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自分の自己肯定感(らしきもの)を自己紹介

初めまして

ラッコ太郎と申します。
皆さまどうぞお見知りおきを。
客観視してみて、僕は自分を取り立てて特徴のあるわけでもない平凡、あるいはそれ未満の冴えない人間と認識しています。唯一の特長を挙げるとしたら、向上意欲がかなりすごそうなことなんじゃないかと思います。

僕の過去については取り立てて述べるようなことはありません。もしかしたらこのnoteを書いていくにつれて色々カミングアウトする時がやってくるかもしれませんが、あまり期待しないでください。

自己肯定感についての私見

最近、自己肯定感という言葉をやたらと聞くようになりました。正直この言葉には食傷気味の人も多いと思います。
実際に僕も時折
「めんどくさい流行語だな」
と思うこともあります。良くも悪くも様々な話題を提供してくれる言葉ですね。

僕を含めた多くの人が、そんなふうにこの言葉に違和感や嫌悪感を時として抱いてしまうのはなぜでしょうか。

今の世の中を振り返ってみると、意味が深く考察されることなく、この『自己肯定感』という言葉だけが独り歩きしているように見えます。
あたかもそれは絶対的な善で、しかも高ければ高いほど素晴らしく、低い人間は救いようがない、そんなふうに見做されている傾向がありはしないでしょうか。

その結果、多くの人がこの自己肯定感を高めることに躍起になっているように思えます。そんな風潮に疲れてしまった人も少なくないでしょう。僕もそうです。

ですがよく考えてみてください。自分って無理やり肯定しようとして肯定できるものなんでしょうか。もちろんできる方もいるかもしれません。でも少なくとも僕はそうでは無さそうです。

理屈っぽい話になりますが、
自己肯定感を無理に高めたいと思ってしまうことは、少なくともそれが低いと自分で認識していることであり、さらにそんな自己否定的な自分をさらに否定的に見ていることに他ならない気がしています。

数学ではマイナスにマイナスを掛けるとプラスになりますが、どうやらそれはここでは当てはまりそうにないことに、僕は気付いたんです。

だから、僕はもう自己肯定感を高めようと頑張るのをやめました。

そうすると不思議なことに、かつて自己肯定感と呼んでいたものらしきものが自分の中で少しずつ膨らみはじめてきたことに気づいたんです。

今では周りの方から、『ポジティブに物事を考えられる人』という評価を受け始めてきました。もともとが多くのことを否定的にしか捉えられないスーパーネガティブな僕であったために、これは大きな変化でした。

自己肯定感は確かに存在しない架空の概念ではないようですが、どうやらそれは高めるとか高めないとかいう概念ではなく、全ての人の中にあらかじめインストールされているものではないか。そしてそれを自分の中で認識できるかどうかに掛かっているのだ…そういうものなんだろうなと、最近の僕は考えています。

このnoteの中に僕自身の日記を書くにあたって、今後どのように書き綴っていけるかは分かりませんが、読んでくださる方に、ほんの僅かでも考えられるようなものを提供できるような場にしていきたい、そうおぼろげに考えています。

よろしくお願いします。

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