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亀裂の走る大地と静かな大地。僕の逃避と帰郷。それからカズオ・イシグロの提示する手段

昨年の秋に唐突に僕は、ある巨大SNSをやめた。日に日にどこか穏やかならぬクレヴァスが増長し、そこの空気が澱んできていたのだ。このままでは、いずれ大きなカオスが生じる。僕はあたかも、禍々しい天変地異を直観で察知して逃げたあの青い鳥みたいに、あの場から飛び去った。

その後、僕は自己表現のメイン・フィールドをnoteに移し、さまざまな記事を書いた。ここは安住の地。かつて跳梁跋扈していた威圧的な魑魅魍魎も、少なくともこんな記事を書いている限りにおいては、誰一人として現れない。そう思っていたし、実際にそうだった。居心地は良かった。

そうこうする間に、BlueskyというSNSを見つけた。ちょうど亀裂が走る前の静かだったあの場のようだ。気がつくと、noteからそこにさらに移行しつつある自分がいた。溢れる穏やかな安心感。短文のやりとりが僕の性に合っていたのかもしれない。

だけど自己表現の観点からすると、長文に優るものもない。目も眩む太陽の下、頭上にゆらめく陽炎を立ち上らせながら、僕は帰ってみようと思った。
不器用な僕が昔から苦手とする並行作業。だけど居心地の良い場所が複数ある以上は、そしてそこで待つ人たちを喜ばせたいと思う限りにおいては、それを試行してみるのも悪くないだろう。

『浮世の画家』 (カズオ・イシグロ) を読んで考えたこと

カズオ・イシグロにはいつも瑞々しい衝撃を受ける。極めて素敵で幸せな、居心地のよい読書体験。

その作品群の舞台は常にある種の不穏な二面性を内包しており、その中でもがく人たちは必ずしも心穏やかではなさそうだ。ちょうど僕の逃げたあのSNSの空気のように。それなのになぜ僕は、イシグロに限ってそれを居心地良しとするのだろうか。

登場人物たちが時に挫け、最終的に鮮やかに敗北したりしながらも、その難解な環境下に順応し、そこで慎ましやかに、したたかに生きようと必死に足掻く様子。そこに僕は共感を持つのではないかと思う。

そういう環境下にあって、しばしば『逃げる』ことを選択する僕。イシグロはそんな僕に代替手段を豊富にかつ優しく提供してくれるのだ。
その中には結果的に上手くいくものもあれば、そうでないものもある。だからと言って、前者を良い適応法、後者を悪い適応法とみなすのも早計だろう。

ともあれその意味において、そしてまた文字通りの意味において、カズオ・イシグロの作品は僕にとって教養小説なのである。

ただいま。

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