長門本山駅は昔どんな姿だったのか~小野田線は謎が多い
はじめに
長門本山駅。山口県に存在するこの小駅は、鉄道ファンには大変有名な駅である。かつて旧型電車最末期の活躍の地となり、今も1日3往復しか列車が来ないなど、癖の強い駅である。
この長門本山駅を含むJR小野田線は「ご利用の少ない路線」としてJRから名指しされ、存廃議論に上がっている。
実際に乗ってみると、小野田線は朝ラッシュでも1~2両の電車で運びきれる状態。本山支線に至っては1列車あたり両手で数えられそうな通学客(と僅かな通勤客)しか居ない有様で、既に鉄道として存在意義を疑われても仕方ない状況であった。
ここまで利用が少ないと「なぜ利用が少ないのか」路線の出自や歴史について興味が向くのは自然な流れである。ところが小野田線の過去について言及された資料はあまり多くない。鉄道趣味的な側面からは「旧型電車の数が減少してきた1970年代中盤」以降は写真や訪問記録が残されてるものの、それ以前を記した資料は極めて少ない。
当然、ネット上で閲覧できる1970年代中盤以前の小野田線の情報も極めて少なかった。そこで個人的に調査した内容を、ここに備忘録として残しておく。
長門本山駅は昔どんな姿だったのか
前述の通り、今も残る長門本山駅を映した写真は多くは、1970年代中盤以降に映されたもので。既に線路が1本しかない現在の姿である(駅舎は辛うじて残っていた時代)。昔はどんな姿だったのだろうか?
撮影日不明であるが、側線などが残っていた時代の写真を見つけたので、そこに映されていた駅の様子を上記に図示した。(「 宇部・山陽小野田の昭和」(2018)に掲載)
少なくとも現在残るホームと着発線以外に2線、合計3線の規模であった事がわかった。貨車の止まっている線は海側へ引込線として伸びていたと推測される。長門本山にはかつて、小野田市(現・山陽小野田市)最大規模の炭鉱があり、坑道が沖合に向かって海底へ伸びていた。この引込線は石炭積み出し施設などへ繋がっていたものだろうか。
駅舎が残っていた頃の写真(Twitterより引用)
昔の長門本山駅の時刻表
今や非常に本数が少ない小野田線であるが、むかしは早朝から夜間までびっしりと運転されていた。ただし当時から既に並行する路線バスの攻勢が目立っていたと推測され、長門本山駅前などは現在でも1時間1本ペースでバスが着発する。
昔の広報誌から
自治体の発行する広報誌であれば何らかの情報が載っているかと思い「広報おのだ(縮刷版が国会図書館に収蔵あり)」を参照し、調べた。結論からいうとあまり成果は得られなかった。この時期の広報誌に共通することであるが、全く整備の遅れていた道路整備の話題が多数を占めがちである。
当時の小野田市では1963(昭和38)年に国体が開かれているのだが、その時で既に「山陽本線小野田駅」の駅前を玄関口として整備しているようである。街の玄関口としてはあくまで山陽本線の駅がメインなのだろうか。
本山支線唯一の中間駅である「浜河内駅」。開業まもない時期に撮られた写真として現在の姿とほぼ同じ様子が捉えられている。スカ色のクモハ42と思しき姿も確認できる(この写真は前述の「宇部・山陽小野田の昭和」にも掲載あり)
小野田線関係でも目立ったのがこの「架道橋架替」である。県道に3本の鉄橋の脚があり、大型化する路線バス等の接触事故が多発、架替える事となったようだ。現在の南中川駅西側に交差する部分であるが、この広さに3本も鉄橋の脚があったら、相当交通に難儀したものだろう。南中川駅は道路を乗り越すために築堤上にあるが、使われていない階段もあるようで、架替前の旧線時代の名残なのだろうか。
おわりに
小野田線は性格的に「北九州に多数存在し、姿を消した炭鉱路線(支線)」が近しいのではないだろうか。電化しているため、そのあたりの印象にだいぶ齟齬(上振れ)が起きているような印象を受ける。
小野田線や近傍を走る美祢線などは、かつて貨物列車が走っていたため、国鉄末期に多くのローカル線が存続問題の対象となった時も、これら対象から除外されていた。そのため当時の利用状況等は鉄道雑誌の特集記事としても残されていないようだ。「廃線危機のジレンマ」とでも言えばいいのだろうか・・・路線の過去を知る上で障壁となっている。
写真について、小野田線の貨物は蒸気機関車牽引であったため、当時撮られた写真も多そう、だが掲載雑誌などを掘るのは難儀しそうな感もある。機会を見つけて探していきたい。
以上
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