ダメおじさんのささやかな夢
人生詰んでいると思う。大学は出たけれど、氷河期に見舞われ職を転々とした。今は貯金を切り崩して生きている。いや、氷河期とか関係ないかもしれない。
中学のころに不良生徒に胸ぐらを掴まれ恫喝され、高校時代は同級生の大半から相手にされず、大学では名前入りでネットに誹謗中傷を受けてきた。学校という社会の縮図で、そんな目に遭ってきた僕が、その後の社会にも適応できなくなったのは必然だろう。多様性が謳われながら、中年の男には厳しい世相だ。路肩で誰にも知られずに、虫にさえ無視されて、ただひっそりと枯れる雑草、たぶん僕もそうなる。
だけどそれならそれでいい。今はもはや、社会にも自分にも運にも、責任をなすり付ける気なんてない。死ぬ気もなくなった。この世にしがみついてでも生き抜いてやる。この歳になって開き直ったのだ。
現在は精神科に通いながら小説を読んで、その世界の中に人生の活路を見出そうと足掻いている。たぶん僕は、こういう時に人はどう生きればいいのか、それを無意識に知りたがっている。
『日の名残り』、『クララとお日さま』を読んで、その人間愛溢れる描写に一気にファンになったカズオ・イシグロ。ドストエフスキーやトルストイを読んでいた時から、不思議とヒューマニズムに興味を持っていた僕だ。イシグロの優しさに惹かれない訳はなかった。詳しく調べてみると、彼は福祉活動に長らく従事していたらしい。大勢の人の感謝の顔を見たからこそ、あの心温まる作品たちが生まれたに違いない。
ふと思い出した。病院でビルメンテナンスの仕事をしていた頃に、汗をかいて蛍光灯の交換を行ったことを。不器用ながらなんとか交換を済ませた僕に、現地のおばちゃん先生が、感謝の表情を満面に浮かべて喜んでくれた。もしかしたら僕なりに必死に頑張った姿勢が、先生の胸を打ったのかもしれない。仕事にやりがいなんてとうに捨てていた僕だったが、その時は心の中の空っぽの容器が、輝く優しいものでみるみる満たされ、溢れ出すような、素晴らしい達成感を味わったものだ。
社会にはぞんざいに扱われるだけだと思っていた。でもそんな僕でも社会に対して僕なりに頑張って、それが実を結ぶと、幸せを味わえるみたいだ。日曜日に地元でゴミ拾いのボランティア活動がある。参加してみようかな。
誰かの喜ぶ顔を、もう一度見てみたい。
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