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優しい人たち

私の友人たちはユーモアに溢れている。

普通の家で育った子もいれば、同じ境遇の子もいる。

もちろん黒歴史と言われるような学校で同じように学んだ子もいれば,誰もが一度は聞いたことのある名門校で学んだ子もいる。

セクシャリティも関係なく、お互いのバックグラウンドも気にしない。

共通点もあれば、何もない人もいる。正直、どこでどう繋がったのか思い出せない友人もいる。

私自身が万事が万事この調子なので、一度遊んで二度と会わなくなる人もいれば、友人を介し一度会っただけで、その後も頻繁に遊ぶようになった人もいる。

人との縁が不思議な繋がり方をしている。

そして、どの友人にも共通しているのは
ユーモアがあり、人を思いやれる優しい人たちなのだ。

自肯定感が著しく低く、適応障害という病気も持っていて、メンタルなんて豆腐より脆いし、狸並みに小心者な私を見捨てずに関わってくれる。

優劣をつけず、対等に話をしてくれる。

私の話を遮ず、被せて自分を主張せず、タイミングを見極めて、自分の考えを話してくれる。

当たり前だと思う。

でも、私の周りにはその当たり前ができない大人ばかりだった。

相手を思いやれず、自分の欲望のままに生き、人を傷つけている事にさえ気付けない大人があまりにも多かった。

人生の先輩として、道標として、見本として生きていた大人が、全てこんな人達だったから、私の常識は他と違っていた。

対話するということの基準が違った。

いかに相手を貶め、辱め、自分が優位に立つか、そればかりに頭がいく大人が多かった。

「マウント」「論破」私の周りで交わされる言葉の大半がこれに集約されていた。

褒める、認める、尊敬する。

会話の中に混じる笑いは下卑たもので、あいつはどこが劣っている、あそこの家は頭がおかしい、あいつらは常識がない。

障がい者を見れば憐れみ嘲りの対象にし

ボランティアを見ると「金持ちの道楽」と言う

福祉で働く人を「底辺」と位置づけ見下し

人を貶すことで笑いが生まれ、人の失敗を待ち望む。

そんな環境で子どもが育つと、他の人との笑いのタイミング全く違う。

違和感だけ残して、何が面白くなかったのか、何が面白かったのか、分からなくなっていた。

家を出て、外から家族を見た時…私は自分の存在が恥ずかしくて仕方がなかった。

自分も「あちら側」にいたのだと知り、激しく嫌悪して、羞恥心で頭がいっぱいになった。

違和感に気付かせてくれたのは私の周りにいる人たちの存在が大きかった。

例えば駅のホームで白杖を持っている人が困っていれば声をかけ、危なくないように配慮できる。

道で蹲ってる人がいれば車を止めて「大丈夫ですか?」と駆け寄っていく。

海外の人が道に迷っていて話しかけてくると、地図を広げて何が目印か、どうやって行くか説明する。

存在を無視せず、相手に向き合って対話する。

当たり前が私の周りに集まり出した時、自分がいかに理不尽な人間だったか、恥ずべき行動を「普通」のように振る舞っていたかを知った。

そして、何よりも優しくする事、笑う事は特別な事じゃなく、誰かを貶めて得るものではないということ、相手を傷付けて得るものじゃない、笑うということは優しさの中で生まれるものだと知った。

赦して、赦されて、庇われて、庇いあう。

人は本来、助け合って生きていくのだと知った。

私は生まれた時から摂取される側だった。

これは本来なら怒り、嘆くべきことなのだ。

異常な世界で、普通が通らない事の難しさ。

非常識の中で生きた結果、常識の基準が全く違った。

家を出て、家族や血縁者から離れた。たったそれだけで、価値観が全く変わったのだ。

家を出てまだ折り返しの年齢にはなっていない。

でもそれまでに…私はこの優しくユーモアのある友人たちから沢山学び、自分の中にある常識を全て覆していきたい。

いつか全て赦してもらえる生きた方をしたい。

いつか全てを赦して生きれるようになりたい。

私も優しい人の一部になりたいのです。

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