「特性」という見方で閉じ込められた子どもの「可能性」


令和3年12月に内閣府が『子供の生活状況調査の分析 報告書』

が出されました。主に子どもの貧困状況の実態調査です。

ここで興味深かった2つのデータがありました。

一つは

「夕ごはんを無料か安く食べることができる場所」

「勉強を無料でみれくれる場所」というもの。

データは

「世帯収入の中央値以上」

「中央値の2分の1以上中央値未満」

「中央値の2分の1未満」

の3つに分類されており、その中の項目の結果が私には

興味深いものでした。

「利用したことはない、今後も利用したいかどうか分からない」

という回答が、

「夕ごはんを無料か安く食べることができる場所」では、

「世帯収入の中央値以上」

「中央値の2分の1以上中央値未満」

「中央値の2分の1未満」

の順に増えている一方で、

「勉強を無料でみれくれる場所」では、

「世帯収入の中央値以上」

「中央値の2分の1以上中央値未満」

「中央値の2分の1未満」

の順に減っていました。

勉強に関しては、他の項目はほとんど差がないか

「中央値の2分の1未満」の層のほうが

「利用したい」という割合が高いものでした。

子どもは勉強が嫌いというのが私の中の先入観でしたが、

厳しい生活環境に合っても、食事よりも学びを優先したい

と子どもたち自身が願っているという結果でした。

私は、こういった貧困家庭に関わる支援は現在していませんが、

発達障害、軽度知的障害、不登校などの通常のクラスではうまく適応できない

子どもたち向けの学習支援をしています。

これは有料での支援ですので、学習塾と同じです。

こういった子どもたちは、意欲がないと見られがちです。

しかし、学習が進むにつれてだんだんときちんと学習に

向き合うようになっていきます。

きちんと学習に向き合っていくのは、分かるようになったから

あるいは、分かるように教えてあげたからだと私は思い込んで

いました。

しかし、そうではなく、表面的にはともかく元々子どもたち自身

が学びたい、分かるようになりたいとニーズをもっており、

それが支援によって満たされて行っていると理解する方が

データとクロスして考えると、その方が自然だと私には

感じました。

私が支援する多くの子どもたちは、学校やいろいろなところで

「(うまく適応できないのは)この子の特性ですから。

(できないままでいいので)認めてあげてください」

と言われています。

しかし、それにはものすごく違和感を感じています。

一昔前の教育では「子どもの可能性」という言葉があふれて

いました。あまりにも溢れすぎていたので、ありふれた、

むしろ形骸的な言葉だと感じていました。

でも、今、この時に現れている子どもの特性を見ているだけでは、

成長にはつながっていきません。大人になってもその特性を

引きづって生きていくこととなります。

でも、子どもの可能性という、今見えない現れでも

教育や経験によって変化するということを知っていれば

特性が完全に失われないにしても、特性をカバーできる

別の能力などが育まれていきます。

教育を仕事にしていればそれは常識ですし、プロでなくても

人間の知恵としてこれまでであれば共有されていたことだった

と思います。

それが発達障害や不登校、あるいは貧困といったバイアス

のなかで子どもを見ることで、特殊な状況になっており、

通常の常識に当てはめてとらえてはいけないといった

空気が蔓延していると思います。

もう一歩踏み込んでいえば、特別支援教育の多くが

単に通常のクラスから隔離されて、特別な教育どころか

放置しているだけといっても過言ではない実態があると

思っています。

これはシステムを設計、運営する側、教育現場に

子どもって何?という正しい認識の空気感が

欠如してしまっているからではないかと思っています。

たとえ、発達障害であっても、知的に課題を抱えていても

貧困であっても、人として可能性に満ちており、今は見えて

いない将来に向けて学び、経験を積んでいくということ

がないがしろにされてしまうことは避けるべきだと思います。

私なりに向き合うだけでなく、協力・共感者を求める

ということの必要性を感じています。





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