アップデート
お久しぶりです、とかげです。
前回から2ヶ月くらいが経過しました。そして、2ヶ月前の記憶があまりない。
カレンダーを遡ると予定がそれなりに入っていたのですが、やはり記憶は断片的です。歳を重ねるごとに過ぎたことを思い出せなくなっている。なぜなのでしょう。
というより、それを「いつ」行ったのかが自分の中で重要ではなくなり始めているのかも知れません。行ったという事実があれば正確な日付は覚えてなくとも良いのでしょうか、自分のことですがよくわかりません。
話は変わりますが、自粛生活になってモノが減りました。
モノとは目に見えるもの、見えないもの両方を指しています。
大分減らしたつもりなのですがもう少し減らしたい気もしています。そして、形に残らないものを大切にするようになりました。例えば思い出とか(ははは)。
義務教育を受けていたころ、卒業間近になると今までの思い出を叫けばされたのですが、自分はとてもそれが嫌いでした。別に運動会楽しくなかったし、みたいな。
(※何も思い出に全てを詰め込まなくてもいいと思うのですが、他に適当な言葉が見つからなかったので思い出とします。)
写真ってすごく便利で、その場を半永久的に切り取ることができる。それを見て、「こんなことしたね」って話に花を咲かせることもできる。お土産もそうです。あるいはもっと日常的な話まで落とし込んでもいい、あったら便利ってやつです。
全部が全部そうではないと思いますが、少なくとも今の自分にとって日々を生きている中で優先順位は低くていいなあと思うのです。だって思い出せないんだもの。
その一方で大事にしたいと思う自分もいます。本当に何を言っているのでしょうか、矛盾もいいところです。その経験をしている瞬間、その経験が「今」であるときは写真もお土産もあったら便利も全て重要であったりします。
ただ、「今」では無くなったときには自分の中できっとそんなに重要ではない。
そんな気がしています。なので最初から拘らなくてもいいんじゃないか、と思ったりもするのです。きっと正解はないのでしょうが、考えることが面白いのです。
なんだか話がどんどん逸れていっているような気がするので、軌道修正を試みます。
「思い出」で話を展開しようとするのが良くないのでしょうか、形の残らないもの(つまり目に見えないもの)を大切にしたいという話でした。
棺桶に入ったことはないのですが、棺桶の中を覗いた時に多くのモノを置けないことに気付かされました。自分がどんなに大事にしていたモノでも、この世を去る時には持って行けなかったりするみたいです。なら、自分の中で完結するものに囲まれたいと思ったのです。形の残らないものなら自分の中で留めておけます。最もこの世を去る時には全てを覚えてはいないでしょうが、留めておけるものが沢山あったという事実が存在するだけでも満足できる気がします。
我が生涯、一片の悔い無し!と。
結びの言葉にするつもりはなかったのですが、結びたくなったので終わりにします。明日には忘れているかも知れませんが、今のこの瞬間に浮かんだことをつらつらと綴ること、これがつづけ方です。
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