいあるはずだが、いつも前向きでいてくれる。私には想像できないほどの並々ならぬ努力をしている彼女から放たれるオーラは、超絶まばゆい。

以前、ある人から「同性を推すのは、優越感からでしょ。本当は自分より可愛くないと思っているんだよ。」とマジで謎なことを言われたことがあるが、見当違いもはなはだしい。彼女は自分より遥かに高い次元に存在するので、まず比較するという発想にならない。存在に「尊い」という感情を抱いたアイドルは後にも先に彼女だけだ。

彼女に出会ったおかげで、みんな各々の推しに似たような感情を抱いているんだということが想像できるようになった。そして、誰かをそんな風に想う気持ちのいったいどこが気持ち悪いんだろうと思えるようになった。中学生時代に植え付けられた根深いオタクへの偏見を、りさちーが圧倒的な魅力で上書きして変えてくれたのだ。彼女の存在にはとても感謝している。

否定してしまったあの頃の創作意欲は今もなかなか戻らないけれど(もう年齢的に消えてしまったのかもしれない)、今は自分のオタクな一面を否定しないし、それにオタクを楽しんでいる人を見て微笑ましく感じたり、尊敬したりできる人間になれたことは、本当に良かったと思う。

以上、私のオタクにまつわる思い出でした。




信じないことが信条🍤