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「だんじりよ、永遠に」(一)



木彫り師、前田の野望

初夏、早くもだんじりのお囃子の音色が聞こえ始める。

そーりゃぁそーりゃぁと掛け声をあげながら走り込みをする男たち。と思えば、子供が横笛を自由に吹き鳴らして遊ぶ。鉛筆で机を叩いてお囃子の真似事をする。

当たり前に続いていくと思っていた風景が今、危機に瀕している。

新調1台1億円、事故せんかったら80年。そんな数字も今は昔。もはや新調をする町自体減り、新調にかけられる価格も大幅に下がっているという。

出会い


遡ること、5年。

フェラーリが、呉服屋やお好み焼き屋といった昔ながらの商店が並ぶ岸和田の細い道を走ってゆく。運転しているのは、大学の同級生だった不動産会社の社長。
祭りが好きだと言う私に「彫り師、紹介したるわ」と言ってくれた。

当時大学生だった私はそれがフェラーリだということさえ知らず、常ならざる世界への高揚と恐怖が綯い交ぜになったまま革張りの助手席で縮こまっていた。


そして、今年の4月。

私はJR天満駅を降りて、行き交う人をかき分けながら日本一長いと言われる天神橋筋商店街を全速力で走っていた。
5年前と同じ相手に会うためだった。

だんじりの将来はこの男の双肩にかかっていると言っても良い。
だんじり彫刻師の前田暁彦氏だ。

5年前、緊張しながら覗いた戸口の向こうにいたのは「だんじりの彫り師」という言葉から想像していたのとは真逆の、眼鏡を掛けた優し気な笑みを浮かべる男性だった。

そして今、男は「伝統工芸の技術を残す」という己の使命に気付き、伸ばした髪を後ろで括り眼光が鋭くなっていた。

だんじり彫刻師とは


そもそも、だんじりの彫り師と言われてピンと来る人はどれくらいいるだろうか。会社の先輩は入れ墨の彫り師と勘違いしたくらいだった。

また、多くの人がだんじりと言われて思い浮かべるのは、町中の交差点や辻を勢い良く曲がるやり回しや屋根の上で踊りながら方向を差配する大工方などだろう。さらに言えば、事故のニュースか。

しかし、荒々しく扱われるだんじり本体に施されている精緻な彫り物も見どころだ。

その彫り物には、だんじりを支える町の人の思いや様々な昔話が描き出されているという。

前田氏が手掛けただんじりには、そうしたものが色濃く反映されている。

例えば、前田氏の地元である堺市鳳地区長承寺のだんじりには、かまきりがだんじりの屋根に現れた年には祭りで事故が起きないといういわれがある。そのかまきりにあやかって、前田氏は屋根にかまきりを彫り込んだ。

また、この町では、前田氏自身が中学時代に聞いた「長承寺の雷井戸」に関する伝説も、だんじりの顔と言われる正面の「土呂幕(どろまく)」に彫り込んでいる。

前田氏の出世作、長承寺のだんじり「長承寺の雷井戸」(前田氏提供)

また、他の町では、土呂幕に彫るよう依頼された「信長、蘇鉄の怪異を見る」という題材と向き合うために、前田氏自身が実際に現場に足を運んだという。
その訪問を機に、それまではどう彫り出そうかと悩んでいたのが面白いほどに頭の中に映像が湧いてきた、と著書「好きなことを仕事に変えた木彫師」で明かしている。

これで彫刻師の仕事がどういうものか見えてきただろうか。彼らは職人でもあり芸術家でもある。

忍び寄る時代の変化と容赦ない価格競争


それにしても、あれだけの観光客を集め全国的にも名前が知れ渡っているように見えるだんじりだが、その足元にも少子高齢化と円安、さらには人々の意識の変化が容赦なく忍び寄っていた。

曳き手不足で、町同士融通しなければ回らない。祭りのとりまとめ役に手を挙げる人がいない。

さらに前田氏は言う。

「下げ合戦が始まってんねん。」

「カローラしか買われへん金持ってレクサスなんか買われへん訳やんか。」

独特の例えで語られたのは、だんじりの新調に1億円も掛けられていた時代は終わりを告げ、如何に安く良いものを作るかを競い合う業界の姿だった。

生き残りをかけて


5年前に出会った時、前田氏は「岸和田を出ていこう思てるんや」と語っていた。仕事に欠かせない製材所が集まり何よりだんじりの聖地であるにも関わらず、だ。

そして、生き残りをかけて、大阪・天満で株式会社木彫前田工房を構え新たな商品開発や販路開拓、イベントへの参加などに奔走する今。

「ベトナム行こう思てるんや。」

それから少し言いよどんで呟いた。

「だんじりは嫌いやねん。」

――「機動、RIJINDA」に続く。

#シードアシスト独自取材 #関西 #だんじり

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