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言語化はほどほどに、感覚も信じる

こんにちは
ライフキャリアデザイナーの千葉紘子です。
今日は「言語化」についてのお話。

言語化は大事。でも・・・

言語化は大事
とよく言いますし、私もそう思います。
言語化できるということはある程度、自分の中で整理ができていたり、自分の知っている言葉で表せるくらい理解が進んでいるからだと思うんです。
でも、言語化することだけが大事だとは思いません。

例えば、昔こんなことがありました。
中学校の帰り道、木が生い茂る道が通学路にあったので友達とワイワイ話しながら帰っていた時の事です。
きゃっきゃしながら話していたら、突然目の前、もうね、ホント目の前です。目の前数センチくらいのところに大きなハチが突然ホバリング状態で飛びながら止まったんです。
ハチと目が合ったような感覚は今でも覚えています。

一瞬何が起きているかわからず、フリーズ。友達は話に夢中で私が止まっている事にも気づかず先に進んでいます。声も出ないし、何と言っていいかもわからない。その直後少しだけハチが上に飛んだので、その動きでハッと我に返ったと同時に「ぎゃ~~~~~~!!」っと叫んで友達のいる方向にまっしぐら。
友達はきょとん
何があったか説明したくても、訳が分からなくて「いや、もう、あのね、うんとね、今ね。。。なんて言ったらいいんだろう、ハチが、ハチが。。。」みたいな言葉しか出ていませんでした。
友達はさらにきょとん
まあ、何かあったんだなくらいの理解だったでしょう。

何が言いたいかと言えば、このように人って本当にびっくりしたり、状況や感情を整理できていない時って、言語化なんてできないといういい例です。

もう一つ考えたいこともこの事例であるんです。

例えばもし、この時私が事の直後に、冷静に友達に
「いや、今さ、ハチが目の前にいきなり止まって、びっくりして止まったんだよね。でもハチが動いた瞬間に我に返ったから、逃げてきた」と話していたとしたら、状況は理解してもらえるかもしれませんが、どれだけ怖かったか、パニック状態だったかは伝わりにくいのではないかと思うんです。

つまり、言語化は相手に理解をしてもらったり、自分の意見、考え、感情を伝えるのに大事ですが、時には言語化しない方が伝わることあると思うのです。

言語化しようとすると薄れる

もう一つ。
最近自分を振り返るために、「いいな」「好きだな」と思ったことに対して、どういうところが良いと思ったのか、好きと思ったのかを内省する時があります。
これは、自分の好きな事、興味のあること、やりたいことがわからない時に見つける方法としても有効なんですが、その都度考えようとすると、言語化しようと思考が働きます。
そうすると、感覚的に良いと思っていても、どう表現したらいいかわからないことは言語化できず、言語化ができないと、「いい」「好き」と思ったこと自体が、「言葉で表せないってことは、そこまでじゃないのかな」と思って、感動が薄れてしまうような気がしています。

でも、確かに言語化できない感覚も含めて「いい」「好き」「心地いい」と思ったのは事実です。

なので、基本的には言語化が必要ない時は、感覚的に理解している方が楽しいと感じること、幸せと感じることが多くなります。

たとえ誰かに「どんなとこが良いと思ったの?」と聞かれて、言語化できなかったとしても、「上手く言えないけど、良いと思ったんだよね~」でいいんです。

クライアントさんとのセッションでも、そういった言語化できないこともたくさん出てきますが、無理に聞くことはあまりしません。でも、のちのち言葉で表せるようになったり、説明はできないけど自分の中ではしっくりくる理由がわかったりすることもあります。
そうやって自然に理解していく方が、本当に自分の好きや心地よさみたいなものを自分で受け入れやすかったりもします。

誰かに自分の感覚を伝えようと思ってがんばって言語化したことで、「あ、自分こう思ってたのか」とか「う~ん、やっぱこの言葉はしっくりこない」みたいな気づきもあります。

大事なのは、無理に言語化しない、しようとしないということですね。

言語化はほどほどに

今、世の中ではアウトプット大事!とよく言われます。
アウトプットするには基本的に言語化が必要です。

でも、たまには言語化を考えずに、自分の感覚と一緒にいる。
言葉にできない自分の感覚を信じるのも大事にしたいものです。



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