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2024年ももう既に2ヶ月が経とうとしている。
歳をとったせいなのか、単純に出来事が多すぎたのか今年は一段と時間が過ぎるのが早い。

年始は石川の地震から始まった。
自然現象に年末年始という人間の営みのリズムは全く意を介さない。

かと言って人間の起こす惨劇もそれを厭わない。
腐敗した政治もガザやウクライナの惨状もまるで当たり前のように進行している。

何に対してどれだけの怒りややるせなさを持ち合わせて生きるべきかずっと迷っている。
死ぬまでにその答えを見つける事、或いは答えを諦める事は恐らくできないのだろう。

暗い話はずっと続いていくしそれを傍目に太々しく生活を続ける自分の矛盾は終わらない。
楽しい事があれば楽しいと思うし、僅かばかりの幸せを享受する事を止めることもない。

今年に入って3本の大きなライブに行ってきた。

まずは1月24日、ビリー・ジョエルの東京ドーム公演。
生で彼の姿を見る事は半ば諦めていただけに、それが叶ったこのライブは人生のハイライトの様な夜だった。
彼の楽曲と共に歳を重ねた人生の先輩達の中にポツンと1人、齢30の男がスーツ姿で観客席に座っている構図は自分を客観視する第3の視点がそのシュールさを笑っていたに違いない。
ステージにはバンドセットが並びその中央にでんと置かれるピアノがひとつ。
客電が落ちるとバンドメンバーが定位置に向かって行く。
そして現れたビリー御大。
ツルツルとした頭に渋い髭、かえってパワフルに見える恰幅の良い身体は50年選手の稀代のソングライターというより気の良いお爺ちゃんといつ形容が相応しく見えた。
かつてポール・マッカートニーを同じ東京ドームで観た時は本当に神様の様に思えたがビリーからは神々しさは感じられなかった。
むしろ同じ人間なのだという温かみが心の底からこの人の音楽を愛してこられた何よりの証左の様だった。
いざライブが始まってみるとヒット曲の乱れ打ちである。
日常で鼻歌となって私の生活に纏わりつくあの曲やこの曲を殆ど網羅せんとばかりにライブは続いて行った。
Piano ManやHonestyと言った代表曲には泣かされてたまらなかった。
バラードだけではない。
The Longest TimeやUptown Girlといったアップテンポナンバーの楽しさたるやこんなに幸せな瞬間があって良いのかと思わされるほど多幸感に満ちた空間であった。
何故かJust The Way You Areをやらないという謎はあったが、生で聴くViennaの生涯忘れる事のない美しさで良しとする。
とにかく楽しくて、美しくて、音楽という希望を演奏の全てで以って打ち出してくる最高のライブであった。

次に2月11日、BUMP OF CHICKEN「ホームシック衛星2024」@Kアリーナ横浜。
現在進行形のツアーであるため詳細は伏せるがこれまた素晴らしいライブであった。
2007年発表のアルバム「orbital period」のリバイバルツアー。
彼らは2019年発表の「aurora arc」からアルバムを出していない。
ただその発表からこれまでコロナ禍の中にあっても精力的に新曲のリリースを続けライブ活動も制限と相談をしながら出来る限り続けてきた。
そろそろ新曲群をアルバムというパッケージに収める頃合いかとファンの多くが思っていたところにこのリバイバルツアーである。
一体どんな内容になるのかまるで読めない中で初日に参加して来た訳だが、その内容は納得に満ちた物であった。
流石にネタバレにはならないと思うので敢えて書くが当然の如くorbital periodからの選曲は多い。
何故このタイミングでリバイバルをやる必要があったのか。
バンド結成28周年という彼等なりのメモリアルな年を28歳の時に出したアルバムの再現で以ってバンドの今を示す必然がBUMP OF CHICKENにはあったのだろう。
成長した彼等だから鳴らせる音がそこには確かにあった。
こればかりはツアーに参加するなり映像化された暁に自身の目と耳で確かめてみて欲しい。


そして2月18日、オードリーのオールナイトニッポンin東京ドーム。
正直に言ってこのライブが一番喰らった。
というかこの数年で一番のエンタメ体験だった。
そもそももう何年もオードリーのANNリスナーである私にとって彼等が東京ドームへ至るまでの道程そのものが自分の人生と重なって楽しいから悲しいや切ないといった様々な感情となって反響してくるのだ。
会場にいた53,000人、ライブビューイングや配信を含めると総勢16万人。
そういった大勢の重みをオードリーは"いつものラジオ"で以って打ち返してきた。
無論それを実現するだけの準備や技巧がオードリーの2人、それを支えるスタッフには備わっている事は言わずもがなであろう。
しなしながらこれだけの規模のお笑いを成立させたのは信頼や信念といったある種の思念の様にも思える。
それはオードリーとリスナーとの信頼関係という二項対立で語れるシンプルな物ではない。
オードリーやチーム付け焼き刃(オードリーのANNスタッフの愛称)の信じるお笑い。
そしてそのお笑いを信じるリトルトゥースたち。
そうした彼等の信じるお笑いを信じるリスナーという少し歪だが一様に皆同じ何かに信頼を置いたからこそ成立した空間だったのではないだろうか。
ひとつひとつ説明していくのはエネルギーが要るし、そもそも野暮な気もする。
とにかく泣いて笑って笑って泣いた。
そんな様なライブだった。
そしてラジオだった。


冒頭の話に戻るとやはり今この時代を生きる自分は酷く倒錯している感覚がある。
楽しそうな所につらつらと引き寄せられしっかりとそれらを楽しんでいる。
そんな風に過ごしているくせに思い出したかの様に辛い現実の事が頭から離れなくなったりする。
自分がどこにいて何を考え思うのが正解なのかずっと分からないまま日々を過ごしている。
こうした取り留めの無さを文字に起こす事で少しでも今にきちんと焦点を合わせられる様祈って生きている。
そういう感じなのである。

今日はここまで。

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