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島本さんの書く女性たち(1/20)

島本理生さんの「夜はおしまい」と言う本を読んだ。あっという間だった。
文庫版あとがきを読むに、これが島本さんの最後の純文学作品ということだ。島本さんは同じ年生まれの作家さんで「Red」「ファーストラヴ」などの代表作を中心に幾つか拝読している。彼女の書く女性たちの心情、思考、生き方は私の中に全くないものばかりで、"どうしてそうした(言った)のか"あらゆるシーンで様々な可能性に本気で向き合うのだが、結局のところさっぱり分からない。女と男の…みたいなのも全然分からない(笑)。
必死でヒントを拾おうとしたり読者レビューなどを探したりもするが、なるほどと溢しながら分かるようで分からない。
そもそも私はこの"分かるようで分からない"状態にとても敏感で、ある種の非成功体験として常に指差し呼称して「私はまだ正気である」と安心したいのだと思う。

音楽と違って本は人間たちがそれぞれに具体的な自我を持っているわけで、作家さんたちは自分で命を与えた登場人物たちとどういう関係性でどれくらいの共感性や共通項を持っているのか分からないけれど(とても興味があるのでその手のインタビュー記事とかあればぜひ教えて下さい!)仮に私がどこかで島本さんにお会いしたとして、「初めまして」と言ってから何ひとつ言葉が思い浮かばず、居心地悪そうに愛想笑いなどしそうだなと思っている。こういう女性たちを描く人には、自分が無神経に映るのではないかと言う恐怖心に近いものがある。そして、島本さんが意外にもお喋りだったらいいなとお会いする予定も予感も全くないのに無駄な空想を何度もするのだから、私は相当彼女が気になっているのだろう。

そういえば少し脱線するが、この仕事をしているとどんどん"嬉しそうに笑う"のが得意になる。そんな夢なんてまだあるのか分からないが、夢を壊すようで少々申し訳ない。本当に嬉しくて笑っていることも当然あるが、愛おしそうな感じで笑うことは大して難しくなくて、むしろその先にあるものがどんどん遠のいて...いや待て、壊してしまう夢があるかないかとかじゃなくて、皆んなそんなもの知っているけれど知らないふりをして楽しくやってるだけかも知らない。全部言おうとするなんて野暮という話か。というこれは何の話?

あまりにまとまらない余談でお茶も濁りに濁ってしまったが、私は島本さんの書く本はやっぱり読みたくて読んだらさっぱり分からない、を繰り返している。文学や音楽や映画や写真や絵画なんかはそういうところがたまらなく良い。色んな繋がり方が許されている。
人間関係だってそれくらい自由にできたらいいのに。目線の先に生きた人間が立っていると、途端に色んなことがぼやけて私もどろどろに溶けていって、何だかなぁ。

毎日"ぼんやりとしている"時のことを書いている気がするが、今日もまたぼんやりと降ったり止んだりする雨の中で珍しくバスに揺られていた。今日のは、座席の下からヒーターがほわんとふくらはぎを包んでくれていたからかも知れない。ぼんやりとしていたら、いつの間にか呑気に夕餉の献立のことを考えてお腹がなった。


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