イラスト3

内定と死

おれはまだ死んだことがない。だから死ぬのがこわい。けどひとにはいずれ死が訪れるということは知っている。

頭ではわかっていながら実感がないのだ。人間にはひとしく死が訪れるが、もしかしたらおれにだけは訪れないかもしれない。そんなことはあり得ないのだが、あまりにも想像がつかないのでそんな感じがしてしまう。

おれは眠るのがすごく下手で、授業中と電車に坐っているあいだはぐっすり眠れるのだが、ベッドに入ると途端に目が冴える。寝なければいけない、と考えて緊張してしまうのだ。

そんなときにふわっと眠気がやってくると、おお来た来た! もうすこしで眠れるかもしれない! という期待が湧いてくる。死ぬときも、そんな感じなんだろうか。病院のベッドに横たわって、おお来た来た! もうすこしで死ぬかもしれない! と。

いま、病院のベッドに横たわって、と書いたけれども、もちろんすべての死が歳をとってなんらかの病にかかって家族に見守られながら成し遂げられるわけではない。事故で死ぬかもしれないし、だれかの恨みを買って刺し殺されることだってあるかもしれない。

そういうパターンでの死なら、そういえば生々しく感じたことがあったなと思い出す。高校のグラウンドでは、サッカー部と野球部が隣り合って練習をしていた。彼らがバッティング練習で飛ばしてくる硬球は、おれらにとっては脅威だった。

あるときシュート練習に取り組んでいると、あぶない! という野蛮な声が聞こえてきて、振りかえると鼻の数十センチ先に白い球が迫っていた。あ、死んだ、とつぶやいたのと覚えている。その直後に茶色のグローブが目の前をさっとよぎって無事に球をキャッチしていったわけだが、ひとはああいうとき案外冷静になれるのだなとしみじみとした。

あれはまさにミサイルだった、などと半分は面白がっていたが、まさかその数年後にホンモノのミサイルに怯えることになるとは思ってもいなかった。当時はあわててヤフーの防災速報に登録をしたものだが、あれも死を身近に感じる体験ではあった。

それでも、結局は死ななかった。外野はしっかりキャッチをしてくれたし、北の国の偉いひともとりあえずは落ち着いてくれた。そういうわけで、死というのはやっぱり実感されないものだった。

ところで、来年の四月から就職することになった。地元の進学校とも呼べぬ進学校に通って、名の通った大学を卒業して、一般企業に勤めるという最も平凡な選択だ。

二年生のときは、おれは就職活動はしないだろうと思っていた。就職のほかになにか考えがあったわけではない。ただなんとなくそんな感じがしていたのだ。

三年生になると周囲の熱量に脅かされてインターンシップなどにせっせと顔を出しはじめたが、それでも自分が再来年からサラリーマンになるという気はしなかった。まわりはみんな働きはじめるかもしれない。けどおれだけはどうにか働かないで済むのではないか、と。

ところが最近、内定式も済んでちょこちょこと研修がはじまり、同期らとの飲み会なんかをしていると、来年からおれはここで働くのだなという実感がじわじわと侵食してきた。いままでは信じられなかった自分が社会人になるという事実を、いよいよ認めざるを得なくなった。

そのとき、ああ、おれはいつか死ぬのだなとはじめて実感した。

一銭でも泣いて喜びます。