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「それじゃ新聞にならん」と言われた日

2023年5月6日、石川県珠洲市を震源とする大きな地震が発生した。

その直後から、Twitter上では「被災したけど無事です」といった趣旨の投稿に、各マスコミから「その写真ください。DMして!」という連絡が相次いでいるのを見た。

筆者にとってマスコミはもともと身を置いた業界で、愛着は人一倍ある。でも、いざ業界を離れ、その珠洲の件のやりとりを見ていると「こんなにも配慮に欠いた集団だったのか…」と認識した。

そこで思い出したのが、以下の記憶だった。

※全てのマスコミに共通しているとは限りません。ご注意を。

記者が置き去りに

新聞社に勤務していた頃、何度となくデスク(紙面計画を作ったり、原稿を直したりする人)に投げつけられた言葉。「それじゃ、新聞にならんやろ!」

例えば、地元出身のスポーツ選手Aが国際大会に出たものの、マイナースポーツだから地元の盛り上がりはイマイチだったとする。担当記者は低調さを知っているので、記事の扱いは控えめにするよう、あらかじめ伝える。

ところが、本社から外に出ない編集幹部が「えっ、沸いてないの?」「いやいや、普通は沸くだろう」「沸かないといけないよ」と言い始め、勝手に扱いを大きくして待ち構えてしまう。

でも、だいたいは後に、その日の紙面計画で他に目立ったニュースがないため、消去法的にどんどん前面に押し出されて大きく扱うしかなくなった、というような事情が判明する。

そして当日。記者が現地に行くと、やはり平穏。「静かです」と報告を受けたデスクは板挟みの中、内心で「それだと紙面計画が崩れ、自分が叱責される」と思う。そして、記者に「何か盛り上がっている要素を探せ」と命じる。

記者は必死に関連した話題を探して「地元のBさん家族が全力応援」という記事を書き、それが何人かの目を通ってゲラ(紙面の見本版)になる頃には「A(●●出身)、世界で躍動 地元歓喜『将来の目標に』地元児童に夢」みたいな「立派な記事」が仕上がる。

読者も置き去りに

もちろん、マスコミは地元出身者を応援するべきだ。スポーツ選手であれ、経済人であれ、学者であれ、地元ゆかりの人の活躍は、周知して然るべきだと思う。

でも、それが「ウソ」とは言わないまでも、明らかに現在の状況と異なる誇大な書き方や記事の扱いをするのは、読者への裏切り行為だろう。

今では市民がマスコミに明確な意義を見出しているかどうかも怪しいが、少なくともマスコミ各社は、公正公平で、事実をより多くの人に伝える媒体であるというような使命を自認しているはず。それをもって「信頼あるメディア」なのだ、と。

しかし、上記のような話は完全にマスコミ側の都合で事実を曲げて発信していることに他ならない。ただ紙面や放送時間を埋める道具としてネタを見ているだけ。もはや読者も置き去りである。

そして、マスコミも置き去り

マスコミが他のマスコミえお競争相手と見て、未だに「抜いた」「抜かれた」に明け暮れている(一部は既に路線を外れ、独自の歩を模索している)。

筆者も新聞社時代は「独自ネタを1本抜く。その積み重ねが新聞の価値を上げる」と言われ、納得していた。しかし、実際に新聞社を離れると、驚くほど多くの人が、特に理由もなく定期購読している。

つまり、記事内容に価値を感じているというよりも

  • 昨日も家に届いたし、今日も届いても良いか

  • 周りもまだ止めてないし、うちも止めなくていいか

という消極的な理由で購読しているに過ぎないのだ。ここに大きなギャップが存在し、思うに近年の「マスコミ離れ」の主因になっている。



世の中は変わる。平成のはじめ、約30年前の時点では全員が携帯電話を持っているわけではなかった。15年ほど前、スマートフォンが一般に普及し始めた。今では新規のガラケーが廃止され、TwitterやYouTube、TikTokなどを通じ、個々人が情報発信者になっている。

筆者が知る限り、マスコミはこの波にうまく対応できていない。というか、対応しようとしてもいない会社もあるかも知れない。平成が終わって令和になり、外部環境は日々刻々と変わるのに、依然として昭和を生きているところすらある。

記者が置き去りにされ、読者が置き去りにされ、マスコミ自体も時代に置き去りにされる。これだけ「つながり」が重視され、(良くも悪くも)いつでも誰とでもつながれるようになった時代に「置き去り」だらけの、この状況…何とも辛いものである。

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