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短歌ってアナーキー

最近、短歌を始めた。
なんかとってもアナーキーで良いのだ。
自由な感じ。

始めた理由はいくつかあるんだけど、1番大きいのは、ある本との出会いだ。

「はじめての短歌」穂村弘 著 っていう本。しかもサイン入り。自由の女神のスリーサイズをというサインが入ってる。

独特だ。そんな訳で、ナイスな古本屋で購入。

並行して「アナキズム」栗原康 著 という本も読み始めた。ただの気分で、たまたまである。

アナキズムとは簡単にいうと、支配からの解放を目指す思想の事だ。うぉおおお!!!

そしてビッくらこいた事に、このアナキズムと短歌の本、共通点がとても多い。「生きのびる」事と、「生きる」事が同一化しすぎてしまっている現代社会を嘆いている。

ここでいう「生きのびる」とは、生命維持に伴う活動のことである。例えば、「はじめての短歌」では、以下みたいな事が書かれている。(私が勝手に要約したものです)

中年のおじさんが、道に座り込んで、探し物をしていたとする。その探し物が、財布だったり、コンタクトレンズであれば、警察官も一緒に探してくれるだろう。でも、「蝶々の唇を探しているんです」なんて言ってしまった途端、警察署まで連れていかれてしまうのだ。

このサイフだったり、コンタクトは、社会を生きのびる為に必要なものだ。だから不自然じゃないよね、ということ。他人に白い目で見られない。

でも、そんなのは息苦しい。そんなのは窒息だ!
蝶々の唇を探したっていいじゃない!
蝶々のそばかすだって探してみたいじゃない!

それが「生きる」って事なんじゃないか。無意味で無駄な事が、光り輝く感じ。社会の枠からはみ出て自由になる感じ。

そんな力強さが短歌には含まれている。生きることで、短歌はとても良い短歌となる。と、この本で学んだ。

話は少しずれるが、人々が行き交う駅のホームで、体操着ブルマ姿のおじさんがスクワットをしていたりすると、安心する。まだ大丈夫だな、なんて思ったりする。

そんなわけで生きる為に、わたくし短歌を初めてみました。

ということで、最後に一首

てふてふって
言ってみたいだけ
てふてふって
てふが蝶って
てふイケてるよ

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