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Ⅳ―2.弟は詐欺を防げるのか

弟がひっそりと人目を避けて陰鬱な表情で日々を過ごす大人になったことは、「Ⅱ-2.成長した弟」で少し触れた。陰気なだけならどうぞお好きに…というところだが、問題は陰気さでなく、通常の会話が成立しない点だった。しかし母が認知症だと診断され、同時期、弟が透析を受ける準備の手術入院をしていた際中に、詐欺未遂が発覚した。母が家の補修工事と称する詐欺被害にあいそうになったのだ。それに、調べてみるとすでにとんでもない金額の詐欺にあっていたことが発覚した。家の補修工事の詐欺相手は電話で、「(弟が)同席して、契約書に署名した」とまで言った。

今後もし母と弟が二人で生活するなら、詐欺に気づいて、追い払うか私に連絡できるのは弟しかいない。しかし社会性や社会体験のない弟が詐欺を撃退できるとも思えない。何しろ生まれてこのかた、周囲の大人の言いつけをすべて「はい」と受け入れることでのみ、生きてこられたのだ。誰かに反論するところなど聞いたこともなかったし、人を疑うことすら、したことがなかったかもしれない。

ではどうするか?二人まとめて、または別々の施設に入れるのか?ずっと母に守られて生活してきた弟は日ごろから見慣れぬ人の存在を毛嫌いしていたから、施設に入ろうと言っても受け入れるわけがない。それに傍目から見ても母と弟は二人でいるのが一番幸せそうで、可能な限りその生活を続けるのが良いと思えた。ケアマネさんや親族も同じ考えだった。

だとすれば弟には今後、詐欺の見張り役を担ってもらう必要がある。離れて東京にいる私や、時々家に立ち寄るヘルパーさんとケアマネさんだけでは、詐欺がどこから母に近づいてくるかわからない。

かくして私は弟の入院中、昼間は弟がいないことが理解できずに不安定になっている母を弟の面会に連れて行き、夕方、母を家に連れ帰って夕食を済ませたら、もう一度病院に行って弟にこんこんと詐欺事件のことを説明し続けた。母を標的にした詐欺犯罪者たちは、社会的弱者とその母の不安心理に巧みにつけこんで仕掛けてきていた。「お母さん、息子さんがこのあと一人で生活していくことを考えるととてもご心配でしょう?屋根が傷んでいますから、この際、補修してあげましょうか?」…といった具合だ。実に卑劣だ。おまけに何十年も詐欺のスキルを磨きぬいているから、多くはとても好人物に見えるらしい。

実家に滞在中、私は毎日、夜ごと入院中の弟と話し込み、いくつかのことを理解させようとした。
1.お母さんは、これまでの頼りになるお母さんではない。(認知症の母の言うことをうのみにしてはいけない。)
2.母に自分が守ってもらおうとしてはいけない。これからは、弟が母を守らないといけない。
3.病気の母に、頼ってはいけない。必要なものは私(姉)に言うように。(夜、病院から母に電話して、何かが欲しいから持ってきて、などと言ってはいけない。お母さんが家と病院の間で迷子になるかもしれない。)
4.外部の人を無条件に信用してはいけない。

弟の反応はまったく芳しくなかった。わかる?と聞いても石像のように無表情で、私を見ようともしない。遠くの方をぼんやりと見つめるばかりで、ウンともスンとも言わなかった。ゆっくり話してもダメ。繰り返してもダメ。今の話、どう聞こえたか言ってみて、と聞いてもダメ。弟が言ったことといえば、知らない人をすぐに信用してはいけないと言われて、「でもいい人のようだったよ」と低い声でボソっと反論したことぐらいだった。その反論すら、長くじとーっとした果てしなく長い沈黙の後で、ようやく出てきたセリフだった。

弟と会話をするといつもこんな調子だった。会話にすらならない。この先詐欺防止に弟が役立つかどうかは、まったくわからなかった。とにかくケアマネさんやヘルパーさん、地域の交番と連携してできるだけの対策をとって、いったん東京に戻った。しかし戻った直後に弟がまたしても病院から母に電話して、「〇〇が欲しいから持ってきて」と頼んだことを知って、がっくりと力が抜けてしまった。

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