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スポーツライターが政治の道に進んだワケ

スポーツライターの瀬川泰祐です。

noteではちゃんと報告できておりませんでしたが、少し前に近況に大きな変化がありました。

2022年4月に久喜市議会議員一般選挙に出馬し、地域の皆様のご支援をいただき初当選を果たすことができました。いまは市議会議員としての活動に力を入れるために、執筆活動は小休止中です。

「え、なんでお前が選挙に?」

と思った方もたくさんいるかもしれません。実際、わたしのことを知る友人たちからは、めちゃくちゃ驚かれました。そして何より、当事者であるわたし自身も、まさか自分が選挙に出ることになるなんて、少なくとも選挙に出る1年前までは全く描いていなかった未来です。

今回は、政治に一切関心がなかった私が、なぜ政治の世界に入ったのか。どんな経緯で挑戦することになったのか。

そんなことを少し書いてみたいと思います。

原点は「子どもたちに何を残せるか」


私は17年ほど前に、高校時代を過ごした久喜市に移り住みました。当時は仕事もそれなりに忙しかったのですが、週末になると、子どもを近所で遊ばせたり、公園を散歩したりしながら、地域の方々と一緒になって子育てを楽しんでいました。そんなある日、子どもたちが楽しそうに遊んでいる姿を眺めながら、ふとわたしの頭の中に疑問が浮かび上がります。

「この子たちが大人になる頃の日本はどんな暮らしになっているのだろうか」

「この子たちのために何ができるだろうか」

しかし、当時のわたしにはその答えを導き出す力はありませんでした。いまの仕事をもっと頑張って、少しでも家族の生活を支え、より豊かに暮らせるように努力することくらいしか思いつかなかったんです。それくらい目の前のことに一杯一杯でした。

とはいえ漠然と、当時の自分に対しては課題を感じていました。それは、地域の活動ができていないということでした。

わたしが尊敬する人に、叔父の存在があります。わたしが幼い頃から、父親のようにわたしのことを可愛がってくれ、困ったときには、いつも陰でわたしたち家族を助けてくれていた存在です。叔父は大手の製薬会社で関東エリアの支社長を務めるなど、ビジネスの世界でも活躍していた方ですが、叔父の家に遊びに行こうとすると「この日は夜に地元の友人と一杯やる予定があるんだ」と良く言っていて、近所の方々との付き合いも大切にしていることが、世間知らずのわたしにも伝わってきました。

そんな叔父から、私が結婚する時に言われていたのが「仕事人であれ、家庭人であれ、地域人であれ」という言葉です。当時は仕事と子育てで忙しく、地域の活動まで手が回っていませんでしたが、漠然と自分には地域活動が足りないという認識だけはありました。

ですので、何か週末に地域で子育てしながら活動できることをしようと思い、自分に合った地域活動はないかと模索していたところ、近所のパパ友から「サッカー少年団のコーチをやらないか?」と声をかけてもらいました。

当時、わたしは本業でJリーグクラブやプロ野球チームの運営に関わる仕事をしていましたし、わたし自身もサッカーやフットサルの仲間たちとの交流で人生を豊かにしてもらっていたので、「草の根のスポーツチームの運営を知るのも悪くないか」と思い、コーチを始めることにしました。

課題を知り、立ち上げたサッカークラブ

私は小・中学生の頃のスポーツ体験には、あまり良い思い出はありません。監督から顔面にボールを投げつけられたこともありましたし、殴られたこともあります。延々と続く罰走や筋トレ、ボール拾いなど、理不尽な仕打ちも受けました。もう30数年前のことです。

しかし、いざ大人になり自分が少年団のコーチとして活動に参加してみると、30年以上経っても草の根のスポーツの世界はあまり変わっていないことに気付かされました。グラウンドにはコーチの罵声が飛び交い、子どもたちの表情は曇りっぱなし。大人の声だけがグラウンド全体に大きく響く光景をたくさん見ました。

せっかく大好きで始めたサッカーなのに、一瞬で子どもの笑顔が消える瞬間を見て、地域のスポーツ環境は、大人が変わらなければいけないことを痛感しました。

それからスポーツ少年団のコーチとして、4年ほど地域のスポーツ環境の現実に直面し、同じように地域のスポーツ環境に課題を感じている人たちと勉強しながら、仲間を作っていきました。そして地域のスポーツ環境に新たな選択肢を作ろうと考え、地元で出会った若者とともにサッカークラブを立ち上げることにしました。

オリンピック参加の手段として選んだスポーツライターへの道

またちょうどそのころ、わたしが在籍する会社では、社内の何人かの人間がオリンピックの委員会に参加しており、わたしも「オリンピックに関わる」という目標に向けて淡い期待を寄せていました。

しかし、2016年の中頃に、どうやら会社としてはオリンピックに関わることができそうにないということがわかりました。少しがっかりしましたが「それなら自力で目標の場所に行くしかない」とすぐに考えを改めました。

いまの自分にできることを必死で考えた結果、選んだのがスポーツライターとして東京オリンピックに関わるという道でした。こうして本業の傍らで、スポーツクラブの運営をし、さらに取材・執筆活動を始めました。2足ならぬ、「3足の草鞋」を履いた超過酷な生活がスタートしました。

「どんな生活してたの?」

と聞かれることがあるので、ざっと1日の主な流れを書いておきます。

平日は仕事がありますので、まずは土日を使って、サッカークラブの運営や、スポーツライターとしての取材を行います。そして平日は朝7時に起きて8時の電車に乗り、電車の中で仕事のメールのチェックをしたり、取材のアポを取ったり、原稿を作成したりします。9時半から20時ごろまで本業の仕事をし、20時からの帰宅の電車の中では、再び原稿作成に充てます。もちろん電車の中だけでは執筆作業は終わらないので、明け方の3〜4時まで執筆をして、翌朝7時に起きる。そんなハードな生活を4〜5年続けました。この頃は休みは全くなく、体力は相当にキツかったですが、心が充実していたせいか、不思議と嫌になることはありませんでした。

独自性を探して選んだ取材テーマ

とはいえ、何の実績もない人間がスポーツライターとして成功するのは決して簡単ではありません。

またサッカーや野球などの人気スポーツについて競技性を追求した記事を書いても、わたしには、競技者としての実績もありませんので、説得力は出せないと感じました。

すでに著名なスポーツライター・ジャーナリストがいる中で、どうしたら、短期間で知名度を上げ、オリンピックに関与できるかを考えた結果、行き着いたのが、「スポーツをスポーツから遠い人に届ける」「スポーツを超えた活動を知ってもらう」というコンセプトで取材をすることでした。

誰もやっていない領域で独自性を出していくために、アスリートの人間性や、ピッチ外の活動を取材して記事にしていきました。運良く、初めて自分の名前で書いた記事が、大手メディアに取り上げてもらい、さらにトントン拍子で話が進み、東洋経済オンラインでレギュラー執筆者として記事を書かせてもらえるようにりました。その後も、ヤフーニュースをはじめいくつものメディアで認めていただけるようにもなりました。

ただ、自分の中で忘れられないのが、東洋経済オンラインでの編集者とのやり取りです。東洋経済の編集者の方からは「報道とは何か」「記者とはどうあるべきか」を学び、第四の権力と言われる報道には、社会を変える力がある、社会を正しい方向に導く力があるということに気づかされました。そして報道の力で社会をより良いものにしていくための記事が書けないかと、取材テーマが「スポーツ×社会課題」へと変化していきました。

こうして出会ったのが、アスリートの力によって社会をより良いものにしていこうという日本財団 の「HEROS」というプロジェクトでした。このプロジェクトでは、アスリートの方々と一緒に被災地を巡ったり、コロナ禍で行き場を失った若者を支援する活動を行ったりと、スポーツを通じて社会の課題にアプローチしている先行事例を学ばせてもらいました。

以来、スポーツ界の社会貢献活動を取材しながら、少しでも社会を良くするための情報発信を行いました。スポーツライターとして活動した数年は、AEDの普及活動や、被災地支援、ジェンダー平等への取り組み、共生社会の実現に向けた活動など、「スポーツSDGs」の可能性をずっと追い求めてきたように思います。

そしてこの経験のなかで同時に芽生えたのが、

「書くだけでいいのか?自分がアクションを起こすことで貢献できることはないか?」

という発想でした。

自ら起こしたアクション

特に新型コロナウイルスの流行は、私自身の取材活動にも大きな影響を及ぼしていましたが、それ以上にフィジカルな活動であるサッカークラブの経営にも大きな影響を及ぼしていました。公共施設が使えなくなり、クラブの活動は休止状態となりました。当然、会費収入もなくなります。すると、コーチたちに給料が支払えなくなります。こうして運営していたサッカークラブは一瞬にして存続の危機に陥りました。

「このままコロナが続いたら、スポーツ自体が必要ないものになってしまうのではないか?」

そんな危機感を抱き、同時に「もっとスポーツクラブが日常生活に根ざしたエッセンシャルな活動をし、地域にとって必要とされる存在にならなければならないのではないか」と考えるようになりました。

そんな時に目に入ってきたのが、日本財団の「子ども第三の居場所」という事業の事業者募集の案内記事でした。自分が運営するクラブを活用し、地域の子どもたちの課題に取り組むこと、そして地域の中でよりエッセンシャルな領域で活動をしようと考えました。

その結果、日本財団から助成の採択を受けることができ、スポーツクラブが自ら運営する子ども第三の居場所としての運営が始まりました。この事業では、日本財団からいただいた資金をもとに、地域にあった空き家を再生しました。地域の事業者の方々にお願いして空き家に新たな息を吹き込みましたが、設計会社や建築会社だけではなく、電力、水道、ガス、通信などのインフラ事業者も関わってくれました。それにより地域に数千万円の経済効果が生まれるとともに、出来上がった施設には私たちがコンテンツを用意し、子どもたちの居場所づくりに取り組んでいます。

この事業を進めている最中に気づいたのが、「今やっていることは政治と同じだ」ということでした。

予算の出所や運営主体が違っただけで、資金の調達から実際の運営まで、公共性の高い事業を自ら行うことができたことは政治を志す上で、非常に大きなきっかけとなりました。

こうして政治に関心を持つようになりましたが、元々は、本業の傍で始めたスポーツライターとしての活動も、サッカークラブの運営も、「小さなアクションを続けていったら、最終的に政治の道につながっていた」というのが率直な感想です。

そこには何らかの不思議な引力があったようにも感じますし、自分自身でも、目の前のことを一生懸命にやったら、政治を志していたという感じです。

政治を志す者としては、目的意識が薄かったようにも感じますが、誰かのために行動したら政治家になっていたっていうのも少ない事例の一つとしては、あっても良いのではないかと思うようにしています。

市民の方たちの関心はスポーツだけではありませんので、現在はスポーツ色を出しすぎずに、市民の生活のため、地元のためにさまざまな課題に取り組んでいます。同時にスポーツ施設の建設やスポーツコミッションの設立など、スポーツに関する動きにも積極的に関与しながら、地域のスポーツ環境の向上にも努めているところです。

スポーツと政治というと敬遠される方も多いかもしれませんが、実はスポーツと政治は切っても切れない密接な関係にあります。もしこの記事を読んで、政治を志してみたいという方がいたら、ぜひご連絡ください。

ダラダラ長文失礼しました。また少しづつ執筆活動も復活していきたいと思っていますので、そちらもご期待くださいませ。

瀬川泰祐の記事を気にかけていただき、どうもありがとうございます。いただいたサポートは、今後の取材や執筆に活用させていただき、さらによい記事を生み出していけたらと思います。