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長門本山駅は昔どんな姿だったのか~小野田線は謎が多い

はじめに



長門本山駅。山口県に存在するこの小駅は、鉄道ファンには大変有名な駅である。かつて旧型電車最末期の活躍の地となり、今も1日3往復しか列車が来ないなど、癖の強い駅である。

JR西日本小野田線(本山支線)長門本山駅(2022年11月 筆者撮影)
1日3本しか列車は来ない(同筆者撮影)

この長門本山駅を含むJR小野田線は「ご利用の少ない路線」としてJRから名指しされ、存廃議論に上がっている。
実際に乗ってみると、小野田線は朝ラッシュでも1~2両の電車で運びきれる状態。本山支線に至っては1列車あたり両手で数えられそうな通学客(と僅かな通勤客)しか居ない有様で、既に鉄道として存在意義を疑われても仕方ない状況であった。

ここまで利用が少ないと「なぜ利用が少ないのか」路線の出自や歴史について興味が向くのは自然な流れである。ところが小野田線の過去について言及された資料はあまり多くない。鉄道趣味的な側面からは「旧型電車の数が減少してきた1970年代中盤」以降は写真や訪問記録が残されてるものの、それ以前を記した資料は極めて少ない。

当然、ネット上で閲覧できる1970年代中盤以前の小野田線の情報も極めて少なかった。そこで個人的に調査した内容を、ここに備忘録として残しておく。

長門本山駅は昔どんな姿だったのか

前述の通り、今も残る長門本山駅を映した写真は多くは、1970年代中盤以降に映されたもので。既に線路が1本しかない現在の姿である(駅舎は辛うじて残っていた時代)。昔はどんな姿だったのだろうか?

写真から起こした配線図

撮影日不明であるが、側線などが残っていた時代の写真を見つけたので、そこに映されていた駅の様子を上記に図示した。(「 宇部・山陽小野田の昭和」(2018)に掲載)

少なくとも現在残るホームと着発線以外に2線、合計3線の規模であった事がわかった。貨車の止まっている線は海側へ引込線として伸びていたと推測される。長門本山にはかつて、小野田市(現・山陽小野田市)最大規模の炭鉱があり、坑道が沖合に向かって海底へ伸びていた。この引込線は石炭積み出し施設などへ繋がっていたものだろうか。

長門本山駅の現在の終端部。道の向こうには旧型電車を描いた絵がある(同筆者撮影)

駅舎が残っていた頃の写真(Twitterより引用)


昔の長門本山駅の時刻表


1967年10月改正

今や非常に本数が少ない小野田線であるが、むかしは早朝から夜間までびっしりと運転されていた。ただし当時から既に並行する路線バスの攻勢が目立っていたと推測され、長門本山駅前などは現在でも1時間1本ペースでバスが着発する。

昔の広報誌から

自治体の発行する広報誌であれば何らかの情報が載っているかと思い「広報おのだ(縮刷版が国会図書館に収蔵あり)」を参照し、調べた。結論からいうとあまり成果は得られなかった。この時期の広報誌に共通することであるが、全く整備の遅れていた道路整備の話題が多数を占めがちである。


市内で始めての跨線歩道橋がお目見え(山陽本線小野田駅西踏切跡)

(昭和45年9月1日号)出典はすべて「広報おのだ縮刷版」

(山陽本線)小野田駅西踏切立体交差完成 工費総額1億4000万円

(昭和45年8月1日号)

小野田駅東踏切立体交差完成 工費総額1億9000万円

(昭和40年5月1日号)

小野田駅前広場拡張工事 S35年から4ヶ年 国体までには整備

(昭和38年9月1日号)


当時の小野田市では1963(昭和38)年に国体が開かれているのだが、その時で既に「山陽本線小野田駅」の駅前を玄関口として整備しているようである。街の玄関口としてはあくまで山陽本線の駅がメインなのだろうか。

3月15日から営業開始 南小野田駅
早くからその新設が望まれていた(略)駅の施設は延長90mのホームと24㎡の駅舎ですが、工事費270万円をかけたとあって中々モダンなものです。ここには駅員一人が常駐し旅客電車は全部停車することになっています。ただ、旅客専用駅として設けられた駅ですから、荷物の取り扱いはいたしません。【完成日には餅まきも】歓迎する地元では(略)いろいろな催し物も計画しております。

(昭和37年3月1日号)

地元の要望によりかねてから広鉄管理局に設置方を陳情中だった小野田線浜河内駅はこのほど完成、6月1日に開業式を挙行。毎日28本の列車が停車することになりました。

(昭和32年6月15日号)

本山支線唯一の中間駅である「浜河内駅」。開業まもない時期に撮られた写真として現在の姿とほぼ同じ様子が捉えられている。スカ色のクモハ42と思しき姿も確認できる(この写真は前述の「宇部・山陽小野田の昭和」にも掲載あり)

小野田線南中川駅南方の「中川第二架道橋」は市内を縦走する県道に3本の鉄脚をおろし交通の難所と言われていた。国鉄では鉄脚撤去の陳情を容れ、日産建設の手で架替工事中だったがこのほど工事完了、幅員9mを保有する道路となった

(昭和30年7月15日号)

完成近い中川第二架道橋、魔の鉄橋と呼ばれた

(昭和30年3月15日号)

大型バスによる接触事故多数

(昭和29年3月15日号)

小野田線関係でも目立ったのがこの「架道橋架替」である。県道に3本の鉄橋の脚があり、大型化する路線バス等の接触事故が多発、架替える事となったようだ。現在の南中川駅西側に交差する部分であるが、この広さに3本も鉄橋の脚があったら、相当交通に難儀したものだろう。南中川駅は道路を乗り越すために築堤上にあるが、使われていない階段もあるようで、架替前の旧線時代の名残なのだろうか。

おわりに

小野田線は性格的に「北九州に多数存在し、姿を消した炭鉱路線(支線)」が近しいのではないだろうか。電化しているため、そのあたりの印象にだいぶ齟齬(上振れ)が起きているような印象を受ける。

小野田線や近傍を走る美祢線などは、かつて貨物列車が走っていたため、国鉄末期に多くのローカル線が存続問題の対象となった時も、これら対象から除外されていた。そのため当時の利用状況等は鉄道雑誌の特集記事としても残されていないようだ。「廃線危機のジレンマ」とでも言えばいいのだろうか・・・路線の過去を知る上で障壁となっている。

写真について、小野田線の貨物は蒸気機関車牽引であったため、当時撮られた写真も多そう、だが掲載雑誌などを掘るのは難儀しそうな感もある。機会を見つけて探していきたい。


沿線の樹木も伸び放題の本山支線。電車は通る度に車体が傷だらけになっていく(同筆者撮影)

以上


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