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ソ連のTV放送(前編)

 ソ連のTVは、1939年にモスクワとレニングラードでの小規模な放送から始まった。第二次世界大戦に突入して暫く停滞するものの、終戦後は徐々に拡大して、各地に放送のネットワークができる。1967年にはモスクワから全土に放送可能になった。TVは重要な啓蒙・プロパガンダ装置でもあり、ソ連邦閣僚会議付属テレビ・ラジオ国家委員会の厳格な管理下に置かれていた。

 とはいえ、TVがイデオロギー装置として本格的に認知されるには、少し時間がかかる。当初は週に数時間~数日の放映で、映画やスポーツ中継が中心。時代はまだまだラジオ優位だったのだ。

 1960年1月、ソビエト共産党中央委員会は決議「ソビエトにおけるテレビの今後の発展について」を採択。この中で、TVは「マルクス・レーニンのイデオロギーと道徳、およびブルジョア思想に対する敵意に基づく共産主義教育を国民民衆に施す重要な手法」と位置付けられた。

 この文言はいかにも物々しく、ブラウン管から革命と闘争の鬱勃たる気炎がヘドロのように垂れ流されそうである。ではソ連のTVはガッチガチのプロパガンダ一辺倒だったかと言えば、それほど一面的でもない。娯楽番組の必要性も承知されており、様々な制約に縛られていたとはいえ、視聴者を意識した番組作りも行われていたのである。

 慢性的に情報が乏しいソ連国内において、TVは国民の主要な情報源であり、その世界観を構成してきた。一方で、TVが国民的娯楽になったのは、西側と同じ。今に受け継がれる人気番組も多く登場しているのである。

Голубой огонёк 青いともしび

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1962年開始のバラエティ。当初は毎週土曜夜だったが、後に祝日オンリーの放送となった。スタジオに各界の著名人が集い、様々に話を咲かせ、新曲やダンスの披露も行われた。労働英雄、スポーツ選手、歌手、俳優、宇宙飛行士などが定番のゲスト。新年には特に豪華な特別番組となり、祝いの席はTVを見ながら、が定番となっていく。

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(中央は、アーラ・プガチョワ)

 尚、なぜ「青い」のかと言えば、モノクロ時代のTVの青みがかった画面の色が由来である。

КВН 陽気&機智クラブ

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 ロシアの国民的番組。学生チームが、コントやスタンドアップコメディを競う。1961年に放送開始されたが、風刺が嫌われ1971年に放送終了の憂き目に遭った。15年間もの休止後、86年に復活、今に至る。

 本来「Клуб весёлых и находчивых」が正式名称だが、専ら省略してКВН(カー・ヴェー・エヌ)と呼ばれる。

Спокойной ночи малыши おやすみこどもたち

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 1964年に放送開始された、ソ連における「おかあさんといっしょ」のポジションの番組。現在も放送が続いている。レギュラーキャラクターによる人形劇と、アニメの二部構成。夜の9時前に放送され、「これを見たら寝ようね」が子供のいる家庭の定番のスケジュールとなった。

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(元気な子ブタのフリューシャが一番の人気者) 

 名曲として名高いEDや、1981年に巨匠アレクサンドル・タタルスキーが製作したクレイアニメによるOP・EDムービーは何世代にも渡って親しまれた。

OP&ED。「ソビエト・ロシアのアニメ」で書いた通り、クレイアニメーションはロシアの十八番だ。

Время  時間(ヴレーミャ)

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 1968年1月1日放送開始、初の常駐のニュース番組である。それまで、ニュースは新聞とラジオから得るのが普通で、TVのニュースは不定期放映だった。以後、ソ連・ロシアを通じて、TVのニュースは国民にとって最も重要な情報源となっていく。


 話は前後するが、1967年、革命50周年に合わせてオスタンキノTVタワーが完成すると、ほぼ同時にカラー放送も開始されている。

 1970年には、地味ながら象徴的な出来事があった。ソ連邦閣僚会議付属の「ラジオ・テレビ国家委員会」が改称され、「テレビ・ラジオ国家委員会」と、語順が入れ替えられたのである。TVが最重要のメディアとして、公にも認識されるようになった証左と考えられている。

 広大なソ連邦では地域によって受信可能なチャンネル数に差があったが、例えばモスクワでは4つのチャンネルを見ることができた。総合、報道および芸能、教育放送、そして主に再放送用のチャンネル。当然ながら、全てテレビ・ラジオ国家委員会の管轄下である。

 なお、同委員会について日本では「ゴステレ」という通称が定着していたが、筆者の観測する限り、この通称は日本オンリーと思われる。ロシア語圏では、「ゴステレラジオ」と略されるのが一般的だ。

 後編に続く(CV:キートン山田)


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