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ソ連を知る本4

「モスクワに立つ」 1984年 著者:川角尊慈

 著者の川角尊慈氏は、1973年に文部省(当時)からモスクワ日本人学校(1967年開校)に派遣された教員で、74年から2年間校長を務めた。同校の資料では、派遣元は島根大学となっている。川角氏は赴任した翌年にはモスクワ日本人学校の校歌を作詞するなど、同校の歴史に名を残している。

 川角氏が赴任した1973年当時のモスクワ日本人学校は、ソ連の公立学校の2階部分を間借りして運営されていた。3年の間に、生徒数は小中学部あわせて約60~80名で推移している。生徒の保護者は約半数が商社勤務で、残り半数が大使館・報道・日本航空のスタッフという。

 教育課程は文部省(当時)の学習指導要領に基づくが、海外ゆえの障壁が多い。内地(この言葉、使われなくなったなあ)の児童との間に教育格差が生じないよう、教員や保護者は創意工夫に余念がない。しかも、時は70年代。物流も通信も現在より遥かに困難な時代で、その苦労は想像に余りある。

 本書は、モスクワ日本人学校や生徒・教員たちの様々なエピソードが盛り込まれ、日本人の目から見たソ連の生活や風景がうかがえる。生徒たちの作文や、在モスクワ特派員の記事も挿入され、著者の川角氏以外の視点も含まれているのが良い。

 残念ながら、私は国会図書館で本書の前半部分しかコピーできなかった(一冊丸ごとはダメらしい)。春に一時帰国して残りの部分をコピーするか、古書を入手するか考えていた矢先に、世界はこの始末である。早く続きが読みたい。

 モスクワ日本人学校は、9年間お世話になった私の母校であり、後年には短期間だが臨時の事務員として勤めた。卒業する頃には狂信的な愛校者になっていた私は、休み時間に自発的に学校の歴史を調べるほどであった。叶うものなら、当時の自分に本書を届けてあげたいものである。

 なお、90年代半ばにモスクワ日本人学校の教員であった箱石博昭先生も、回想を「スパシーバ!ロシア」(東洋出版、1999年)という本にされている。こちらも、過渡期の90年代の貴重な記録なので、併せてお勧めしておきたい。

ロシアの旅 後藤明生 北洋社 1973年

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 日本文芸家協会とソ連作家同盟の交流によって、日本の作家たちは毎年のようにソ連を訪れていたようだ。ソ連を知る本1でご紹介した星新一の紀行文は1975年のソ連作家同盟による招待旅行だったが、今回ご紹介するのは1972年に古山高麗雄、原卓也、そして後藤明生が交流使節団としてソ連を訪れた記録である。複数の媒体に発表された文を収録しているので、重複している部分も若干ある。

 この交流事業を記した訪ソ記は探せばまだまだあるはずだ。例えば1970年に訪ソした藤枝静男も随筆「ウラジーミルの壷」(「藤枝静男著作集第3巻」所収)を残しており、本書でも言及がある。

 1972年11月の訪ソで、ハバロフスクからスタートする。著者は前年夏にもハバロフスクを訪れており、その時は日本人の団体客で空港がごった返していたらしい。そんなに訪れる日本人がいたのだろうか。一行は早速アムール川を見物に出かけている。

 後藤明生氏、なかなか用意周到で、3週間の行程を考慮して、念のために日本から即席食品も持参している。現在の我々も、もし旅行時に携帯するとしたら同様になるであろう品目である。そんな細かな点も面白い。

 中盤は、現在の北朝鮮で終戦とソ連軍進駐を迎えた著者の回想が挟まれる。思えば一昔前の現役世代にはこうして、何らかの形で(その多くは不幸な形であったが)ソ連と接点を持った人々が多くいたのである。今の我々が想像するロシアより、ソ連というのは遥かに身近に意識されていたのかもしれない。

 土産物の話に失敗談。案内役のロシア人たちへの色々な質問あれこれ。ゴーゴリの墓に詣で、ドストエフスキーの家博物館を訪ねる。作品に思いを馳せる部分には多くのページが割かれており、ロシア文学ファンには嬉しいのではないだろうか。

風景のない旅 古山高麗雄 文藝春秋 1973年

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 上記の後藤明生氏と同じ旅の記録である。折角だから2冊を平行して読むと面白いかもしれない。私はだいぶ間を空けて読んでしまったのは惜しかった。

 後藤氏と比べると、古山氏は文豪の史跡にはあまり興味を示さない。むしろ、異質なソ連社会とロシア人の観察と考察に力が入る。70年代ソ連はいわゆる停滞期に入っており、体制の瑕疵はいよいよ露わになっていた。道中、古山氏は常に違和感を抱えながら旅をして、それをどう言葉で表現するべきか、逡巡しているように感じられる。その逡巡こそが正直で、本書を面白くしていると思う。

 そんな中でも、レニングラードの結婚宮殿でだしぬけに式に参列したエピソードなどは、一方では奇妙なまでのロシア人の人懐こさを感じ、一方ではヒトはどこでも同じだなと再認識させる、味わい深い4ページである。

 まだ戦後30年も経っていない。何度か、戦争の記憶について記述がある。ここにも、著者の率直な戸惑いが見られる。

 ソ連旅行の終盤では、ソ連の中でも欧州よりのリガを訪れ、最後は、ソ連を後にして欧州を旅している。本書中の珠玉の風景は、やはり、共に過ごし言葉を交わした人々であったようだ。そして全編を通して、戸惑いと考察に満ちた旅路であったことがうかがえる。

「ヨーロッパ文化の流入が多いということは、それだけロシヤが見えにくくなっている街だと言えるかも知れない。しかし、人間はやはり、ロシヤ以外ではありえないのだという気がして来た。血は、文化の水より濃い。レニングラードの文学的雰囲気もロシヤの一つの姿かも知れないが、旅行者の結婚式参列にこだわらない大らかさも、ロシヤの一つの特長であろうかと思われた。」(レニングラードについて、本書87ページ)


 後藤氏と古山氏のいずれの文中にも、通訳として同行した若かりし頃の私の父親が登場する。感慨深く読んだものだ。

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