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「オレがオレが」はもうやめた


最近、仕事中にちょい、ちょい出てくる感情の一つとして「嫉妬」があります。誰かが評価されると、「オレが裏で動いているんだよ」という「オレがオレが」という思考がでてきます。ベースの感情は嫉妬。この感情は結構厄介で、しつこく自分の中にまとわりついてきます。「オレがオレが」について、ハッとさせられる記事(日経ビジネスに京セラ名誉会長の稲盛和夫氏に関する記事)がアップされていました。しかも「瞑想」というワードが出てくるので、noteにこの記事を上げておきます。ネットの記事なので、閲覧できなくなる可能性があるため、記事を引用文としてアップします。
このアップの仕方は問題あるのでしょうか。。。

講演は、1959年の京セラ創業から約10年がたった頃の話から始まる。当時の稲盛氏の年俸は300万円にすぎなかったという。一方、京セラは数十億円の利益を出していた。そこで稲盛氏はふと、こんな思いに駆られたと告白する。「すべては私が持っていた技術だ。そして寝るのも惜しんで一生懸命に頑張り、数十億円の利益を会社にもたらしている。考えてみれば、どう見ても割が合わない。月給を1000万円もらっても、年間で1億2000万円だ。数十億円の利益は全部私がつくったものだから、そのくらいもらってもバチは当たらんのではなかろうか」
中略 
 稲盛氏とて聖人君子ではない。会社の利益に比べれば自分の給料は安い、もっともらってもよいのではないかと考える、ごく普通の経営者だった。しかし、稲盛氏は行動に移さず、立ち止まる。その姿勢は株式上場時に、より顕著に表れた。
 京セラが大阪証券取引所二部に上場したのは1971年。主幹事の座を得ようと多くの証券会社が日参し、「創業者の稲盛さんには、何億円というお金が入ってきます。これまでの苦労が報われますね」と口をそろえて言った。しかし稲盛氏は、どこか釈然としないものがあった。
 「いつ会社が潰れるかもしれないと不安で不安で、必死に頑張ってきた私に、考えてみたこともないお金が入ってくる。年俸数百万円しかもらっていない私に、何億円というお金が入るという。人間、そちらのほうに心が向かないはずがありません。けれど、どうもおかしい、これは悪魔のささやきではなかろうかと思いました」
 悩んだ末、稲盛氏はキャピタルゲインを個人で得ることはしたくないと話した。どの証券会社の担当者も目を丸くし、「そんな経営者はいません」と反対する。ただ一人だけ「素晴らしい話です」と賛同した人がいた。稲盛氏はその証券会社に主幹事を任せ、京セラを上場させる。持ち株はただの一株も市場に出さなかった。
 経営者が株の売却益を得ることの是非はここでは問わない。ともあれ、大金を得ることで、自分が変わってしまうことを稲盛氏は極度に恐れたのである。「このときの決断が、私が人生を間違うことなく歩いてくることができた元になっているような気がします」と振り返っている。
 では、なぜ稲盛氏はそうした決断を下したのか。それは、上場前に読んだ、ある新聞記事が頭にあったからだという。女優の岸田今日子氏の寄稿コラムだった。
 イスラム文化の研究者で、哲学者、思想家でもあった井筒俊彦氏の本を、心理学者で文化庁長官も務めた河合隼雄氏が読んで、そのことを本に書いた。その本を岸田氏が読み、感想を新聞に寄稿したのだった。
稲盛氏はこう話す。
 「井筒さんはヨガの瞑想をしていたそうです。その井筒さんがおっしゃるのには、瞑想をすると、自分が『ただ存在しているとしか言いようのないもの』で成り立っていると感じる。同時に、周囲にある森羅万象すべても『存在としか言いようのないもの』で出来上がっていると感じられる意識状態になるという。
 『人は〝花がここに存在する〟と表現するが、〝存在というものが花をしている〟と表現してもおかしくないのではないか』。井筒さんは本にそう書いたそうです。
 この井筒さんの本を河合さんが読み、著書の中で『あんた、花してはりまんの? わて、河合してまんね』と表現した。これを岸田さんが読み、何と素晴らしいことかと感じたという話が、そのコラムに書いてありました」
「あんた、花してはりまんの? わて、河合してまんね」というのは、何ともほのぼのとした言葉でありながら、哲学的な示唆に富む。稲盛氏は岸田氏同様、この話に大きな衝撃を受けたという。
 「私は一生懸命に頑張って会社を立派にし、数十億円の利益が出るようになった。そのとき、これはオレがやったんだ、オレの才能で、オレの技術で、オレが寝食を忘れて頑張ってきたのに、そのオレの給料が300万円しかないとは、割が合わんではないか、『オレが、オレが』と思った。
 私はシリコントランジスタの入れ物を作り、超LSIの発展と共にセラミックのパッケージを供給しました。半導体の勃興期、私は大変な貢献をしたと思っています。そして、そういう才能をオレが持っていたから京セラが上場し、大変な利益を上げるようになったのだと考えていました。
しかし、岸田さんのコラムを読んだときから、こう思うようになりました。
『半導体が勃興していくには、ある人間が必要だった。たまたまそれが「稲盛和夫」であっただけで、ほかの存在が「稲盛和夫」と同じ才能を持っていれば、その人が代行していてもよかったはずだ。 私が一介のサラリーマンであってもおかしくはない』
 つまり我々が生きている社会は、壮大なドラマだと思うのです。劇場です。その劇場で、たまたま私は京セラという会社をつくる役割を担い、京セラという会社の社長を演じることになった。ただし、それは『稲盛和夫』である必要はなく、そういう役割を演じられる人がいればよい。たまたま、私であっただけなのです。
 今日は主役を演じているけれど、明日の劇では別の人が主役を演じてもよい。にもかかわらず『オレが、オレが』と言っている。それこそが、自分のエゴが増大していく元になるように思うのです。
 自分の才能は、世のため人のため、社会のために使えといって、たまたま天が私という存在に与えたのです。その才能を自分のために使ったのでは、バチが当たります。エゴを増大させていっては身の破滅だと思った私は、それからエゴと闘う人生を歩いてきました」
「私たちは心の中に、良心という自分とエゴという自分を同居させているのです。ピュアな真我と卑しい自我が同居しているのが、人間の心なのです。お釈迦さまは、人間とはスタボン(頑迷)で、少しでも手入れを怠ると欲にまみれると知っていますから、『足るを知りなさい』とおっしゃった。『オレがオレが』『もっともっと』と際限もない欲望を膨らませてはいけないのです」
引用:https://business.nikkei.com/atcl/seminar/19nv/00124/00016/?P=4


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