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流動体

バチェラー3を見ている。
ぼくがバチェラーを見始めたのは2の配信が少し進んでいたタイミングだった。テレビCMでみる広告がなんとなく気になっていたのと、世間で何となく流行っている気がするからという漠然とした理由で見始めた。

流石、流行っているコンテンツは面白い。すぐさま配信されていた分は見て、次のエピソードが配信されるまでの時間を1のエピソードを見るという毎日バチェラー生活をして、この娯楽コンテンツを十分に楽しんだ。

そして、あれから一年が経った今、待ちに待った3の配信が一週間前からスタートした。
今までと同様に意気揚々と女の黒い部分を楽しんでやろう的な野次馬目線で見始めたのだけれど、一年ぶりにこの番組を見た自分の見方がかなり変わったなぁと驚いた。

というのは、バチェラーや出演女性たちの心をトレースしてみるようになった。
「いやいや、そもそもそういう見方をするものでしょ」という意見はもちろんあると思うのだけれど、かなりその機微を自分が捉えて言葉にできるようになったなと感じた。

今までなら、「あーそうなるよね。」くらいの解像度だったものが、「あのときのあの発言や振る舞いからして、心は○○のような動きをしていて、それがバチェラーには○○と捉えられていると予想ができ、こういう風に動くことは納得がいく」くらいまで鮮明になった。

例えば、
バチェラーという番組の特性上、女性側は必然的にその一人の男性を好きになる。しかし、その好きの深さは極めて浅いことが多い。いわゆるお金持ちのイケメンという理想像を前にして、ハンドバッグの新作がかわいいから欲しいと思うがごとく、所有欲を先行させてしまっている参加者は散見される。

そうすると女性たちが使うワザは誘惑が多くなる。「男性ってこういうことが好きなんでしょ?」的なふるまいである。確かに好きなのだけれど、それは飽くまでも“遊び”であって、“本気”出ないことは多い。一時的な楽しさを得ることと、永続的な幸せを得ることの差はあまりにも大きい。

また、女性が一方的に好きになりすぎて、勝手に女性の中でバチェラー像をどんどん美化してしまう例もある。

自分が美化されているなと感じたとき、その美化されている自分を壊すことは難しくなるため、今後はそのかりそめの「相手が求めている自分」を演じ続けなくてはいけなくなる。その落差を生きることの難しさは多くの芸能人がよく雑誌のインタビューとかで話しているのをよく耳にする。


自分の思っている自分と他者の中に生きる自分の乖離が大きすぎると、人は苦しくなるのかもしれない。

つくづく恋愛はむずかしいなと感じる。

二人の人間がお互いを好きになることには幾多の障害がそこにはある。「障害」という言葉を使ったので、それは固く、質の伴った何か壁のようなものであるように思うのだけれど、それは「固体」ではなく、「気体」や「液体」の水や空気のそれに近い。

目には見えず、流れのあるもので、捉えようと試みるも、するすると指の間をすりぬけていく川を流れる水のようなものというのが近い表現になるのだろうか。

お互いの心を知ることは、その川の流れに手を入れて温度感をやっとわかるくらい、それくらいのあいまいで感覚的なものなのかもしれない。

ただ、この「温度感」は自分のそれと違ったときにはひどく違和感を覚える。その水により深く長く浸かることでその温度になろうとするも、自分の温度を失うこととそれは同義であるため、自分を消費するような疲労感を覚えることが多い。

また、心が川の流れであるのなら、

行く川の流れは絶えずして、しかももとの水にあらず。

と方丈記にあるように、
移り変わり続けるものなのである。そこにつかんだという感触をやっとの思いで得たところで、その実感は泡沫(うたかた)に過ぎないので、時間とともに消えゆくさだめにある。

であるならば、その流れの速さも温度感の違いも許しあえる仲になるか、同じ温度と流れをシンクロさせられる相手としか恋愛はできないということなのだろう。

ただ、シンクロというものは、膨大な時間をかけてそのずれを消していく作業になるので、互いの違いを認め合っている状態の心にはきっとかなわないだろう。

はてさて、今回のバチェラーは最後にどういう文脈からどういう気持ちで最後の選択をするのだろうか。

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