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【プロポ11】「絶対」という言葉を使うとき

プロポ

プロポとはアラン『幸福論』に代表される文筆形式を表すフランス語。短い文章で簡潔に思想を著すエッセイのようなもの。日本では「哲学断章」とも訳されます。アランのそれは決して学問として哲学というほど仰々しいものではなく、アランが人生で培ってきた教訓や行動指針を新聞の1コーナーに寄稿するという形で綴ったもの。僕も見習って、頭を行き来する考えをプロポとしてまとめることで思考を整理していきたい。

僕のブログ「持論空論」で展開していたものをnoteに移行しました。

【プロポ11】「絶対」という言葉を使うとき

 「絶対」という言葉の使い方に気を付けよう。何人かの友人と、そんな話をすることがあります。彼らは会話の中で「絶対」という言葉を意図して避けており、口をついてその言葉が出たときは「絶対とか言っちゃった。」と自分を戒めます。ここでいう絶対というのは、「相対」の対義語として使われるような「絶対」ではなく、ただ断定を強調するために使われる副詞の「絶対」です。

 「絶対」という言葉は避けるのは、誠実で賢明な姿勢に思えます。というのも、自分の口から「絶対」という言葉がこぼれそうになるときを意識的に観察していると、その多くは「絶対ではないとき」だからです。逆説的ですが、僕たちは絶対ではないときに、その核心のなさを覆い隠すための力技として「絶対」という言葉を使っているようです。

 話の前提として、「絶対」という言葉が強調語であることを確認しましょう。それも例外を許さない、他の可能性を排除する、断定的な強調語です。少し逸れますが「ゼッタイ」という言葉は、発音的にも強いイメージを与える濁音で始まるのに加えて、撥音便(ッ)によって力を込め強調しやすいというのも、この単語が好んで使われる理由かもしれません。(「ッッッッツタイに!!」とできるということ。)つまり、「絶対」と言いたいときは、その内容を僕たちがどうしても相手に納得させたいときであるということです。異論は認めず、自分の言い分を押し通したいという気持ちが、意識的にしろ、無意識にしろ、あるのだと思います。

 どうして「絶対」という強い言葉を使う必要があるのでしょうか。相手と自分で共有されている自明のことや、議論の余地がないこと、または相手の同意が期待できることであれば「絶対」という言葉を使わなくても相手は納得するはずです。よって僕たちは自明ではないこと、議論の余地があること、相手の同意が簡単には期待できないことを伝えるときのことに考えを絞っていきましょう。そのような場合は、まず自分としては相手に同意してほしいわけなので、相手が納得して同意してくれるような算段をつけようとするはずです。根拠の収集と提示、相手へのインセンティブの用意、例え話など、様々な努力や工夫が考えられます。このように説得の算段を整える過程では、ありがちな反論はひと通り想定するでしょうし、多角的な検討も行われるはずです。そうすると、その問題について考える僕たちは、少し距離を置いて、客観的にその問題を見直すことを迫られ、徐々に最初に自分が「そう信じたかった感情」から離れ、冷静にものを考えることになります。このような準備がある状態で、相手と向き合ったとき、「絶対」という言葉はもはや必要ではなくなります。

 裏返せば、問題に対してそれほど深く向き合っていない、多角的な検討をしていない、最初の直感以上に考えを掘り下げておらず感情が先行している、といった段階でこそ「絶対」という言葉が必要といえます。ここまでの書きぶりだと、顧客への提案や、家族旅行の行き先など、公私は問わないまでも、自分と相手の双方に関係する何かしら大きな決定のための会話における「絶対」を想定しているように聞こえるかもしれません。しかし、同じことはもっと砕けた会話でもいえます。その場合、会話の中で散発的かつランダムに飛び出てくる諸々の問題に対して自分の意見に同意してもらうための準備などする時間はありません。よって、たまたま自分が以前にそれについて考えたことがあったり特定に考えを持っていたりするかどうかを、「絶対」という言葉が必要かどうかの線引きとして考えることになります。

 例えば、僕はこれまで50か国以上を訪れてきたので、「オススメの国はある?」という質問をよく受けます。この質問には「アイスランド」と答えることにしています。もし僕がアイスランドを訪れることについて深く考えたことがなく直感で答えるなら、おそらく「絶対行ったほうがいいよ!」と言ったでしょう。それほど僕の中でアイスランドという国での経験は素晴らしかったのです。今でもあそこで見た息をのむ景色の数々を思い出すと、直情的に「絶対!」と言いたくなります。しかし、僕はすでにアイスランドという国を訪れることについて様々な検討をしました。アイスランド旅行を勧める理由と同じくらい、勧めない理由も浮かびます。自然よりもグルメに興味がある人もいるでしょう。季節によっては極夜の時期もあります。物価は引くほど高いです。日本から遠いので移動で結構な時間を使ってしまいます。レンタカーがないと周りにくいので運転免許がない人には勧めにくいです。こうなるとアイスランドに絶対行ったほうがいいかは、言うまでもなくその人が何を求めるかによるということになるので「絶対」とは到底なりません。

 「絶対」という言葉は、上記のような多角的で真摯な検討の余地を排除してしまいます。冷静な観察や判断に基づかない、自分の直情的な感覚を信じたいという願望が、「絶対」という言葉を使いたくなる気持ちに現れています。裏を返せば、「絶対」という言葉の禁止は、感情的な願望を抑制し、多角的な検討の余地を残すという良い思考の癖に繋がる可能性があります。口をついて「絶対」と言いたくなったときはグッと堪えて立ち止まり、この発作的な「絶対」の湧出は、自分がその問題に対して十分に検討していないという事実の証左だと、自らに言い聞かせてみます。そうすることで一度問題から感情的な距離とり、気持ちが引かれるのは別の角度から物事を見直すという時間をとることができます。これは、常に物事に健康的な疑いの目を向け、暫定的最適解を更新しようとする知的姿勢と言えるかもしれません。正解があるのではなく、暫定的最適解があるのです。現在持ち得る情報から最も妥当と思える解を握っておきますが、これは常に更新されうるものだという姿勢です。一方で「絶対」というのは、そのような余地を、根拠のない信仰で埋め固めようとする言葉といえます。

 ここまで「絶対」という言葉は使わないほうが良いという文脈で綴ってきました。しかし、「絶対」という言葉を否定する以上、絶対という言葉を「絶対使ってはいけない」とはもちろん言えません。そこで次に、「絶対」という言葉を使うべき場合にも目を向けてみます。それは「絶対」という言葉が「意志」を強調するために使われる時です。

 意志を宣言するための「絶対」。これにはネガティブなものと、ポジティブなものがあります。そしてこのネガポジは動的に移り変わり得るものであるということも理解しておくべきです。ネガティブな意志を宣言する「絶対」は、僕たちにとっては地獄の鎖になりえる危ういものです。「絶対に許さない」などが典型的な例です。感情的な怒りから些細なことに対してでもこのような表現をする人がいますが、これは自分を怒りに執着させているだけの空しい習慣です。「絶対に諦めない」「絶対に叶える」などはポジティブである場合もありますが、固執の期間や度合いが過剰だと同じく地獄の鎖になりえるものです。

 ポジティブな意志を宣言する「絶対」の最たる例は「絶対に見捨てない」「絶対に裏切らない」など、他者に投げかける言葉です。もちろんこれも発話者のなかで強迫観念のようになってしまえばネガティブに転じうるものですし、これを言った以上、その言葉に反することをしてしまうと相手を大きく傷つけるものになります。ネガティブな意志を宣言する「絶対」が鎖だったならば、ポジティブな意志を宣言する「絶対」は命綱です。命綱を投げたなら、それを離すことは相手を崖に突き落とすことです。しかし、この場面でそのような責任を負ってまで「絶対」というべきだと僕が考える理由は、やはり「絶対」という言葉には「余地を埋め固める力」があるからです。これは、ここまでずっと「絶対」の悪い性質として書いてきたものですが、良い性質になる場面もあり、それが他者との信頼を構築するときなのではないか思います。「絶対」は、「余地を根拠のない信仰で埋め固める」言葉でした。つまりそれは、「根拠がどうしても見つからないものを信じる」ために余地を埋める力を持つということでもあります。他者を信頼するための確実な根拠などどうやって見つかるでしょうか。それこそ暫定的最適解として、「今のところこの人は信頼できるかな」などとやっていくしかない。では人間同士はずっと信頼し合うこと、お互いに繋がることはできないのでしょうか。信頼するということは裏切られるというリスクが常に伴います。しかしそれでは人間は永遠に孤独のままです。社会的に作られた人間という種はひとりでいきていけません。それは契約的な関係によって解決させる物質的な需要のためだけではなく、精神的な意味においてもそうです。精神的な孤独は契約では解決されません。必要なのは契約ではなく「約束」です。契約不履行には不履行時の条項が適用されておしまいですが、約束破りには条項がなく、あるのは信頼の喪失とお互いに残る傷です。しかしこのようなリスクにばかり目を向けていては、誰が他者を頼れるでしょうか。誰が他者に助けを求めることができるでしょうか。きっと僕たちはどこかで盲目にならないといけないのです。盲目に、根拠なしで、誰かを信じないといけない。この「余地」を埋め固めるために「絶対」というならば、それは「絶対」という言葉が使われてしかるべきときと言えるのではないでしょうか。もちろんそれがいつネガティブな意志に転化するかわからないという、十字架を背負う覚悟は必要ですが。

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