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私が中東旅を決めた理由

今回の旅はヨルダン、そしてほんの少しだけのイスラエルでした。

記事をこれから書いていくにあたり、渡航の動機を備忘録として示しておきます。

私がヨルダン行きを決めたのは、砂漠で昔から暮らす遊牧民、ベドウィンの存在を知ったからでした。

まるで火星のような、あまりのスケールの大きさに行く方向も来た道もわからなくなってしまいそうな砂漠の中で、彼らは古来から太陽や月、星を目印に遊牧を続けてきたといいます。

そこに国境はなく、サウジやレバノンなど今では近隣諸国となってしまっている国々を渡り歩いてきたそうです。

海で仕事をしている私にとって、古代の船乗りと古代から現代に続く彼らの姿が少し重なって見えたのです。実際、同じ顔を二度とは見せない砂漠は、海と似ていていて心を落ち着かせてくれました。

そんな彼らに、ほんの一部かもしれないけれど、観光客として接待をしてもらっただけかもしれないけれど、砂漠やそこでの暮らしを紹介してもらい、夜にはキャンプを抜け出して星空の下で焚き火をしながらお互いの話を聞き合いました。

その後に訪れたのはイスラエル。そこで私はカルチャーショックというポップな言葉では補えないほどの衝撃をうけ、悲しくなり、無力さを噛み締めることになったのです。

そもそも私は文明や文化、人々の暮らしが交わる土地が大好きで、中央アジアはアメリカさながら人種のサラダボウルのように感じるし、トルコも西洋とアジアの混ざり合う美しい街でした。ですので、なにか自分の気持ちを裏付ける何かが見つかるかと思い、宗教と民族の混じり合うイスラエル、エルサレムへの旅行を決めたのです。

ただ。街を歩いていてたしかに超正統派ユダヤ教徒も、イエスが投獄された地下で泣き崩れる巡礼者も、朝にはきっかりアザーンで起きる生活もしました。しましたが、人々が混ざり合って暮らしているという印象は全くと言っていいほど受けないのです。どちらかというと、交わらないようにお互いに関心を向けず暮らしているという印象を受けました。

これがお互いを尊重しながら暮らすということ?

また満員電車に乗り込んだはいいものの全く奥に詰めない人たち、子連れのお母さんが乗ってきても席を譲らない人たち、なにを聞いても聞き終わる前にI don't knowという人たち(この辺は外国人になにを言われてもI can't speak Englishと答えてしまう日本人とすごく似ている気がして余計に悲しくなりました)

自分の信仰さえ守っていれば他者はどうでもいいの?それをあなたたちの神様は望んでいるの?私の持っている道徳って実はどこから来たものなの?

お正月は神社に行き、お盆にはお寺さんが来て、クリスマスにはツリーを飾る家庭で育った典型的な日本人の私から見た、素直な感想でした。

分かり合えると期待したからショックを受けたのではないか?と友人に指摘もされましたが、少し違います。私の旅の、そして生き方のポリシーは「人と人とは分かり合えない、ということを分かり合うことができる」なのです。なのでここにはここの暮らしがあり、その人たちの考え方がある、というのは分かっていたはずなのに…それでもイスラエルでのほんのわずかな滞在は私にとって少し苦しいものとなりました。

また、前述した「無力さを噛み締める」というのは、パレスチナ自治区、ベツレヘムでの出来事です。

公共バスでベツレヘムに訪れた私は拍子抜けしました。そこで目にした光景は、観光客で溢れかえり、少々気ぜわしく現地の人々が行き来するごく普通の街だったのです。時々耳に入る悲しいニュースや辛いニュースの影も見えません(ベツレヘムより酷いのはガザのあたりですが…)

私がいくらそこに足を運んだところで、わたしにはその現状が何も分からない、というのが無力さと、物理的でない隔たりを感じた瞬間でした。また、少し怖いという気持ちと、それを見てわたしはなにも出来ないという気持ちから難民キャンプには足を運んでいません(ブログやツイッターなどを調べていると足を運んだ日本人は多いようでした)

そんなこともあり、私は砂を噛むように無力さを噛み締めたのです。

世界のこと、人種のこと、宗教のこと、働くってなに?思いやりってなに?そういうことがイスラエルに来たらなにか分かるかと思っていたけれど、ここに来て何も分からなくなりました。むしろそう思っていたのは、とんでもない私の傲慢だったのです。

長文になりましたが、以上が今回の旅のあらましです。感じたこと、出会った人たち、美味しかったものを楽しそうな写真と共に振り返って行きたいと思うのでゆっくりとお付き合い願います。

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