東海道中膝栗毛―京都ひとり旅2日目

前日のぶん

目が覚めたときに部屋が暗かったので、早起きしてしまったかと時計を見たら意外にも8時である。暗いのは遮光カーテンの遮光力が高かったからで、今日も天気は良いみたいだ。

旅行先では寝付けないという体質があったはずが、年々ぐっすりと眠れるようになってきた気がする。眠れないのも旅行の醍醐味のひとつだというのに、ばっちり10時間睡眠であまりにも健康!


起き上がって服を着替えて、昨日進々堂で買った「しば漬けカレーパン」をソファで食べる。レンジで温められたらと思ったが、冷めていてもおいしい。カレーにしば漬けの塩味と少しの酸味がよく合っている!
よく考えたら、我々は平素よりカレーに福神漬けを添えて食べているので、この組み合わせを拒否できるはずもなかったのだった。関係ないけど福神漬けってなんておめでたい名前なんでしょう。


準備をして、9時にホテルを出発する。
今日は大津から三条大橋まで、東海道歩きをする日です!

始点大津、そして今日のテーマ

三条京阪から東西線に乗って、びわ湖浜大津駅へ向かう。
電車の時間を調べていかなかったので、「びわ湖浜大津行き」が来るまでしばらく待つことになった。人もまばらな車内、30分弱揺られて、びわ湖浜大津へ到着したのは10時であった。
駅から伸びるデッキを琵琶湖方面へ歩いて、大津港と水平線を望む。大きい! 海みたいだ。



そこから踵を返して、琵琶湖を背にし、たった今乗ってきた京阪京津線の線路を遡るように歩いていく。

江戸は日本橋から京都の三条大橋までを繋ぐ東海道は、徳川家康が関ヶ原の戦いに勝利した翌年の慶長6年(1601)に、江戸と京都、大阪とを繋ぐ往来幹線として整備された。53ある宿場のうち、53番目の宿が大津宿である。宿場町と琵琶湖の港町との役割を併せもつ大津宿は、人口も多く、よく栄えて賑わっていたという。
大津を出発し、そこから逢坂の関を越え、東山を抜けて、蹴上からは三条通りをまっすぐに進んで三条大橋へ向かうのだ。
今日のスタート地点である大津港は、大津宿跡とは異なる。忠実な道程を辿ろうかとも考えたが、せっかく滋賀県に行くのだから琵琶湖を見てみたかったし、ラフな一人旅だから、という理由でこのようなプランにした。

今日の散歩―もとい、膝栗毛においては、東海道のクライマックスとゴールだけを搔っ攫ってしまおうという、ある意味での野暮をすることになる。
後で母から聞いた話だけれど、かつて祖母が日本橋から三条までを歩き切っていたらしい。歩いて、次回はその続きから歩いて、と何回にも分けて。いやどういうこと? 目の付け所、継続力、体力、どれを取っても疑わずにはいられないが、こうして大津から歩き始めてしまった以上、わたしも確実にその血を受け継いでいる…。日本橋を訪ねる日も遠くないのかもしれない。

札の辻

琵琶湖を背にしてから、路面電車のレールの敷かれたなだらかな坂をしばらく進んでいくと、「札の辻」と呼ばれる四つ辻に出会う。
東海道はここで折れていて、左(東)から来て前方の京都方面(南)へ伸びている。北から真っすぐに進んできたわたしはここで初めて東海道と合流することになり、右(西)に行くと北国街道(西近江路)となる。

札の辻のパネルから


つい先週、長野の追分宿で中山道と北国街道との分岐点を見てきたばかりである。そして今は、東海道と合流した中山道と北国街道との再びの分岐点にいる。一度追分で離れた道が、遥々経て大津で再び出会っているのだ。離別と再会。これは沁みます。

長安寺

東海道から少しそれて、長安寺に寄る。長安寺はかつて平安時代日本三大仏のひとつ、関寺大佛を擁した関寺跡にあたる。
この旅初めての坂! 山! おそらく正規ルートではないところから入ってしまった小さな山の中には、数多くの句碑と観音像が安置されていた。

三十三はおそらく石仏の数のこと

少し開けたところに、 小野小町の供養塔と、比叡山から出土して昭和35年に長安寺へ移された「埋もれ百体地蔵」がある。ここは町をよく見渡せるのだ。
謡曲「関寺小町」の中では老女となって昔の栄華を偲び詠う小町と、比叡山焼き討ちによって土中に眠ることになったお地蔵さんたちとが重ねられて、盛衰の理を感じる。


手を合わせてから階段を下ると、重要文化財の石造宝塔が現れる。言葉を選ばずに言うと、まじでデカい。とにかくぎょっとするくらいデカい! 高さは3.3mあるらしい。天延4年(976)の地震で破損した関寺を復興する際に資材を運搬したという霊牛を祀るもので、鎌倉時代初期に建造されたのだという。牛サイズということだろうか…。

デカ

暑くなってきたので、トレーナーの上に羽織っていたカーディガンを脱いで抱えながら歩くことにした。

関蝉丸神社下社

またしばらく歩いて、線路を渡って鳥居をくぐり、蝉丸神社下社へ。逢坂のあたりには琵琶の名手・蝉丸を祀った蝉丸神社が3社あって、そのひとつである。
境内に入ってすぐ、蝉丸の歌碑がある。
「これやこの ゆくもかえるも 別れては しるもしらぬも逢坂の関」


それから、紀貫之が詠んだ「関の清水」があった。石が組まれている上に祠がある。さすがに今は水を汲めないようだ。
正面には拝殿があり、行列の様子を描いた絵馬が掛けられていた。
なんと本殿は修復中で、ブルーシートが掛けられていた。調べると、崩落寸前のところを資金を募って修復しているのだという。同時に、東海道を往来する人々の安全を見守る道祖神的性格があるということを知る。そうだよな。道中、「道祖神」という道祖神は無かったのだが、人々が安全を祈らないということはない。この旅のために尚更お参りをしていきたかったが、出来なかった…。

逢坂の碑

碑文には、「神功皇后の将軍・竹内宿禰と忍熊王とがこの地でばったりと出会ったことが『逢坂』という地名の由来である」とある。

帰ってきてから、忍熊王について調べてみた。

記・紀にみえる仲哀(ちゅうあい)天皇の皇子。
母は大中姫(おおなかつひめ)。仲哀天皇没後の神功(じんぐう)皇后摂政元年,兄の麛坂(かごさかの)皇子とともに兵をあげて神功皇后を討とうとした。武内宿禰(たけしうちのすくね),武振熊(たけふるくま)らと逢坂(おうさか)でたたかって敗走したのち,近江(おうみ)(滋賀県)の瀬田川(または琵琶湖)に入水した。「古事記」では忍熊王。
日本人名大辞典「忍熊皇子」

「ばったりと出会った」という抽象的な表現がされているが、忍熊王にとってみれば危機的かつ致命的な出会いであっただろう。運命のいたずらなのか、ここで不意に敵将・竹内宿禰と出会ってしまい、敗れ、その後入水をすることになる。
偶然は、後から振り返った者によって「かくあるべきことであった」といって割り切れられてしまう。
でも、必然であるからと諦めてしまうと、きっと心は慰められない。誰の心? 誰もの心だ。そうして諦めた人びとの!
個人的な理由で「運命」という言葉に思考が引き摺られて、つい話を繋げてしまう。
逢坂という、運命の地を自らの足で歩いているのだと考える。こういっている今も、いつか人生の分岐点として振り返るときがくるのかもしれない。

蝉丸の歌を思い出す。
逢坂の道の至るところにはあの歌が刻まれている。

安養寺

閉まってた〜〜〜泣
行基作の阿弥陀如来坐像を見るには予約が必要でした。
こうして文字に起こしていると、つくづく無計画ゆえの無念が多い旅である。まだあります…。旅の運命性という言葉で片づけるには努力の余地が余りあるので、反省してください。

関蝉丸神社上社

常夜燈の横の階段を登っていくと、朱色の鮮やかな鳥居があり、お堂が設置されている。花畑があって、桃か梅の花だろうか、淡い紅色の花が小さく花をつけている。
舞台のような、御堂のようなところには、蝉丸会による蝉丸神社と逢坂に関するレポートのラミネートか張り出されていた。逢坂はよく歌に詠まれる地であり、蝉丸の歌のほか、三条右大臣や清少納言の歌も掲載されていた。
さらに階段を登っていくと、猿田彦神を主祭神とした本殿がある。獅子や象や鳥の木目の彫刻が流麗である。鳥はおそらく鳳凰ではなくて、水鳥のようだが、何者だろうか…?
下社では参拝が出来なかったので、その分を併せて旅の無事を祈った。

東海道に戻る。ずっとなだらかな上り坂であったのが、やや傾斜を増して大きくカーブしていく。国道は山肌の壁の間に走っている。歩道にせり立つ石造りの壁に、車石や蝉丸の歌などのパネルが嵌めてあった。もし車で来ていたなら見落としていただろう。

無念、からの回生

「日本一のうなぎ」を謳う「かねよ」の存在は知っていたが、いやいや一人旅でうなぎなんて…とノーマークだった。三条までは歩いて4時間ほどだというので、歩き切ってからお昼ごはんを食べるのでもそう遅くはない。
しかし。いざ「かねよ」の大きな看板を目にすると、もうお腹がすいてたまらなくなるのだった。しかも、うなぎが空を泳いでいる! 

鰻も天に昇る時代になったもんだ

時刻は11時半。もう1時間半は歩いているのだし、休憩にしてしまおうか…と調べてみると、「かねよ」は今日が7分の1の定休日だった。くっ…。
もうすっかり休憩したいマンになってしまっているので、そのまま地図アプリで近くに茶屋がないかどうかを検索する。
そうして「大谷茶屋」というまさに「茶屋」が浮上し、見てみるとうなぎのお店だという。なんという僥倖だろうか!

大谷茶屋

かつて「一人旅でうなぎなんて…」と清貧ぶった自分をあらゆる言い訳でねじ伏せて、東海道をもう少しだけ進んだところにあるお店へ向かう。 まだまだ歩くので体力をつけなければならないし。美味しいものはモチベーションになるし。
対岸に交通を見守る不動様を見つけてから、さらに先の歩道橋を渡る。すぐに「大谷茶屋」と趣のある看板を掲げた日本家屋が見えた。

素敵な佇まい


飛び入りだったが、時間が早いこともあってすぐ席に通してもらうことができた。ホットカーペットの敷かれた掘り炬燵。窓から望む静かな庭園。素敵な雰囲気で、これは次に立ち上がる時に苦労しそうだなぁと思った。

注文をしてから暫く経って、鰻丼が運ばれてきた。
蓋を開けるときらきらと輝くたれ…。結論から言えば、この鰻丼を頂くのにあたって歯はいらなかった。形ばかりの咀嚼をする前に、身はほろりと溶けて無くなるのでした。ただただ旨い脂の気配が口に残るのみ。そして香ばしく焼き目が付いた皮と、甘いたれに支配されたごはん。山椒を振ることも忘れて、気がついたら丼の半分は無くなっていました。もっと大切に食べなよ。お新香とお吸い物も美味しかった。
元太、お前はいつもこんなものを所望していたのか…? うな重で歌を作るなんて、恐ろしい子…!

夢の食べ物、富豪になって特上お重を食べたい

精力を付けたので、再び三条を目指す。

月心寺

閉まっていた。なんとも罰当たりなことだが、ここに寄ろうと思ったのはここを発祥とする名物「走井餅」を食べられるのではないかという期待をしていたからで、その心が見透かされたのかもしれない。往来安全の祈願を受けて、国道沿いを進んでいく。

ありがとうございます

さぁ放火して

かなり歩いている。月心寺に寄れなかったので、大谷茶屋から次のチェックポイントである徳林庵までの道のりは合わせて3km弱、40分以上は歩き続けることになる。
長くなるので、イヤホンを着けてヨルシカの「451」を流す。万が一にも共感できない曲で、しかし虚栄心が丈夫になる曲だと思う。また極限みたいなリズムを刻んでいるので、自然と足が進む。コンクリートの砂漠を歩いている気分だ。天気はとても良い。

井筒八ッ橋のお店の前にある地下道で国道を横断する。地下道に対する度胸は無いので、小走りだ。こういうところでは無限に悪い想像をしてしまう。

大きな道路たちの接続部分を越えると、東海道は国道と分離して住宅街へと入っていく。

山科地蔵徳林庵

住宅街の中に木造の六角堂が現れる。
ここにある地蔵菩薩像は、はじめ伏見六地蔵にあった六地蔵尊像を主要な街道の入り口6か所に分地されたものであるという。
京都へ入る前に厄落としをしたい。が、ここでも、地蔵尊の御開帳日ではなかったのだった。毎月24日の10時から12時の間と、六地蔵巡りの毎年8月22日、23日に開堂されるらしい。くぅっ…。

六角堂の裏側には六地蔵があるので、そちらに手を合わせていく。およそ二頭身の愛嬌ある姿で、癒されるのだった。

ころからころりん

金星のダンスでAll Day All Night!!

時刻は13時半。
正直心が折れそうである。ひとりで知らない土地のこれほどの距離を歩くことなんて初めてなのだ。文明の塊みたいな自動車に追い抜かされるたびに、暗雲が立ち込めようとしてくる。

道はさらに細くなり、上り坂になっていく。清水寺の裏、北花山の麓に差し掛かっている。あの向こうはもう都なのだ…!

こんなにも人工物に溢れているのにな


確実に歩みを進めているということは頭でわかっていても、しかし、足の裏が痛み始めていて、体も重たい。上り坂を進む速度は笑ってしまうくらい遅々としていた。

そんな時にイヤホンから流れてきた「金星のダンス」に励まされた記憶がある。ディスコミュージック風のアップテンポ、ぎらつくミラーボールの憧憬、ぶちあがるコールアンドレスポンス…! 歌詞に陰のある曲だが、わたしの折れかけの心には有無を言わせない音圧が効いていた。続けてKEYTALKの「MONSTER DANCE」を流す。
たぶん、今の私に必要なのはダンスミュージックだった。表層的な明るさに簡単に励まされているよ。

亀の水不動尊

亀の水不動尊は、東海道中の急坂を登ったところにある。
旅人たちの心の拠り所であり、喉を潤すこともできる場所である。
石造りの亀の像の口から水が流れていて、手水になっているようだ。奥には不動尊が祀られている。

このあたりは日ノ岡の峠道と呼ばれ、大津から京都へ向かう道中の難所のひとつであった。牛車の通る車道の轍は深くえぐられて、雨による泥濘がたびたび牛車を立ち往生させていたのだという。そこで、木食正禅上人が享保19年(1734)頃から道路の改修に取り組んで、車道の段差や坂道の勾配をゆるやかにする工夫を凝らした。その後、峠道の知覚に「梅香庵」を建てて峠道の維持管理を継続し、井戸を掘って旅人や牛馬の渇きを癒す「量救水」を設置した。

今はもうすっかりコンクリートで舗装された道で、立ち往生の心配など無い。けれど、一度心が折れかけたところでかつての旅人たちの面影を見ることが出来たことがわたしにとっては温かく、確かな救いになった。

危うく不動様を見逃すところでした

大乗寺

笑ってしまうくらい急

かなり急な石階段の上に「芙蓉観音」が置かれているという。ただでさえ上り坂が続いているので、ここを登ろうかどうかだいぶ逡巡した。
もともと寄る予定ではなかったが、お寺訪問の失敗が続いていることもあるので、観音様を拝んでいこうと思った。

「酔芙蓉観音菩薩像」は、この大乗寺に9月頃に咲く酔芙蓉が群生していることから名付けられている。朝に白く花が開いて、夕方になるにつれて紅く、酔ったように色を変えていくので「酔芙蓉」という。いつか読んだ小説に「恋をする花」として描かれていたことを憶えていて、幻想的な印象のある花なのだが、ぜひいつか本物の酔芙蓉を見てみたいと思う。
脈を耳元で感じながら登った先には、白い観音様が鎮座していた。また救われる心地がします。いくらか足の痛みも和らいだ気がする。

新しい感じ。おそらくこの横が酔芙蓉の咲くところ

日向大神宮

東海道からは少し外れて、粟田口大日山にある日向(ひむかい)大明神へ行く。
ここが今日最大の難所、というか最大傾斜の坂であった。もう次の一歩は出ない、というような状態で棒の足をどうにか踏み出している。日頃運動しないくせに、いきなり長距離を歩こうとするからこうなるのだ。

なぜ息を切らしながら山の上の神宮へ向かっているかというと、この春、わたし自身に伊勢との縁が深くあると感じているからである。
計画の段階ではチェックしていなかったが、今日歩いている途中で地図に「日向大神宮」とあるのを見つけた。
日向、というからにはきっと太陽に関連のある神宮なのだろうと思ったら、やはり天照大神を祀っている。外宮と内宮があり、日向大神宮は京都の伊勢といわれているそうだ。

果てしなく坂

やがて参道には砂利が敷き詰められて、鳥居が見えてくる。木造で、上部に金の丸が6つ付けられている。伊勢の鳥居だ。
日向大神宮は、顕宗天皇の御代(485~487頃)筑紫の日向(ひむか)の高千穂の峯を移して創建されたのだと伝わる。その「日の神」が鎮座する神体山を、天智天皇が「日山(かみやま)」と名付けられた。(上り坂は大変にしんどかったが、かろうじて山に対する文句や悪口は言っていなかったので良かったと思う。そしてそう考える心が賤しい)
平安時代の貞観年間(859~877頃)に疫病が流行したとき、神宮の清泉の水を万民に与えたところ、疫病がたちまち治まったので、清和天皇によって「日向宮」の勅願とされた。
応仁の乱で一度兵火に巻き込まれたのち、再建されている。

稲荷神社、境内へ入って外宮、天鈿女神社などにお参りをして、内宮へと階段を上る。御殿はお伊勢特有の造りである。次週もまた会いに行きます。

外宮
内宮


そこから少し奥にある影向岩も拝んでいく。階段を上がった先にある天の岩戸も見学することにした。巨大な岩に穴が開いていて、この岩穴をくぐると開運・厄落としになるのだという。

帰ってきてから境内図を初めて見て、天龍・地龍と厳島神社の見逃しに気が付いた。悔しい! 
山の中に龍神や弁財天などの水の神様が祀られているのを、一瞬なぜだろうかと思ったが、京都には貴船神社もあるので文脈が無いわけではない。豊穣を願うために水の神が祀られているのだろうと思う。麓では琵琶湖から水を引いてきているようだし…。
龍神伝説があったら知りたい。図書館に行かなければ。

山を下って、次は南禅寺へ向かう。

途中には「義経地蔵」がある。義経の地蔵では無くて、義経とすれ違った平家の関原与一らの一団のひとりが誤って泥水を蹴り上げてしまい、それを怒った義経によって切り殺された一団を祀ったものであるらしい…。一説には「蹴上」という地名の由来である。

「ねじりまんぽ」を通る。「まんぽ」がトンネルを意味する古い言葉で、「ねじりまんぽ」は「ねじりのあるトンネル」の意味らしい。内部の赤煉瓦が螺旋状に積まれている。明治っぽい!
両口にはそれぞれ「雄観奇想」「陽気発処」と書かれた扁額がある。こちらも明治らしいレトロなお洒落さのある書体である。

異世界へ行けそう

ここまで来ると、着物に身を包んだ観光客や修学旅行生の姿も多くなってきて、いよいよ終点の近づきを感じるのであった。

金地院

「ねじりまんぽ」から南禅寺へ向かう途中、「長谷川等伯特別公開」という文字を見る。なに!? これは寄るしかない。
拝観受付のおじさまに聞くと、方丈の中に長谷川等伯の襖絵があり、それを特別公開しているのだという。1日のうちに回数と時間が決められていて、少し待てば今日最後の公開である15時30分からの回に参加できるそうだ。

金地院(こんちいん)は応永年間に大業徳基禅師が足利義持の帰依を得て、京都北山に開創した禅宗の寺院である。現在の場所には、慶長のはじめに徳川家康、秀忠、家光に親任された「黒衣の宰相」こと祟伝和尚によって移建されており、祟伝和尚の旧蹟ともなっている。

最奥には徳川家康を祀る東照宮があり、祟伝和尚の塔所である開山堂を巡ったあと、時間まで方丈の縁側から特別名勝「鶴亀の庭」を眺む。
靴を脱いで上がり、熱のこもった足をほぐしながら一息つく。
庭園にあるふたつの島は、「鶴亀の庭」という名前の通り、鶴と亀を模しているのだという。枯れることのない常緑樹と、蓬莱山に擬えた石組と、長寿のモチーフがふんだんに取り込まれたお目出たい庭園である。

特別公開の時間になると、なんとガイドのおじさまが現れ、方丈の中のお部屋を全て案内してくれるのだと言って歩いていく。わたしのほかに、少し年配の男性と男性2人女性1人の3人組が一緒だった。

仏間の「仙人遊楽図」、対面の間の「松梅の図」は狩野探幽、尚信の筆である。対面の間は奥が一段高くなっていて、そこに将軍が座るのだという。松梅も渋く、厳格な雰囲気が漂っていた。

長谷川等伯筆の「猿猴捉月図」は、奥の私室と考えられる部屋の襖に描かれていた。手長猿が木から身を乗り出して、水面に映った虚構の月に手を伸ばさんとしている。仏教説話に基づく主題だそうだ。猿はつぶらな瞳をしていて、毛並みの質感も相まって可愛らしい。襖1枚を隔ててすぐ外なので、襖絵は褪せて剥落し、染みなんかもあるのだった。たぶん寝室だったのだろうという。

ガイドの方が、「こういう襖絵は大体美術館なんかにいってしまうことが多いのですけれどね」と話す。もう私的には使われない部屋であるとはいえ、建物の中に生きたままの襖絵を見るというのは、時機がなければ叶わないことである。探幽や尚信や等伯であれば尚更、いつ美術館に移されてしまうかもわからない。だから「寄るしかなかった」のである。

その後も、「八窓席」という窓が沢山ある茶室のにじり口から入る体験をさせてもらったり、畳を外した下にある炉を見せてもらったり、掛軸の幅に開いた窓から庭の灯篭を眺めたり、本当に貴重な体験をすることができた。

時刻は16時を過ぎている。

南禅寺

でかーい! 大きな門の前に、バグったサイズの灯篭が建てられている。


久しぶりにこんなに大きな建造物を見て感動している。
本堂の天井に描かれた、黒と金の龍がとても格好良かった。

南禅寺といえば水路閣が人気のスポットとなっていて、今日も着物の女性グループが多く訪れていた。
みんなにこにこで写真を撮っている。
お寺の領内で、明治23年に建造された煉瓦造りのアーチ橋がなんとも不思議な異国情緒を醸していた。

南禅寺を出たあと、蹴上インクラインの上を渡りながら、東海道である三条通りまで戻っていく。
一瞬、ここで記念撮影でもしていこうかと思ったが、体力がもうかなり残り少なくなっていたのでゴールだけを目指して歩いていく。

夕日が背中を押してくる

三条通り!
前方にはまだ夕日ほどではない高い太陽がある。
なぜか太陽を正面にして、頭の中には「夕日が背中を押してくる」が流れ始める。逆だよ。
小学校の低学年で歌った以来なのに、まど・みちおの歌詞は今も鮮明である。
「歩くぼくらのうしろから でっかい声で呼びかける」
ペットボトルの水も金地院あたりで飲み切ってしまったので、喉が渇いていた。その渇きと、ゴールへ急ぐ気持ちと、疲労と、あとは色々な何かが合わさって、夕焼けの郷愁を思っていたのかもしれない。
歩き切ったらきっと甘いものを食べよう。
そういう気持ちで最後の2kmを歩くのでした。

(本来はここで相槌稲荷と鍛冶神社と明智光秀の首塚にも行く予定だったが、本当に疲れていてすっかり忘れていた。夜ごはんを食べた後に思い出した。)

終点、三条大橋

周りには観光客がたくさんいるが、まさか誰も琵琶湖から歩いてきたとは思うまい。
改修中の三条大橋、鴨川を渡って、ついに弥次さん喜多さんの像が!!

情けないことに、感動よりも疲労、疲労、疲労である。足が痛いんだ。

すぐそこにあるスターバックスコーヒーで冷たいティーラテとさくらドーナツを購入し、ホテルへ戻る。東海道を歩いた後にスタバを嗜むという、非常に歴史縦断的なことをしている。

部屋に入ってソファに座るとき、体が軋んで思わず呻いてしまった。


かくして、大津から三条大橋を歩ききったのだ。
10時に大津港を見て、弥次喜多像に着いたのが17時であった。
杜撰な計画や数々の見落としなど反省するべき点は多い。大日阿弥陀如来や山科の地蔵尊を見ることが出来なかったし、最後の三条通りでの失態たるや、頭を抱えたいほどである。
しかし、まずは歩き切った自分を認めたい。
そして、道中を見守ってくれた数々のお地蔵様や諸々の神様たちと、励みになった音楽と、出会った人たちと、たまさかの出来事に感謝を。
わたしはまだ旅の途中にあって、今日の出来事を大きなものの中に紐づけて、その意味を考えていかなければならない。

麵屋キラメキ

お昼ごはんを奮発したので、夜は手軽にラーメンを食べることにした。
「麵屋キラメキ」のとんこつ醤油ラーメン。


おいしい! メンマが細くてちゅるりとしている。あとはチャーシューとネギと細麺。温かさと濃厚さと塩分が五臓六腑に染みわたります。胡椒が効いていたのが美味しかったし、追い胡椒もした。
ごちそうさまでした。

帰りがけにコンビニで缶ハイボールを買って、ホテルの部屋で飲みながら明日の予定を考える。
貴船神社と石清水八幡宮という、南北の両端みたいなところを巡ろうとしている。電車の時間を調べて、今日は終わり! 
シャワーは明日の朝浴びることにします。

夢想、黒との逢瀬

眠っていると、ホテルの部屋のドアの方向から、がちゃり、という音が聞こえる。
鍵が開いた音?
ぼんやりと考える。同時に焦る。不審者か?
そうして、のっぽな黒い塊が部屋に入ってきた。人間ではないことに安堵し、人間ではないことに再び焦る。黒い塊は徐々にこちらへやって来て、枕元に立つ。こちらを見ている。わたしはそれを直視できていたのかどうか、今となってはわからないが、そこから視線を感じた。
影がわたしの胸元に飛び乗った。ふさふさの毛の感触が、すうすうと小さく呼吸をしている。もう怖くないが、何分胸の上に乗られているので息が苦しいし、起き上がることもできない。

しばらくすると、黒い塊はいなくなっていた。夢を見ていたのだ。

携帯を見ると、日付が変わった頃であった。


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