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「喜びは苦しみの向こう側」2

三浦海岸は駅を出てもすぐに海には出られない、海へと続くわかりやすい道は大通りを南に向かって歩くのだが、幹線道路なため観光地ムードはない。

海へ向かう歩道は高校生が2人肩を並べて歩くには少々狭く、時折車道に片足を落としたりしながら海へと突き当たる三叉路へ歩いた。その横で友人の学はどの様にして学校を辞めることを親に承諾させて書面に判子を押させたか、そして担任のところへ出向き退学願いを提出した時のやり取りを情景描写を交えて誇らしげに語っていた。

学「担任はさぁ、本当に良いのかって何回も聞くんだよ。もう決心着いてんのにさぁ。こんな底辺の工業校でも高校は出ておけとか、将来苦労するとか、ウゼェんだよ。取り敢えず誕生日過ぎたら速攻で原チャリの免許取りに行ってくるよ。バイト代でNチビ買うわ」

蒸し暑い10月の昼前、湿気があるせいか海の上の空気は白んで見えて、汗か湿気が分からない水分が頬の表面に貼り付くように感じた。浦賀水道に近い金田湾の海水の色はコバルトブルーに見えてその向こうには房総半島の富津辺りが見えるのだか、ガスで見えなかったその当時の俺には目の前の海を太平洋だと思っていた。

マクドナルドの店内はガラガラで、注文する前に海側の窓に面した場所、チープなFRPの椅子に腰掛けツメ襟のポケットからAIWAのウォークマンを取り出してテーブルに置いた。学と鉢合わせてからイヤホンは外していたが、120分メタルポジションのB面は終わる寸前で、微かに聞こえるボウイのMemoryはアウトロがフェードアウトしているところだった。

「俺も辞めるか、、、」やる気がないのに一応朝は自宅を出て学校へは行かず最寄りの駅をスルーして海を見にいく。追加の電車賃は昼飯代を削り数百円の昼飯で海を見ながら想いに耽る。誰にでもある思春期、人生の意味を考えていた。当時はあらゆるものが加熱していて、俺の目にはバンドブームとレースブームが煌びやかに映り、当然の如くそれに憧れるが溢れ出るエネルギーをどこにぶつければ良いか分からずわなわなとしていた。

しかし「親に迷惑はかけたくない」それが大きかった。

将来の自分に還元しないと割り切り、全くもってやる気がないのに惰性で過ごしてその金銭的負担を親が肩代わりする。本人が無意味だと感じながら過ごしていることを親の方は気付いているのだろうが、見て見ぬふりをされているのが余計に辛い。そろそろ決心が必要だった。

学校を辞めることは働きに出ることとイコールだ。
バンドを本格的に再開することを理由にしたとしても働いて幾らかを家に入れろと言われるだろう。

浜辺へと降りる階段に座り煙草に火をつけた。この海の先にはアメリカがあるんだろうと思いながら呟くように聞いた「お前はこれからどうすんの?」
学「これからだけど、離婚して別居している親父のところで働くようにかあちゃんに言われてるよ」

学の両親は既に離婚していた。父親は左官工で酒癖が悪かったそうだ。母親はスナックなどで働きながら姉と学を女手1人で面倒を見ていた。中学の頃は学の部屋が溜まり場の1つになっていた。なぜ父親のところへ行けと言われたのかは分からないが、一種のけじめのようなものだと言っていた。

実際の俺の視線の先は房総半島だったが、大海原に広がる広大な景色は自分に対して「翔け!」と背中を押してくれているように見えた15歳の秋だった。

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