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18本のボルトと共に生きる〜側湾症闘病記〜

この病気によって私が諦めなければならなかったことはたくさんあった。でも反対に、得たものはそれ以上だった。私は自分の傷を誇りに思う。病気に感謝している。

昨日は私の「無能22卒が3社内定→2月で終活できたワケ」にスキ いただき、ありがとうございました。正直こんなに反応いただけると思っていなかったのでもうちょっとちゃんと書こうと思いました。笑 そして私も積極的に スキ していきたいと思います。

はい、本題です。何から書こうか迷っていたのですが、「誰かのプラスになるかもしれない」順で書いていこうと決めました。なので、今回は私の病気と手術の経験についてにしようと思います。

1.側湾症とは?

まず、「側湾症」ご存知でしょうか。簡単に言うと背骨が変形してしまう病気で、年頃の女の子に多いと言われているのが、特発性側湾症あるいは思春期側湾症です。私はこの、特発性側湾症でした。ですが、側湾症はそんなに珍しい病気ではありません。思春期の2~3%。100人いれば2~3人は10度以上の側弯症といわれています。

2.診断〜手術まで

私が背骨の変形があると診断を受けたのは5年生か6年生(はっきりしてください)の時の学校の健康診断でした。大きい病院に行ってくださいと言われ、その大きい病院ではもっと大きい病院に行ってくださいと言われました。大きい、大きい病院でコルセット治療をスタートしました。プラスチックと合皮と金具でできたかったいやつでした。寝ている間はそれをつけます。歯科矯正の、リテーナーみたいな感じです。

しかし、それでも側湾はどんどん進行していきました。中学二年に上がったころには湾曲がボーダーだった60度を超え、手術する選択をしました。

でも私はポジティブ体質(バカ)。特に不安になったり、泣いたり、怒ったり、そう言うことはまっっったくありませんでした。「背中真っ直ぐになる〜!」とどちらかと言えばワクワクしていました。病院にスタバが併設していたので、手術前日も「フラペチーノ飲んでいいですか?」と看護師さんに聞いてドン引かれたのを思い出します。バニラならいいじゃんね!(よくない)

3.手術直後〜1週間

ここはしっかり書かなくてはなりません。閲覧注意です。

はっきり言って地獄でした。

側湾症の手術は背中を40cmほど切って、鉄板とボルトで背骨をよいしょと真っ直ぐにするような感じです。いや痛いですよね。痛い、痛い。

しかも痛いだけじゃないんですよ。体の中では緊急事態が起こってるので高熱・嘔吐・頭痛・倦怠感の全部が押し寄せてきます。あとシンプルに背中めっちゃ痛い。

私は1週間くらいはそんな感じで、毎日ティッシュを噛みながら泣いて過ごしてました。

痛みで寝れず、夜が長かった。生まれて初めて、死んだ方がマシと思いました。

4.1週間後〜

術後1週間を過ぎてからはだいぶ回復しました。まだまだ痛いし、体はしんどかったですが、「痛過ぎて泣くことしかできない」段階からは抜けることができたのです。この時私は二つのことを考えていました。

①私でこんなにしんどかったら、治らない病気の人どんだけしんどいの?

②この経験を無駄にしてはいけないな

ということでした。

ちょうど同部屋に末期ガンの女性が入院していたこと、その女性にすごく良くしてもらったことで「健康な自分にはもっとできることがあるはずだ」と考えるようになったのです。そこで私は日記を書き始めました。いつかこの経験をどこかでスピーチしてたくさんの人に伝えたい、と。

3ヶ月後、私は自分の病気について校内スピーチコンテストで話しました。そして二年生ながら校内3位を取ることができました。そこから私が生徒会長、クラウドファンディングと挑戦し続ける人生を歩むようになったのはまた別の機会に。

5.側湾症の方へ

手術、怖いですよね。それにリラックマの背中みたいに一本線が一生消えないのも嫌ですよね。何より、そんなに前例があるワケじゃないから今後自分が歳をとった時ボルトがどんな影響を及ぼすのかも。

めっちゃアンケート書いてるのに、何も研究進んでないし。笑

私はクラシックバレエをずっと習っていたのですが、それも現在は辞めざるを得なくなりました。失ったものも確かにあります。

でも、私は側湾症に感謝さえしています。側湾症を通していろんな出会いがありました。性格もすごく前向きでアグレッシブになりました。病気を乗り越えて、自分が今の自分にたどり着いたことを嬉しく思います。

生きるということについて深く考えるきっかけを持ったみなさんはとっても強いです。大丈夫です。今日はこの辺で。



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