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Now or never. 救いの時は今

神様に立ち返らずに死んでしまったら、その命はもうずっと失われたままなのだろうか。その魂が救われるのはもう無理なのだろうか。

今年に入ってから何度も考えさせられたこと。昨日、芸能人の悲しいニュースを聞いてから、またずっと考えています。

イエス・キリストこそが救い主であり、私たちを罪を清めてくださる方であると受け入れて、悔い改めるなら救われる。じゃあ、生きている間にイエス様に出会わなかった人は、もうそこでゲームオーバーなのか。

まだ寒くてコロナウイルスなんて全く心配していなかった頃、会社の先輩のご家族が癌で亡くなられました。自分と直接な繋がりはない人のお葬式に行くのはそれが初めてだった。

私はクリスチャンになってからも、実家の法事や仏教スタイルのお葬式に出ていますが、自分が信じる神様に祈るようにしています。

でも、そのお葬式は私にとっては少し遠い存在のもので。もちろんその場にいるから無関係ではないのだけど。私は亡くなった方と直接なつながりはなく、会社に入ってまだ間もない頃だったから、葬儀中は気持ちにまだ余裕がある方だった。(この言い方が正しいかわからないけれど)

その分一生懸命に祈ろうと思い、私が信じる神様に「この魂が救われますように」と祈った。

だけど聖書は言う。イエスによってのみ、私たちは救われると。

【ローマ人への手紙10章9節】なぜなら、もしあなたの口でイエスを主と告白し、あなたの心で神はイエスを死者の中からよみがえらせたと信じるなら、あなたは救われるからです。


「じゃあこの人の魂はどうなるのですか、主よ。もう手遅れなのでしょうか。そんなの、、、悲しすぎる。どうか私の祈りを聞き入れてください。この祈りのゆえにこの人と出会ってください。どうか癒してください。この魂が救われますように。」

この祈りが聞かれて神様が死後の世界で故人の魂と出会い救ってくれるのか、本当にそこでお終いなのかは、わからない。神のみぞ知ること。

私の家族友達が、神様の愛を知らずに最期の時を迎えるとしたら、私はそこに立って歯ぎしりするしかないのだろうかと思うと、すごく焦った。

私たちには、主の正体を証し、福音を宣べ伝える責任がある。

その命が救われるかどうかは、神様が決めることで神様の責任。だけど、伝えることは私たち、しもべの責任だと知った。

【ローマ人への手紙10章14節15節】しかし、信じたことのない方を、どうして呼び求めることができるでしょう。聞いたことのない方を、どうして信じることができるでしょう。宣べ伝える人がなくて、どうして聞くことができるでしょう。
遣わされなくては、どうして宣べ伝えることができるでしょう。次のように書かれているとおりです。「良いことの知らせを伝える人々の足は、なんとりっぱでしょう。」

Now or Never. 救いの時は今しかないのかもしれない。


世界が呻めき、泣き叫んでいる声がする。最近は本当にいいニュースを聞かない。

終わりの時は近づいている。

「悔い改めなさい、神の国が近づいた」

そう言われてから2000年。本当に神の国が目前と迫っているのかもしれない。

今すべきことはなんだろう。優先順位はどうだろう。

他に比べるものがないほどの最高のニュースを知っている私たちはどれだけ幸せだろう。今、その救いの知らせを人々にも伝える使命がある。


主よ、用いてください。全世界に福音を伝えるために。

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