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サステナブルとかいう以前の話(続編)

私のサステナブル・アレルギーは、年々症状が悪化しているように思える。

技術が発達するにつれ、官民様々な団体が「サステナビリティ」に取り組み始めるにつれ、接触頻度が増えたからだろうか?その種類が多様化したからだろうか?

そして、サステナビリティを謳う取り組みの中には、少なからず胡散臭いものもある。単に価値観が違うのか、新しいもの・聞こえが良いものに飛びつくだけで中身がすっからかんなのか。洗脳(brainwashing)の仲間の、いわゆるSDGs-washingのたぐい。

食品廃棄物を高級○○に変える前に、代替食品を開発・普及する前に、とりあえずわかりやすい数値をやみくもに削減(もしくは拡大)する前に、問いたい。

そもそも、そんなに贅沢する必要ある?それで本当に幸せ?
そもそも、自然環境への敬意はある?大地の恵み、育ててくれた人に、頂きますの気持ちがある?

そうしたら、もしかしたら、じゃあそもそも、こんなに大量生産大量消費・輸出入するのを辞めてみようか、とか、質の良いものを少量食べて、生産者にも正当な価格で取引しようか、とか、単なる数値目標ではなくてホリスティックに皆の精神的豊かさを考えてみようか、とかいう話になるのではないか。


とはいえ、社会課題の解決はカッコよく、センスよくやるのに越したことはない。例えばシチリア島の反マフィア運動では、とても簡潔に書くと、皆で食べて飲んでビリヤードをすることで困っているお店を支援した、ということもあったらしい。義務感からではなく、ただ楽しいからやる。そうすることで広がっていく。

そして、別にサステナブル、という言葉や概念自体が悪いわけではなくて、例えばこの下の記事は共感するところが多かったし、「サステナブル」を上手に説明しているな、と思った。

サステナビリティには、気候変動だけでなく人権や格差の問題も含まれています。つまり、「食べる」は勿論のこと、「着る」「住まう」、そして「生きる」全体を包含する概念なのです。

高津尚志(上記の記事より)

このようなことを踏まえると、環境政策が進んでいるという欧州も、案外すっからかんだった、という部分も見えてくるし、日本で行われている取り組みも例外ではないとわかる。

そしてなんと、自分自身もすっからかんだということに、最近気が付いたのだが、これはまた別の記事で。


インスピレーション源
ずっと自分の頭の中でモヤモヤしていたこと
仲間との会話
「We Are What We Eat」著・Alice Waters
→ 日本語版「スローフード宣言――食べることは生きること」訳・小野寺愛)
「シチリアの奇跡 マフィアからエシカルへ」著・島村奈津

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