第9話 5000円以上の価値がある5000円【夢夢日本二周歌ヒッチ旅 回顧小説】
村田ICから始まった。「盛岡方面」と書いてぼくはスケッチブックを掲げていた。とまってくれたのはトラックだった。
ところが北へ向かうというぼくの言葉をきいて運ちゃんはこう言った。
「それなら明日八戸まで行くから、明日になってもいいなら乗っていくか。」
(え、そんなパターンがあるのか。いいのかな?いや、ありがたい。)
運ちゃんは42歳の髙木さん。仙台出身で今日はバイトでトラックを出していたという。トラックをチャーターするバイトで、普段の仕事は地元の運送会社の運ちゃん。
チャーターするバイトというのがどんな仕事なのかよく分からない。
とりあえず今日は仙台港北まで行く仕事に同行し、お子さんが2人いるというマンションの自宅に泊めさせていただいた。
高校生の娘さんがいらして、ちょっとぼくとしては気まずいというか、気恥ずかしかった。
運ちゃんはいろいろ話してくださる方で、「モンゴル人の友達がいる。」「土日休みで、仕事は遊んでいるようなもん。」「横浜で高速を作ったことがある。」「高速道路は中が空洞でピアノ線で釣っている。」「時間に追われる仕事はしねえっちゃ。」などなどかなり人生を楽しんでいるようだ。
宮城弁についてもご講義いただいた。
「だから」「んだから」があいづち。
「いきなしむかつく」は「めっちゃむかつく」。
「行く」を「あべ」という田舎もあるなど。
翌日、トラックは当時まだ建設中の八戸駅に着いた。新幹線の駅を造っているのだ。現在はもちろん八戸駅は完成している。
髙木さんはぼくを助手席に置いたまま、白いヘルメットをかぶって鉄の建材をおろした。部外者はきっと工事敷地内に入れないから、しかもいずれ完成する大きな駅の建設中に居合わせることができて、なんだかうれしい気持ちになった。
髙木さんはぼくを近くのインターに降ろしてくれた。
ぼくは宮城から一気に青森まで来ていた。ルールとしては全都道府県にかならず降り立つというルールだから岩手を飛ばしたことになる。
岩手は2週目で必ず行かなければならない。
次は12台目。スケッチブックには「大間方面」と書いた。インターからおりてくる車に見せる。北海道に渡るために、最短距離で行くには大間からフェリーに乗る必要があるからだ。
とまってくれたのは、またしても髙木さんという方だった。60代のご夫婦で、仙台から下北半島まで旅行をしている最中だという。
(そういうご夫婦いいなあ。もし結婚したら老後はそんなふうにしてみたい。)
髙木さんはテレビ局の取締役をしている方で、そんな方に乗せてもらえるなんてすごい光栄だし、内心、
(このおれのことは取り上げてくれたりしないのかな。)
なんて思ったりした。
しかし、そういう話には全くかすりもせずに時間は流れた・・・。
ところで髙木さんは甥っ子さんがまさに今自転車で旅をしてまわっていたり、インドにも行ったことがあったりするという。
(髙木さんはそういうことに対して寛容なのだろう。だからぼくを乗せてくれたのかもしれない。車の免許は55歳でとったというから気持ちも若いんだな。)
髙木さんは寡黙なご主人だったが、これから予定してるご夫婦の観光したい場所にぼくをいっしょに連れて行ってくれた。車は下北半島に入った。
まずは下北半島の北側の海岸に連れて行ってくれた。津軽海峡を望める場所でもある。空は曇り空で、津軽海峡の哀愁というか、さみしさをぼくに感じさせた。
灯台と、岩場に肩を寄せるカモメたちと、馬たち。馬?
そこにはなんと馬が放牧されていた。草をはむ馬。車道をふさぐ馬。のどかだなあ。田舎だなあ。
車をおりて歩いていくと、そこかしこに馬がいる。「本州最北端の電話ボックス」もお目に書かれた。人間はこういうのが好きだ。最北端。最南端とか。
これは写真にとっておこう。そういえばぼくはフィルムカメラを持っていたのだ。インドでも愛用していたペンタックスのカメラ。カメラに詳しい彼女と町田のヨドバシカメラで買った思い出のカメラ。
おもむろに高木さんがぼくに聞いてきた。
「恐山に行く予定なんだけど一緒に見ていく?」
「え?いいんですか?」
「若者だからつまらないかもな。」
「いや、そんなことないです。すごいありがたいです!」
(恐山て、なんかきいたことあるな。死者をまつるところだっけ?なんだっけ?まあ、有名な場所なんだろうな。)
ぼくは失礼かなと思い、また「そんなことも知らないのか」とも言われそうで、そのままだまっておいた。
恐山は比叡山や高野山と並ぶ三大霊山の一つで、イタコと言われる霊媒師がいる。
入口近くにかわった大きな地蔵が6つ並び、進むと開けた岩場が広がっている。「地獄谷」と目標が立っている。
ぼくはそれを見て「恐山に地獄谷。なんだかこわいところだな。」と思ったが、のちに分かるのだけど、「地獄」というのは硫黄が噴出しているところを日本人はそういうようで、日本各地で「地獄」と命名されている場所を目にした。
温泉地などで硫黄が噴出しているところは植物が生えず、岩がむき出しになっているものなのだ。その光景が地獄のような絵なので「地獄」と名付けるのだろう。
その奥には木がうっそうとしげっていて、そこにイタコの方がいらっしゃると聞いた。さらにそこを越えると極楽というきれいな湖畔がある。
天気がよくなかったので、その日はそこまでの美しさはかもしだされていなかったけれども…。
その恐山で髙木さんはぼくを入れた写真をたくさん撮ってくださった。まるで家族のように扱ってくださった。
恐山を出ると、あとは大間に向かうのみだ。ところが髙木さんはこんなことをおっしゃった。
「ぼくらは下北半島に宿をとってるんだけど、君の部屋も追加でとっておいたから泊まっていかないかい?別の部屋にしておいたよ。温泉がすごくいいから入っていくといいよ。もうよるになるから泊っていきなさい。」
(えーー!)
「い、え?いいんですか?」
「いいから泊まっていきなさい。食事はついてないけど、温泉はあるから休まるでしょ。宿代もいいから。」
ぼくは、なんと言っていいのかわからなかった。こんなことってあるのか?宮城から出てまだ2日しかたっていないけど、いいことしか起きていない。
正直泊まる場所がいちばん気がかりで、ぼくは気もそぞろだったのだ。
(勇気は、幸運を呼ぶんじゃないか。)
当時のぼくは勇気にすがって生きていたので、何かにつけてそう思い込もうとしていた。でも実際勇気は幸運を呼ぶのだ。
ちゃんと神様は見ているのだから。
(思い切って宮城を出発してよかった。)
下北半島のその宿の温泉の浴室は、黒い石畳でできており、浴槽の縁は床と同じ高さであり、太い木の枠になっていた。
いっしょに居合わせた別のお客さんは、その地べたにお尻をつけて体を洗っている。そして浴槽から直におけでお湯をくんでいた。
(そんなお風呂の入り方があるのか。そもそも人間はこういう入り方をしていたのかもな。意外だなと思うおれのほうの目が曇っているのかもしれない。健康ランドや銭湯では、かならずう腰かけに座っていたけど。)
ぼくも真似をした。暗めの浴室に湯気がたっぷりたちこめていた。湯は体にしみこみ、温かさが心までしみ込んだ。
翌日、髙木さん夫婦は本州最北端まで連れ行ってくださり、そこには本州最北端の売店があるのだが、本州最北端の石碑も当然立っていて、やはり記念にカメラにおさめた。
(この津軽海峡の向こうにもうすぐ行くんだな。)
高木さんはその後大間のフェリー乗り場までぼくを送ると、奥さんは別れ際に何かを包んだ小さな紙の包みをぼくに手渡した。
「役に立つか分からないけど、受け取って。」
と奥さんはぼくの手にぎゅっとして持たせた。
こんな見ず知らずのよく分からない若者に、宿までとってくださり温かく接してくださったことに最大の感謝の気持ちを込めて、ぼくは「ありがとうございました」と言って、フェリー乗り場に残った。
フェリー乗り場は閑散としていて、満席になるときは一度もないだろうなというくらいたくさんあるが、広さがある分さみしさはまぎれるとも言える。
フェリーが来る時刻を調べてから、ぼくは先ほどの包みを開けてみた。そこにはなんと、5000円札が入ってたのだ。
1年後、高木さんは恐山での写真を丁寧にアルバムに収めてぼくの実家に送ってくださった。そのアルバムも、その5000円も、20年以上たった今も大切にとってある。
使えるわけがない。5000円は5000円でも5000円ではない5000円があるのだ。
そして実は去年、高木さんのご主人はお亡くなりになった。いつかお墓に手を合わせにいこうと決めている。
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