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「レシピ」に似たところのある作品(や本)たち(その1) by 木村覚(BONUS)

私たち(福留麻里+BONUS)は、「ひみつのからだレシピ」というプロジェクトを2019年の冬より進めています。それはたとえば、毎朝8時にこんなテキストを配信することです。

普段している動作で寄り道をする

携帯をタップする指が空中から画面
を触れるまで。
歩いているときに右足を左足が追い越
すまで。
ノートをめくる最中。。
ある動作が目的を果たすまでの間にあ
りえるかもしれない無数の時間を漂う
ように過ごす。最後は目的を果たす。

ひみつのからだレシピ #2 〔作者は福留麻里〕

こうした言葉たちを、登録してくれた人にLINEで送ったり、メールの希望者にはメールで送ったり、Instagramでも配信したりして来ました。ほとんど毎日、朝8時と決め、希望者に「レシピ」という「カプセル」を届けて来ました。

ひみつのからだレシピ(Instagram版)
https://www.instagram.com/bonus6234/?hl=ja

どうして、このような形態を思いついたのか?
どうして、配信しているのか?
これは、なんなのか?
これも、ダンスなの?

「からだレシピ」というが「からだ」の何? 健康増進には役立たなそうだし、、、
と疑問だらけだと思います。

今回は、なぜ「レシピ」がこのような短いテキストの形態をとっているのかについて、お話をさせてもらいたいと思います。

オノ・ヨーコ

こうしたスタイルには、先達がいます。まず絶対外せないのが、オノ・ヨーコの存在です。

オノ・ヨーコの表現スタイルは、作品の中でしばしば言葉が用いられているところにあります。「YES」とだけ天井に貼ってある作品など言葉が作品そのものである場合さえあります。また、言葉はしばしば「動詞」が活用され、命令文になっています。これを美術の分野では「インストラクション」(指令)と呼びます。

例を挙げてみましょう。『グレープフルーツ』に収められている「13日のDIYダンスフェスティバル」(なすがまま)という作品は、13日分のインストラクションがイラストとともにまとめられています。例えば、

握手
できるだけたくさんの人と握手をしなさい。彼らの名前を書き留めておきなさい。エレベータで、地下鉄で、エスカレータで、街角で、トイレで、山の頂上で、暗闇で、白昼夢で、雲の上で、などなどやってみなさい。手に花を持ってしたり素敵な握手にしなさい。香水をつけたり、手をよく洗ったり、などなど。

これは「9日目の午後」の行いということになっています。「握手」というとてもシンプルな行いを命じるこの作品は、読んでいると、あたかも実際にこの「握手のパフォーマンス」を実践しているかのような気持ちになってきます。実は、このような気持ちにさせるところがオノの作品のきもだと言えると思うのですが、実際に握手せずに握手している自分を想像するだけでも良いんですよね。もちろん、実際にやってみたら、それはそれで深い経験を引き起こすことでしょうが。後で、この点についてもう少し掘り下げてみます。

ジョン・ケージ

オノ・ヨーコがこのような「スコア」についての考えを膨らませたのには、ジョン・ケージという先駆者がいたことを無視できないでしょう。ケージは『4分33秒』という作品で知られていますが、この曲の特徴は、演奏がないことではありません。いや、無音と思われる出来事を生んでいるのはこれが一つの演奏だからです。スコアを見てみましょう。

I
TACET
II
TACET
III
TACET

この作品は三楽章形式です。楽譜には、それぞれの楽章に一言「TACET」(ラテン語で演奏しない)と書かれています。だから、演奏者は、忠実に楽譜に従うことで、演奏をしない、楽音を一切発しないということ演奏を遂行することになります。

ケージは、この曲によって、楽音(楽器によって、また声楽を学んだ声によって生まれた音)ばかりが音楽ではない、と私たちに投げかけました。楽音が静まれば、相対的に、その場の小さな音たちが聞こえてきます。無数の小さな音たちの存在に気づき、その存在の表情に関心が向かう。こうしたケージの策略にアイディアを提供したのが、ロバート・ラウシェンバーグの『ホワイト・ペインティング』だったと言われています。白いキャンバスは、何も描かれていません。ただツルツルしています。けれども、それが鏡の効果を持っていて、外の世界を写し取り、見る者に外の像を見せることになります。

いや、しかし、すいません、重要なことは、ここではありません。『4分33秒』の革命的なところは、その譜面に関するアイディアにありました。それまでの譜面は、演奏されたときの姿形を伝えるものでした。演奏すれば、その通りに、出来上がります。しかし、『4分33秒』は違いました。この譜面には、「指令」しか書かれていません。いや、正しく言い直せば、確かに譜面というものは、端から端まで指令が書かれたものです。しかし、ここには、「指令」しか書かれていません。「指令」に従うとどうなるのかがこれだけでは皆目分かりません。ここでプレイヤーは、「やれ」と言われ「やれと言われた通りをやる」役目の存在なのです。ケージはこうした次元のプレイヤーの存在に気づいた、と言うことができるでしょう。

その気づきは、演奏者は誰でも良いということを随伴します。プレイヤーは、優れた技量を持った人物でなくても良いのです、それを「上手に」やるには技量が入りますが「やれ」と言われたことをただ遂行すれば良い、というだけならば。オノの場合にも当てはまりますが、指令をただ遂行することがプレイヤーの仕事であるならば、これは誰でもできるわけです。これによって、芸術の分野におけるパフォーマーの民主化が達成されたと言えると思います。

ケージに影響を受け、「指令」としての楽曲が次々と生まれていきました。例えば、ラ・モンテ・ヤングはこんな曲を書きました。

譜曲1960 #5
一匹の蝶々(あるいは複数の蝶々)をパフォーマンスの領域に放ちなさい。この譜曲が終わったら、そのときはきっと蝶々は外へ飛び立っても構わないということだろう。
この曲はどんな長さであっても構わない。制限なく時間が使えるのであれば、ドアや窓は蝶々がふわふわと飛んでゆくまで開けておいて良いだろう。そして、蝶々が飛び去ったら、この譜曲は終了とみなされて構わない。

この曲のプレイヤーは、あえて言えば「蝶」です。気まぐれな蝶のパフォーマンスを見ながら時が過ぎていく、そうした「演奏」(?)がここで実演されます。『4分33秒』であれば、楽章の区切りは時間で決められていましたが、この曲では終わりは「蝶々が飛び去ったら」なので、時間の区切りさえありません。作品のフレームは相当に緩くなっています。ここで言われる「パフォーマンスの領域」とは、空間に限らず時間としても他と区切られた領域でしょうが、しかし、その枠は(これをイメージするとき、私はしばしば「お弁当箱」や「プール」を想像します。そうした「容器」に音やら蝶やらが見出される感じ)、多様な可能性を許容するものになっています。

そして、ジョージ・ブレクトのよく知られている『ドリップ・ミュージック』も、この系譜にある楽曲と言えるでしょう。

「指令」(インストラクション)としての譜曲。先述したようにオノ・ヨーコもまた、このアイディアに追随した作家です。けれども、オノ・ヨーコには、他の作家にはあまりない不思議な要素が含まれています。一言で言えば、それは「イマジン」(想像せよ)という指令です。彼女の作品のいくつかは、美術館とか、劇場といった、物理的な展示空間を必要としません。彼女の作品の上演・展示場所は、鑑賞者の頭の中で良いのです。私は、このアイディアを極めて重大な発見だと受け止めています。

これは彼女が第二次世界大戦中、疎開先でひもじく暮らすなか、弟を励まそうとして、想像の食べ物を食べたことに由来するとどこかで読んだ記憶があります。美術館にも、劇場にも縛られないで、鑑賞者の心の中だけで上演しうる作品。この発想に、私たちの「レシピ」は刺激を受けていると言えると思います。いずれどこかで紹介するつもりですが、「レシピ」のアイディアの発端には、決まった劇場に決まった日時に足を運ぶことができない人にもダンス(とからだのアイディア)を届けられないものか、、、という思いがありました。10年前、子供が生まれ、とくに最初の数年は外出に苦労がありました。美術作家の友人のライブ・パフォーマンスに子供を連れていくと、やんわりとだったが「出ていってくれ」と複数の観客から言われて、困惑した経験があります。「子供の泣き声」は確かにうるさいかもしれません。けれども、それを排除することでしか成立し得ない展示や上演という形態には、そもそも限界があるのではないか、そんなことを思わずにはいられませんでした。

「排除」ではなく、むしろ「包摂」を可能にするアート・フォームはないか。「レシピ」にはそうした問いから生まれたという側面があります。それは、「レシピ」の「指令」をやってみるのももちろん良いのだけれど、先述したように、やらないでただ読んでみるだけでも良いのです、読むだけでも「からだ」への想像が誘われるわけです。ケージが引き出した芸術の民主化への道筋を「レシピ」は進んでいると言えると思っています。

「その2」に続く










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