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東京模様

ぷうぷうぷう

 ボタンを押しても反応しないもの。音量調節キーが壊れていて相手の声が蚊の鳴き声のごとく聞き取れないもの。コインを入れてもストンと釣り銭受けに落ちるばかりでかけられないもの。
 キーを強く押したり、弱く押してみたり、右方向から押してみたり、いろいろやって、やっとかかるもの。
 町から大半の公衆電話が撤去されて久しいが、残存するわすかな電話をようやく発見。

 いざ勇んでかけようとすると、壊れている。
 電話会社は公衆電話のメンテナンスをやめたらしい。これが技術大国を標榜する国の現実かと思うと悲しい。
 公衆電話は災害発生時のために残していると聞いたことがある。じっさい震災時に無料で通話することができた。あれから九年。壊れた公衆電話機は災害時にも平常時にも役に立つまい。
 そのうえ通話料金がおそろしく高い。
 三つ四つ壊れた公衆電話機を経由し、やっとかけられる電話を見つけた。
 10円コインを電話機の上に山積みし電話をかけた。通話中のコインが落ちる速度はあたかも瀑布のように急速であった。コインを電話機に注入する作業に忙しく、会話内容がおろそかになったほどだ。ほんの短い要件を伝えただけなのに三〇〇円近くかかってしまった。
 抗議する人が無いので通話料金を電話会社が大幅値上げしたらしい。
 値上げはいいとして、せめて電話機の点検修理だけはやってほしい。壊れた電話機ばかりでは困る。
 ところでこの電話のときこちらのコインが消滅したため、料金切れを知らせるブザーのあと会話途中に電話が切れ、プープー音が鳴った。
 私より年輩の方なら、ふるさとの両親宅へ長距離電話をかけたときお金が枯渇し、「げん」と言ったところで母親の声が突然切断されたあとに、受話器が鳴らすぷーぷーぷーの音に、胸がうずいた思い出をもっているだろう。元気でいるか、寂しくないか、おかねはあるか、ちゃんと食ってるかと言いたかったのかな。母の声のつづきを想い、遠い故郷の食卓の団欒に恋したことがあっただろう。
 郷愁の音、ぷうぷうぷう。
 だから中高年者ならば「ああ十円玉が切れたのだな」と察してくださるが、あいにく相手は若い人だった。切れたあと向こうの人が私が一方的に電話を切ったと誤解し、気を悪くしているのじゃないかと私は心配になった。
 だがコインがもう無い。まあいいかと済ましてしまった。


朧月

 フランス本国で観客動員数百万人の大ヒット映画などという宣伝コピーに魅かれ観てみたら、ぴんとこない作品だった。そんな経験が何度かある。見ていてフランス語が分かれば面白いのかもしれないとおもった。非常に苦心した日本語字幕がつけられたりしていることから、言葉の興趣を味わう作品だろうと、漠然と想像できるからだ。フランス人はフランス語を殊のほか誇りとするそうだから、外国人にわからぬ映画をあえてつくるのだろう。
 そんなとき小津安二郎監督映画を母語で鑑賞できる自分に優越感を覚える。小津映画は普遍映画である。世界のいづれの文化に育った人もその世界に浸れる。しかしながら日本語ネイティヴだけがくすっと笑える控えめな描写があることも事実だ。
 例えば「彼岸花」。小津監督初のカラー作品。くすんだ翳りが胸をうつ「東京暮色」から一転し、天然色の色彩が実に美しい。作品のところどころに登場する鶏頭の花と、座敷に置かれた真紅のケトルの鮮やかなこと。小津の美的センスが冴える。
 その「彼岸花」中のほんの数十秒の短いシーン。京都の旅館の女将が主人公夫婦の家を休日に訪問する。明るく人がいいのだが、他人の迷惑または困惑等をまったく気にしない(できない)性格の女将。世の中にときどき実在する性格だ。持参した土産を家政婦さんを通して渡すとき、
「あんたへとちがいおすえ」
などと言わなくていいことを言う。悪気はぜんぜんないのだが。
 彼女の話はいつもものすごく長い。そこで話しはじめにトイレに立つ。すると廊下に箒が上下逆さにたてかけられている。箒の前をつつつと通り過ぎかけた女将が廊下を戻り、箒を正しい向きに変えて、再びトイレに行く。このシーンに台詞はない。おそらく箒を逆に立てておいた張本人であろう家政婦は画面に登場さえしない。しかしたった数十秒間に見事なほど複数人物の性格描写を観客に示して笑わせる。サイレント時代に映画作りを覚えた人だけに、小津はこういうシーンが巧みだ。
 種明かしを文字にして説明するのは無粋で、いかにも非小津的だけれども、日本文化において逆さ箒とは、腹の底で嫌な客だと思っている人充てに送る「とっと帰れ」との暗黙のサインである。それがこの訪問者にてんで通じないところに諧謔がある。それを知らない外国の人たちはこのシーンを楽しみきれないのではなかろうか。私がフランス映画の一部の作品に抱く隔靴掻痒感とやや似ているようにおもう。
 小津映画の造りは本当に独特だ。世界に類例がない。
 まずこれといってストーリーがない。じっさい晩期小津映画はどれもこれも似たり寄ったりで、同じメンバーの俳優が似た役を演じるし、同じ薄っぺらで安っぽい音楽がながれる。その曲が作品に実によく合っている。ほかの音楽を考えられないくらい。
 つぎに、目立つ主人公がいない。この点、三船敏郎がヒーローとして屹立する黒澤明監督映画と対照的。「東京物語」の主人公は笠智衆かもしれない。しかし「晩春」「麥秋」での笠を主人公と呼べないだろう。原節子が目立っているが、やはり主人公とはいいがたい。小津映画には、その人を太陽として脇役役者が周囲を回転する流儀の主人公が不在である。そして善玉と悪役もいない。登場人物ぜんいんふつうの人である。その点も黒澤映画と著しく異なる。
 それから比類のない画面の美しさ。小津は俳優さんを美しく撮る。別監督映画における同一女優の容姿を比べてみるとよい。小津映画のほうが数段美しい。「麥秋」「東京物語」「秋日和」で三宅邦子が匂わせる早春の梅花のような清潔な色香。「彼岸花」での目が覚めるようにきれいな田中絹代。彼女は小津監督よりやや年上だから撮影当時五〇歳代だっただろう。当時の五〇歳は今なら六〇歳だ。「彼岸花」を見るたびなんと美しいおばあさんだろうかと嘆じてしまう。
 男の俳優も美しく撮る。ほぼすべての小津作品に出演した笠智衆の美しさ。裏表がない誠実そのものな人格と、軽さひょうきんさによる人格の美を見事にスクリーンに映している。
 小津作品の美しさはタテ・ヨコの構図の美である。
 タテ、とは時間的な美。ヨコは空間的美だ。映画は時間芸術であるから、開始から終了まで時間的流れの構図の美しさを監督が造形する。そして一瞬一瞬の各シークエンスの構図。これをヨコの構図と呼ぼう。役者さんたちの配置、それぞれの姿勢と動き、セットの形との兼ねあい。それらが実に均整がとれていて、美しい。ため息が出るほど。笠智衆の回想によると、芝居のすべて、文字どおり箸の上げ下ろしの角度に至るまで、すべてが小津監督の指示によるそうだ。小津の世界が私にもたらす感銘とは、すみずみまで完璧に構築せられた美によるのだ。かれは類まれな美的センスを保持していた。
 ところでそんな小津との最初の出遇いは最悪だった。筆者は二〇歳台だっただろうか。小津映画の第一印象は、「退屈、反撥、違和」の三語に尽きた。
 まずは退屈だった。ストーリーもアクションもない。平凡な日常が淡々と綴られるだけである。
 つづいて強い反撥心が私の中に生じた。小津映画には思想がない。理想追及もない。社会改善意欲がない。求道などあるはずもない。金持ちのブルジョワ紳士たちが高級料理を飲み食いするシーンの連続だ。若者が小津に反抗するのはその青年の精神が健全な証しである。
 それから決定的に悪印象だったことは小津の構成の不自然さだった。能面のごとき無表情の俳優がカメラレズの正面に向かって台詞を陳べる。登場人物が台詞をいうごとに、これが繰り返される。そのシーンに登場する俳優全員が写るカットと、一人の俳優がまっすぐ前を向いてしゃべるカットがぎこちなく反復される。これが実に不自然で、映画の自然な流れをぶつぶつと切断しつづけるのだ。手法が下手に見えた。まるで子供向け紙芝居のようだと。
 それで開始から五分の一まで辛抱して見たところで、席を立って外へ出た。「東京物語」だった。堀切の開業医が急患の往診に出るシーンまでしか若い私は耐えられなかった。
 ところが四〇歳を越し、じぶんの肉体的精神的衰退の兆しとその先の死が否応なく視えてくると、小津映画が俄然として親しい世界に変わるのだ。わたしもそうだった。後期小津作品のすべてを私は何度も観ているから、内容をすっかり暗記している。それでもときおりむしょうに小津の世界に帰りたくなる。スクリーンに、粗い布に書かれた題名が、哀調を帯びた音楽とともに現れたとたん私の心は懐かしい想いに満たされる。小津映画は観るものでなくそこに浸るものなのだ。
 小津を日本的と日本人は言う。だがそれはすこし違う。小津の美意識は例えば谷崎潤一郎の陰翳礼賛とはずれている。ぼんやりした不明瞭なものごとに深い意味を認め、不均衡や歪みにそこにそこはかとない情緒を表現する日本の美学と、小津とは似ているようでずれている。小津は明晰かつ均整のとれた美が好きなのだ。春の朧月の黄色な幻暈よりも、澄みきった秋の満月の玲瓏たる白光をかれは好む。
 小津作品の基調色は白である。「晩春」「麥秋」「東京物語」での原節子は染みひとつない純白のブラウスを着ている。
 ちなみに私のいちばん好きな小津作品は「麥秋」だ。そのつぎが「東京暮色」と「彼岸花」。これらとと「秋刀魚の味」を京橋の国立フィルムセンターが保存するフィルムで観たことがあった。ただし私の記憶が正しいとしたら、「東京暮色」でなく「東京物語」だったかと思う。その時むかしの作品はやはりフィルムで見るべきだと思った。感銘の深さが違うのだ。小津はデジタル修復などという未来の技術を知る由もない。彼はフィルムを想定して創ったわけだ。作者が観てほしいと思っているであろう形態で鑑賞するのが最もよい。それはバッハ以前の古い音楽を当時の楽器と当時の演奏法で奏でることに一脈通ずる。
 蛇足になるかもしれないが、最後に小津監督の演技指導について一言。役者に無表情を強制し、一挙一動まで監督の指示通りに動かせた監督。役者に自主性を認めなかった。だが作品を詳しく見ていると、小津がそうしたのは基本的に男の映画出身俳優であったことがわかる。例えば笠智衆や佐田啓二。舞台出身の女の俳優については自主性を許している。代表例が杉村春子。彼女は小津作品においても表情豊かに、自分の演技をしている。
 役者の自主性を認めない指導法の正反対をしていたのが小津の先輩である溝口健二監督であった。かれはいっさいの演技指導をしない。役者に圧力をかけ続けることで高名であった。ああしろこうしろと具体的なことをまったく言わない。溝口は役者の自主性しか認めなかったのだ。だから各俳優たちが最大限の努力をして何も言わない監督の意図を洞察しようと努力しなければならなかった。彼は役者の演技を厳しく否定するだけだった。撮影に入り、役者があるシーンの芝居をする。すかさず溝口監督が冷たく「違います」という。もう一回やる。また「違います」。三回でも五回でも十回でも「違います」「やり直し」が繰り返される。役者はいじめられているようなものだ。具体的な指示をしてくれと懇願しても溝口は、あなたはプロの役者でしょう。給料を取っているでしょう。できるはずです、というだけ。この溝口式演技指導(無指導による指導)に耐えた俳優は、ずば抜けた演技力を体得することができた。
 私はそれが臨済禅の公案修行に似ていると思う。
 座禅にはおもに臨済宗のそれと曹洞宗のそれの二種類がある。公案を重視するかしないかの違いである。
 公案とは俗にいう禅問答のことで、一般的論理でナンセンスな命題を師が弟子に与える。例えば犬は成仏できるか?といったことだ。師はヒントを決して教えない。弟子は座禅をしつつ作務をしつつその答えをかんがえる。そうして一日一回師の前に進み出て自分なりの答えを述べるのだが、だめだと撥ねつけられるだけである。解答しては「違う」と否定される日々を何か月も何年もつづけ、やがてなんらかのきっかけから弟子が大梧する時が来る。それを臨在禅で見性をよぶ。見性を目指して修行するのである。ちなみに見性をめざさない坐禅が曹洞禅である。道元を高祖とする曹洞宗は悟りを目指す手段としての坐禅を否定する。坐すなわち成佛であるとする。
 溝口監督の指導方法は公案禅を彷彿とさせるのだ。それにたいして俳優に手取り足取りすべてを指導した小津監督の元からは傑出した演技力をもった俳優は現われなかった。笠智衆にしろ原節子にしろ芝居能力の高さで褒められる存在でなかった。

節子とカティ

 スオミ(フィンランド)の映画監督アキ・カウリスマキをご存知だろうか。一九五〇年代後半生まれ。一九八〇年代から現在まで映画製作を継続している。なおフィンランドは英語による他称で、フィンランド人自身は自分たちのくにをスオミと言う。日本とジャパンのようなことだ。カウリスマキ映画の中でもときにスオミと言う俳優の台詞を聞くことがある。蛇足であるがリナックスをコムピューターへインストールするとき、言語選択画面に主要な言語一覧が出るのだが、そこにアルファベットでスオミとある。フィンランドと書いてない。各民族の自称を尊重しているのである。日本語についても漢字で日本となっている。ただし言語がアルファベットだけのインストーラーソフトの場合は英語でジャパンとなっている。
 話が逸れてしまった。カウリスマキ映画の話だ。
 かれは小津安二郎映画に私淑している。どれほど小津の世界を愛しているかを彼がつたない日本語でとつとつと語ったヴィデオをどこかで見た。小津好きのあまり日本語を覚えたようだ。カウリスマキ作品における小津の影響は明白である。無表情、極端に短い台詞、どこかぎこちない流れ。そして画面の素晴らしい美しさ。小津の世界の基調色は白だが、アキ・カウリスマキ映画の基調色は深いブルーとグリーンである。
 なおここでアキ・カウリスマキと長い正式名を用いるのは、彼の兄弟でやはり映画監督のミカ・カウリスマキと区別するためである。
 小津映画を見た観客の反応ははっきりと二つにわかれる。大好きになる人と、アキの世界を受けつけない人。アキ・カウリスマキについてはその傾向が更に顕著だ。映画の作りがあまりに独特なためである。祖国スオミでも彼の評価は抜群に高いわけでないという、むしろ外国に熱心なファンがいる。日本はカウリスマキ映画ファンの多い国である。筆者は彼の作品を全部見た。みんな好きだ。好きなあまり私もスオミ語の単語をいくつか覚えてしまった。なにしろ極度に台詞が少なく、それも単語一つ二つ程度の短いものなのばかりで、繰り返し見ているといつの間にか覚えてしまう。
 小津が醜い容貌の女優を主演級として繰り返し起用したことに触発されたのか、カウリスマキもカティ・オウティネンという女優さんを長年用いている。最新作では脇役だったが、一九九〇年代の「マッチ工場の少女」から「ルアーブルの靴みがき」に至るまで主役ないし主役級として出演しつづけ、カウリスマキ映画の顔のような女優さんだ。彼女は一九六一年生まれで、監督よりやや若い。
 六一年生まれというと同い年の俳優に、例えばアメリカ人のメグ・ライアンがいる。ハリウッドのラブコメディ映画で一世を風靡したメグを太陽に喩えると、カティは夜空の凡庸な三等星だ。明るくも暗くもなく、夜空にたくさん浮かび、とくに注目するひともいない平凡な星のようだ。そんなところがカウリスマキ監督の好むところなのだろう。
 彼女が二〇歳台の頃主演したカウリスマキ作品が「マッチ工場の少女」。この作品はドストエフスキーの小説「罪と罰」の翻案で、アキさんの初期の傑作だ。この前に「罪と罰」そのものの映画化をかれはしたが、これはやたらに長ったらしく説明調な演出で退屈な出来だった。私は途中で寝てしまった。本人も失敗作と自覚したのだろう。つづく「マッチ工場の少女」は引き締まったみごとな傑作となった。この作品でカティは工場で働く貧しくあまり恵まれていない娘を演じる。若いのに人生に疲れている。笑うこともない。同時期のメグ・ライアンは二〇歳代後半から三〇歳代に入ってもラブコメディ映画のヒロインとして光輝を放っていた。同い年なのになんという違いだろう。
 小津に傾倒しその美質を吸収したカウリスマキだが、そんなところから相違点もあるのだ。それは弱いもの、社会の最低底で虐げられている存在とのかぎりなき同悲である。じぶんはかれらなのだとするかぎりなき同慈である。そこから必然的に生ずる社会へのプロテストである。それは智慧である。それを高い調子でスピーチしたりしないことは小津と似てはいる。かれは諧謔と登場人物たちの哀感のなかからそっとメッセージを発するのである。
 小津映画には思想がないと言われる。私もそう思う。ただ小津安二郎は冷酷な検閲制度に包囲されていた。
 小津に限らず、日本の表現者は本心を韜晦するかなしい護身を身につけざるを得ないのではなかろうか。小津の国には冷酷な検閲がある。世間という名の権力を使嗾して政府が真綿で絞め殺すがごとき事実の検閲をする。うっかり気に入らない作品を作ってしまったら、逮捕・拷問・処刑が待っている。
 スオミは政府が表現の自由を保障する国である。ヨーロッパ連合に加盟もしている。スオミ政府は思想信条の自由を憎悪したり悪徳視したりしない。そこは法治国家であり暴力が支配する国でない。表現者が個人的な中傷を被ることはあっても政府による拷問はない。権力者の打擲を恐れなくて済む。

出る

 一九六〇年代、人口の地理移動があった。田舎から都会へ、人が大量に移った。そのころ集団就職というのがあったたそうだ。地方の中学校卒業生が団体で東京大阪の会社へ就職した。一五歳で郷里と家族を棄てた。そういう時代があった。
 私自身はちょうどその頃生まれたため、集団就職時代を知らない。私が物心ついたころは経済が安定成長に移行し、人出不足も一段落していた。
 ともあれ、大量の若者が都会に移った時代には、当然ながら大衆文化に、それに対応した作品が現われた。都会へ出ることを賛美するものが多かったろうと推測される。だがそういった作品は大半が消えてしまい、こんにちに残らない。
 むしろ記憶に残した幼少時の故郷の野山を懐旧する歌や、父母をおもう歌が今も歌い継がれる。人の自然な感情からしてとうぜんかもしれない。
 都会なんかに憧れるな、地方の地道な暮らしこそほんらいの人の生活なのだと訴える大衆娯楽作品もあった。例えば映画の黒澤明監督作品「用心棒」。
 これは上州馬目宿という架空の宿場を舞台とする時代劇である。三船敏郎主演。冒頭に旅の浪人侍である三船が偶然通りががった農家から水を一杯もらう。一人の若者が、おらあ太く短く生きるんだ、と叫び家を飛び出す。若者は貧しい農家の暮らし嫌さに、馬目宿で抗争するヤクザに仲間入りしたのだ。この映画では、馬目宿がちっぽけな東京の役目をしている。いろいろあって、ラストで、その若者が「水粥すすって暮らしても、殺されるよりは農家の暮らしのほうがいいだろう。」と三船に説教されて両親の元へ帰る。この映画はあからさまな表現でないものの、当時の都会への人口移動を批判していると見ることができる。
 同じ時期に木下恵介監督作品映画「笛吹川」が制作された。高峰秀子主演。甲州の武田家の話で、舞台は当然ながら戦国時代。戦さにつく戦さの時代。武田信玄の栄光時代の映画であるのに、合戦シーンがまったくない。すべてまずしい農民の視点で語られる。この作品においても、貧しさから抜け出そうと足軽奉公に志願する村の若者が次々に現われるが、それで貧しさから抜け出たものはなく、より悲惨な境遇に落ちてしまう。この作品も間接的に、田舎から都会への移動、つまり豊かさの夢を求める移動を暗に批判する。そうみることができる。
 そのほか、山田洋次監督の初期作品「家族」はもっと直接的にそれを批判する作品だ。同監督の連作映画「男はつらいよ」にも同様のテーマが取り上げられた。ずっと後年の「息子」もそうだ。
 歌謡曲の世界なら、太田裕美が歌い大ヒットした「木綿のハンカチーフ」が代表的だろう。松本隆作詞。地方から東京に出た恋人と、地方に残ったガールフレンドの問答歌。
 華やかな東京に出て得意げに変わってゆく恋人。都会の絵の具に染まっていく恋人に、「あなた最後のわがまま、贈り物をねだるわ、ねえ涙を拭く木綿のハンカチーフをください。」とガールフレンドが歌う。
 木綿のハンカチ=素朴=田舎=ほんとうの生活。
 見間違うようなスーツ=虚飾=都会=ほんとうでない生活。
 このように対比されている。

黒と赤

 黒澤明監督映画について。
 黒澤明はおそらく世界一有名な日本人といっていい。すくなくとも映画好きな人たちなら、世界で黒澤を知らない人はいないだろう。外国でその映画が熱狂的に好かれているのに、日本国内で好かれないことでも黒澤は特異な存在である。
 私は「乱」以降、同時代として黒澤明を知っていた。もっとも当時、作品を見たことはなかった。十代の少年には難しかったからだ。しかしラジオなどから監督の噂や評判はしばしば聞いていた。そのことごとくが悪口であった。傲慢な性格だとか、作品についても、あれだけ巨額の制作費をかければ(誰だって)傑作を撮影できるよ、などと黒澤監督の人格を貶める話ばかりであった。かように黒澤明を日本人は嫌い、その作品を無視する。それが外国の人たちにとって理解し難い謎なのである。
 ともあれ外国での黒澤作品の人気はすごい。その理由のひとつは、黒澤映画の基本が西部劇だからだろう。彼はジョン・フォード監督を尊敬していた。黒澤映画にはフォード流西部劇の影響が色濃い。明確で面白いストーリー、スーパーヒーローである主人公が縦横無尽の大活躍をする。わかりやすくおもしろく、ワクワクする作品なのである。ジョン・フォード映画でのジョン・ウェインに相応する俳優が、言うまでもなく三船敏郎だ。三船が悪いやつらをやっつっけて観客をスカッとさせる。
 ところで、黒澤明に影響を与えたのがもうひとつあって、それは文学である。イギリスのシェークスピアと十九世紀のロシア文学諸作品。「乱」とか「どん底」が文学の映画化だ。この系列の作品は、わかりにくいからか、黒澤作品としては人気が低い。
 黒澤の作品を、その構造の方面から分析すると、二つに別れる。一つは主人公映画。三船敏郎が巨大な存在の主人公として屹立し、大小さまざまな脇役俳優たちが、あたかも三船太陽を中心に回転する遊星であるかのような形式の作品。黒澤三船コンビの印象が強烈のため、黒澤映画とはこのタイプばかりかと誤解してしまいがちである。
 もう一つ群集劇タイプ作品がある。主人公がそれほど目立たない作品。「生きる」が典型。「生きる」は志村喬の名演によって、あたかも主人公映画のように錯覚してしまうが、あれは群集劇だ。志村は作品中で最も目立つ俳優であるのであって、三船のような大主人公ではないのだ。そもそも「生きる」での志村喬は前半で死んでしまい、長い後半では、職場の同僚の人たちが集まる通夜での回想の中にしか登場しない。
 以上の二タイプの黒澤映画のうち、監督の前半である一九六〇年代までは双方が同程度の比重を占めていた。しかし「赤ひげ」からあと、監督は主人公映画を作らなかった。「赤ひげ」から後の黒澤映画はすべて群集劇である。この作風変化が、黒澤三船コンビ解消の原因だろう。ふたりは喧嘩して一緒の仕事をやめたとかいろいろ言われるが、私は作風変化が原因であろうと思う。
 群集劇においては、三船敏郎の存在は邪魔なのである。かれは典型的なスター俳優で主人公俳優だった。むかしの映画スターはそうだった。ジョン・ウェインも、ジャン・ギャバンも、三船敏郎も、脇役ができない。存在感が大きすぎて、彼らが画面に現われると他の俳優が霞んでしまう。それから、かれらは基本的に役作りをしない。どの映画に出ても、ジョン・ウェインはジョン・ウェインであって、むかしの客はそんなスタアを見たくて映画館へ行ったのである。三船もこうした古いタイプの主人公俳優だった。だから黒澤監督は「生きる」を撮るとき三船を外したのである。
「赤ひげ」は黒澤映画における最後の三船敏郎出演作品だった。三船の存在が重厚にして巨大だ。だからぼくらはなんとなくあれを主人公映画として見てしまう。だけれども、よくよくみてみると、三船が画面に登場しないシーンがかなり長いのだ。登場するときでも、若い医者である加山雄三の目を通して、監督は三船を撮る。「赤ひげ」以前の三船主人公作品ではなかった手法である。ここから「赤ひげ」が群集劇であることがわかる。「生きる」とおなじように、「赤ひげ」でも回想シーンでのみ登場する人物がいる。
 次作「どですかでん」ではこの特徴がもっと先鋭的になる。この作品は黒澤はじめてのカラー作品。ここでは主人公と呼べる人などまったくいない。かんぜんな群集劇である。三船敏郎の出る幕がないタイプの作品だ。黒澤はこのあと「デルス・ウザーラ」「影武者」を作った。どちらも主人公と言える人物は存在はする。が、かつての悪者をやっつける完全無欠のヒーローではない。赤ひげ先生が加山雄三の視線から間接的に描かれたように、 デルス・ウザーラもまたロシア軍将校の眼から描かれる。「影武者」の影武者に至ってはまったく虚ろな主人公だ。なにしろ死んでしまった武田信玄の死亡を隠蔽するための道具として(顔が信玄そっくりなので)雇われただけなのだから。そうして用が済んだら、武田館を叩き出されてしまう男なのだから。
「夢」の寺尾聰は主人公とすら言えないだろう。このように後期黒澤明は作風を変化さして、ヒーローが八面六臂の大活躍をする主人公映画を撮らなかった。
 ちょっと付け足す。黒澤の師匠の一人で、たいへん尊敬していた成瀬巳喜男監督もまた、その作品系列に、一人の主人公(成瀬作品の場合はたいてい高峰秀子が務めた)を中心に物語が展開する作品と、特定の主人公がいない群集劇とがある。成瀬監督は群集劇を撮るのが上手であった。「稲妻」は高峰秀子を中心とした集団ドラマ。成瀬監督の代表作。「流れる」にも主人公はない。家政婦役の田中絹代の視線を通じて、時代変化に取り残され、没落してゆく戦後柳島の、芸者置屋を淡々と描く。「おかあさん」は娘の香川京子の目を通してお母さんを中心とする庶民の貧しい家庭を描いた佳作だ。はんたいに「放浪記」は成瀬作品としては明らかな失敗作である。高峰秀子が、あたかも三船の如き存在感大きな主人公を全編に渡って力を入れて演じた作品で、高峰は作品の出来に自信満々だったそうだ。
 どんなに優秀な表現者であっても自分の作品の評価がわからない典型と言える。

鹿

 外神田の神田寺の近所にケバブの店がある。はじめは屋台に毛が生えたような規模だった。それがこのごろはそれなりな小さな店に発展した。経営者がどこの国の出身なのか不明だ。ケバブだからトルコ人だろうか。秋葉原は外国人経営の店などちっとも珍しくない。あいにく私は肉が嫌いなため買ったことがないのだが、近くで眺めてると、活気があり、店長をはじめみんな明るい性格の人たちだ。スタッフは全員オリエント世界出身の男性らしいものの、ときおり従業員か、友達かわからぬ人が混じっていたりする。そこで何よりも驚くことは、スタッフ同士がつねに日本語で話していることである。日本人客に日本語で話すだけでなく、スタッフ同士の会話も日本語なのである。その流暢なこと。驚くばかりだ。いったい何年日本にいるのだろう。
 私の経験ではいっぱんにインドからイラン、アラビア、アナトリア半島あたりの出身者は語学の天才ぞろいだ。言葉をいくつもあやつるし、日本語上達も早い。
 神谷町駅を出たところ、神谷町光明寺向かい側にあるレストランの店長も、外国籍ながら私たちとまったく同じレヴェルの日本語を話す。だがそこで話を聞いたら、かれは生まれは中国華南あたりではあるもの東京育ちだそうだ。その店に、もう何年もむかしになるが、まったくやる気がない若い女性店員がいて愉快だった。私がそのに入るのはいつも朝七時半ころで、時間的に、空いていた。客がなくて暇だからか、その女性はよく厨房で何もせず、ぼおうとしていた。ぼんやり爪を見たりしていた。こちらが呼びかけても、聞こえないのか、反応がなかなかないし、注文と違うものを私のテーブルに運んできたり、精算金額を間違え、五〇円の釣りなのに五百円硬貨を私へ渡そうとしたりした。その時代離れした爽快なまでのやる気のなさに好感を覚えて好きだったのだが、店長が解雇してしまったようだ。今はいない。
 そこからオランダ大使館へ上がる急な坂をちょいと登り、芝高校の脇から能率協会ビルへと狭い道を下ってプリンスホテル脇に出たところの交差点にかかる横断歩道橋から撮影した写真を、拙著「現代の危機を横超するために」の表紙ジャケットに使用した。夜八時に、青松寺・慈恵医科大学方向を写した写真である。
「早春」は小津安二郎監督映画としては名作と言いがたい。亭主の浮気を主題としているのだが、そういう感情の粘り気が濃いテーマは小津の得意分野でなかった。映画中で、浮気相手の若い娘(岸恵子)が、お前たち放送局の前を二人してあるいてたやろ、と冷やかされる場面がある。映画中に場所の詳細な説明はないが、そこはおそらく現在の日比谷シティ前の日比谷通りである。「早春」のころ、そこに日本放送協会があった。渋谷へ移る前である。
 岸恵子と池部良が歩いたとされる「放送局前の通り」の真下に、映画撮影後、しばらくして、都営地下鉄内幸町駅ができた。あるとき、そのホームに降りたら、いつのように空いたホーム(都営地下鉄は一般的に利用者が少ない)にアラブ人ぽい背が高い青年が困っている様子で立っていた。その男の日本語はかなりひどかった。のみならず英語も達者とは言いがたかった。とはいえ観光客に見えなかった。私のほうは、アラビア語といえばサラーム・アライクム(こんにちは)の一語しか知らない。そんなレベルなのに道を尋ねられて答えようとしたのがまずかった。
 互いに下手な英語で話した。青年がヒビヤ・ラインとかチェインジとか言うから、はじめ私は日比谷線に降りかえてどこかへ行きたいのかと解釈した。日比谷線は外国人の利用が多い線である。内幸町駅ホームにいる人間が、東京メトロ日比谷線に乗り換えるのはちょいと面倒だ。霞ヶ関駅が最短であるが、いったん地上に出て歩くことになる。その道のりを英語で説明することなど私には不可能。というより、日本人に日本語で説明しても九九パーセント理解されないだろう。だから、日比谷線に乗りたいなら地上へ出て、もう一度人に尋ねてくれと、私は言った(つもりだった)。
 ところが、この青年は短気な性格なようで、トレイン乗らない、ワタシ、ヒビヤ行く、と日本語で言った。それなら話は別だ。駅名こそ内幸町だが、ここが日比谷である。ただ地上へ出れば良いだけだ。そこでそう言ったら、かれはだんだん腹を立ててきたらしい。このへんな日本人、さっきは別のトレインに乗れと言ったのに、今度は乗るなと言う。話にならない、とでも思ったのだろうか。ステーションマスター・オフィス(駅事務所)あるか、と英語で私に訊き、私がイエス、アップステアーズ(あるよ、この上の階だよ)と、階段を指さしつつ答えたら、礼も言わずスタスタ行ってしまった。
 歴史教科書で習った明治初期の鹿鳴館が日比谷のどこにあったのか、わたしは昔から気になっていた。日比谷公園内図書館の四階壁に江戸東京の古い地図がたくさん貼られてあり、こういうのが私は好きなので、行くたびに目を皿のようにしてみる。あの土地は江戸時代はなんとか藩の上屋敷だったのかなどと、おもしろいことこの上ない。そんなことしているうちに、鹿鳴館があったらしい場所が判明した。さきほどの内幸町駅から地上にでると、北西が日比谷公園で、北東は瑞穂銀行本社ビルだ。銀行の東隣が東京電力で、北の隣は電話会社本社となっている。そのあたりが鹿鳴館だったらしい。つまり日比谷公園向かい側だ。
 さらに、鹿鳴館の北側、こんにちでは帝国ホテルが立っている土地は、明治のごく初期、動物園だったそうだ。信じがたいような話であるが、これは放送大学ラジオ講義で聞いた。詳細を忘れてしまって残念だが、上野へ移転する前に動物園があったらしい。いまタカラヅカ歌劇を演じている土地に、鹿や虎やライオンたちがいたのかと思うとなにか可笑しい。

 三太郎は週末の二日間だけ、世田谷通り傍らの食品スーパーで働いている。担当は精肉係だ。平日五日間は東京タワー斜め下の会社へ通勤する。休みなし暮らしだが、若いからカネがない代わりに体力だけはある。
 彼のシフトはお昼から閉店時間の夜九時までだ。商品の品出し作業は午後も早い時刻に終了するから、夕方から片付けと清掃が主な仕事だ。二〇歳の彼には親のように見えるパートのおばさんたちといっしょに働く。
 時にはシベリヤ越冬するような毛皮の防寒を着て、氷点下三十度の冷凍室内で作業する。中は案外に広く、入ったときはさほど寒さを感じないが、数分で手足の先と鼻の頭に痛みが走る。寒気が逃げないよう、ドアは閉める。そこで万一閉じ込められた場合に備え、緊急ボタンがドアの脇に設置されている。いざというとき本当に使えるのかなと三太郎は怖くなる。
 精肉のチーフは三〇歳くらいな男性。細く長い顔がへちま型にしゃくれてて、国のおふくろが一週間前に亡くなりました、というような沈痛な表情をいつもしている。その下の副チーフは二十六歳の快活な兄さん。まんじゅうなように丸い顔で、いつも機嫌がいい人だ。
 高級住宅地の店のせいなのか、一パック数千円もする高級な肉も販売する。そんな高い肉を、三太郎は食ったことがないばかりか、みたこともなかった。なんという肉かも知らなかったが、一生にいちどくらい食べてみたいものだと思った。
 店長は厳しい人だ。店員全員が、店の商品を無断で持ち帰ったら泥棒とみなすと言い聞かされている。
 そんなところに、新婚で機嫌がいいサブチーフが現われ、
「見つからないようにすれば持って帰ってもいいよ。どうせ捨てちゃうんだから」
と言ってくれた。三太郎は天にのぼるように嬉しい気がした。
 そこで仕事中に、賞味期限切れ近いパックを一つ、狙いを定め、商品陳列ケースの奥深くに押しこんだ。三千円もする高い肉だ。店の規則では、古い商品は客が手に取りやすい最前列に出すのだ。だが売れたら困るので、いちばん奥に押し込んだ。ところが上には上があるもので、精肉係の部屋を掃除しながら客室を眺めていると、どこかの奥さんが、さっき三太郎が隠した棚の奥に手を入れて、奥の商品を手に取っているではないか。あっと三太郎は思った。おれの肉が取られる。
 それは古い肉ですよ、忠告しにいこうとしたその時、チーフの長い馬面が三太郎の目の前にぬっと現われ、来週のシフトのことで店長が呼んでる。すぐいけ、と低い声で言った。
 店長の用事とは、次の週末はアルバイト学生が一人休む予定なので、きみには朝九時に出勤して欲しい。その代わり夕方五時までで帰ってよろしいということだけだった。
 急いで持ち場に帰った三太郎が発見したのは、ぐちゃぐちゃに荒らされた陳列ケースと、例の古い高級肉一パックの不存在だった。
 あの奥さんに買われてしまった。なってこった!
 三時の休憩時刻を迎えた。かれはいちおう休憩室に行った。だがいつものように、狭く暗い部屋でパートの女の人たちがタバコをくゆらすだけだ。みんな無口で、吸い終わるとさっさと出て行ってしまう。陰気なそこの空気を彼は嫌いだった。
 そこで気晴らしに近くの広々とした馬場へ行った。春なら梅桜花桃が咲きみだれて空が広い気持ちいいところだ。だが季節は真冬。暮れも押し詰まった師走二十四日の夕方三時すぎである。西に傾いた黄色な太陽が、日暮れ前の弱々しい光を馬場へ投げ出しているばかりだった。それでも狭いスーパーよりましだった。
 騎乗した騎手があやつる毛並みがいい馬が三太郎の前を歩いて過ぎる。何頭もの馬を眺めるうちに、みんなチーフに見えてきた。三太郎はしだいに空想に沈んだ。騎手になったじぶんが颯爽とチーフにまたがっていた。走れ走れチーフ。あんたが負けたらおいらの生活ままならぬ。
 その晩九時まで勤務し、九時半前にアパートに帰った。お目当てのものが売れてしまったから、三太郎は何も持ち帰えろうとはしなかった。ところが珍しいことに、きょうはクリスマスだから特別にと、店長のほうから帰る店員に売れ残り商品を一つずつ渡してくれた。
 百グラム九十八円のへいぼんな鳥肉だった。アパートのガスコンロにフライパンを乗せ、軽く焼いてひとりでたべた。三太郎のクリスマス。

猫の寺

 秋の夜だった。翌日から一〇月に月が変わる深夜だった。土曜日の晩で仕事は休みだった。
 平日なら新宿発〇時五〇分の終電で帰ることがふつうだった。だがその夜は遊びに出かけたかえりだったから、もう少し早い時刻、おそらくは一一時台だったろう。自宅アパート近くの小田急の駅で降りた。寺の脇を通るいつものルートで部屋についた。なんでもこの寺は、その昔、井伊の殿様が通りがかった際に猫が井伊侯を呼んだのだそうだ。寺の中は陶器の招き猫だらけである。しかし深夜の今は森閑としている。
アパートに着いた。鍵を探した。ポケットになかった。バッグにもなかった。体中を捜した。どこにもなかった。
 ドアがあかない。飲んできたし眠くてたまらない。はやく横になりたい。ドアが開かなきゃ横になれない。
 一縷の望みをたくし、駅までの道を、地面を見つめながら戻ってみた。ニ往復した。月明かりはあったけれど曇天で、地面なんぞろくに見えなかった。カギなんかもちろんどこにも落ちていなかった。
 家主と同じ敷地に住んではいたが、大家さんはおばあさんですでに就寝されたようで真っ暗。まさか叩き起こすわけにもいかぬ。
 自分のアパートの部屋のドアの前で体育座りをして考えた。こうして夜明けを待つしかないのか。いつのまにか日付が変わり十月に入っていた。とくに寒くはない。快適な気温だった。だがそれにしても疲れて眠いのだ。家賃を滞納していないのに、自分の部屋に入れないとは情けない。
 ちょっとひらめいた。刑事モノ映画で泥棒が針金の先を鍵穴に差し込むとかんたんにカギが開くシーンを思い出した。あれやってみよう! 開くかも。他人の部屋じゃない。自分のカギをこじ開けるんだ。犯罪じゃない。
 さっそくそのあたりを探したら、アパートのグラグラにゆるんだ集合郵便受けをむりやり固定した針金を見つけた。これこれ、これで開くかもしれん。慎重に外したつもりなのに、ポストのなにかの部品が落下し、深夜の閑静な高級住宅地に場違いに大きな音をたてた。映画のようにうまくはいかぬ。
 喜び勇んでその針金をわが鍵穴へ挿した。映画なら、ここでカチャッと音がしてドアが開くのだが、なんともない。ただ先端がぐにゃっと曲がった感触がしあったのみである。
 次に挿してからぐるぐる回してみた。あちこちの方向を突いてみた。なんの変化もない。まだ泥棒をしたことがないので。なにをどうすればいいんだか、皆目見当がつかぬ。挿しては回し、回しては挿したが、ただただ鍵穴の中をかき混ぜるだけであった。映画のようにうまくはいかぬ。
 ここで断念した。開ける手段はもうない。朝になって家主の婆さんに開けてもらうしかない。時に午前一時であった。このときほど夜明けが待ち遠しかったことはなかった。もう三時すぎたかな。と時計を見れば無情にも二時すぎたばかりである。物音もせぬ。
 四時すぎ、自転車の音が響き新聞が届いた。街灯の下でそれを読んだ。どう見ても不審者である。
 大家さんがおばあさんなことが幸いし。六時前に起きたようだ。ちょいと遠慮して七時に声をかけ合鍵で開けてもらった。朝帰りと思っただろう。ようやく横になれた。すこし眠ってから、鍵屋に行って新しいのを作成してもらった。予想外に高価だった。
 その数週間後、仕事中にカギがないことに気がついた。大変だ!
 その日は残業もせず、どこにも寄ることなくまっすぐ帰った。
 カギは、なんと、わが木賃アパートの鍵穴に刺さったままの状態であった。

本のなかの人

 あるとき、築地本願寺で上品な老婦人をみかけた。八〇歳は超えているようにみえた。とても上品な人だった。世田谷あたりでよく見かける感じだった。余談だが、小田急沿線に住んでいたころの大家さんも老婦人で、まだ口もよく回らぬ小さな孫たちが「おばば様」と呼んでいた。
 築地でみかけた人は、さらに気品がある人だった。
 本堂内にいた人に尋ねたら、摂政関白の近衛家の奥方だそうだ。戦前の首相近衛文麿の長男の配偶者。文麿の長男、つまり奥方の夫にあたる人は、敗戦時、ソ連軍に連行され、あちらで死んだと聞いている。
 びっくりした。
 昭和史の本にしばしば登場する人だ。本の中で識っていた人が、今現実に眼の前にいることに驚いた。それに、たいへん失礼な言い方だが、そんな大昔の人が生きているとは思わなかった。
 わたしにとって、直接経験していない歴史上の出来事という意味では、戦前戦後の出来事は、鎌倉幕府だの、大化の改新だのと等しい。近衛さんをみかけたことは、おおげさに言えば、大和朝廷時代の蘇我入鹿が突如出現したかのような驚愕であった。
 同時に、あのおばあさんに近衛首相のこととかを聞いてみたい誘惑にかられた。なにしろ身近で昭和史の重要人物に会ってきた人である。歴史の本に書いてない秘話を知っているかもしれない。それらはあの奥方が亡くなれば、歴史の彼方へ永遠に消えてしまうのだ。
 だがそれはぐっとこらえた。こちらにとっては歴史上の出来事で公的なことだが、あちらにとっては家庭内のプライベートなことである。それにいろいろと辛い思いをしたことだろうから、思い出したくないかもしれない。それでたずねなかった。
 それから数年後、やはり築地本願寺のトイレ内で珍しい人に遭遇した。
 本願寺のトップを門主といって世襲制となっている。トイレで私がひとりで用を足していたら、ひとりの若い人が入ってきた。斜めに振り返ってその人の顔を似たときは、他人の空似だと思った。当時の門主さんの長男とそっくりだったのだ。だがわたしは彼は京都にいると思っていた。東京にいるとは想像しなかった。そこでそっくりさんだとおもったのだが、その人が手を洗うしぐさなどに漂う高い気品を感じた。
 本人だったのだ。貴族とはわれわれと違うものなのだなと感嘆した。
 現在かれは引退した先代門主のあとを継ぎ、浄土真宗本願寺派門主となっている。

じいさん

 ドイツ生まれの音楽家オットー・クレムぺラー指揮による演奏を聴いたのはかなりおそく私が三十歳を過ぎてからだったとおもう。もちろんレコード演奏だ。彼ははちょうど私が生まれた頃に死んだ人であるから実演奏を聴いていない。聞いた曲目はべートーヴェンのシムフォニー五番と七番の組み合わせだった。オーケストラはウィーン・フィルハーモニーだったかと思う。まずびっくりしたのはテムポの遅さ。止まってしまうかのように遅い。なんだこれはと思った。つづいて木管がひらひらと浮き出てクリアに聴こえることに驚いた。オーケストラ演奏ではふつう分厚い弦楽器にかき消されがちな木管がクレンペラーだと実にはっきり聴こえる。しかもその音がきれいだ。じつは初めて聞いたときは人為的に木管を拾って録っているのかと疑った。だがジャケットを読んだらライヴ録音となっていた。スタジオならば木管奏者前に別マイクを立てるのは容易だが、コンサート会場ではできないだろう。指揮者クレンペラーが木管の音を消さないよう繊細な音量配慮をしていたのだろう。
 さて第五交響曲の高名な第一楽章を聞いていたあたりでは、ただもうその遅さに呆気に取られるばかりであったが、つづく二、三、四楽章を聴くうちに、音楽スケールの巨大さに圧倒されてしまった。こんなにおおきなべートーヴェンを聴いたのは生まれて初めてだった。最後のあのしつこい和音の連打によって曲が閉じれれたときは言葉が出なかった。ただもう「すごい」の一語に尽きた。二曲目の第七交響曲イ長調の演奏も同様に冷たく無愛想なもので、テンポはさらに遅かった。音楽を揺らすことがない。止まってしまいそう、でなく、部分的には実際止まった箇所もあった。そして音楽の雄大さは第五番以上であった。受けた感動により圧倒され息もつけないほどであった。この演奏はなんだ。この演奏をやったのはいったいどんな人なのか。それからこの謎の人物のレコードをたくさん聞いたのだった。
 写真をみると彼はおそろしく背が高く、二メートル近い長身で痩せていた。分厚い度の強い眼鏡をかけいかにも神経質そう。若い時の写真ではこめかみに青筋を立てている。晩年も痩身で頬がこけ、黒縁眼鏡をかけ、歯がない口で噛みつきそうな表情をしている。この狷介きわまる老人と比較すれば、俳優のクリント・イーストウッドなんか親しみやすいフレンドリーな人物に見えるほどだ。実際の性格も写真どおり。毒舌家で皮肉屋で、付きあいにくいひとだったそうだ。
 演奏の基本は、テンポを動かさないザッハリヒカイト。せかせかした速いテンポで若い時は演奏していたそうだ。取り上げる曲目も、同時代のわかりくい現代音楽主体。古典派ロマン派の人気曲はまずやらない。そんなふうだから人気はあまりなく聴衆もすくなかった。俺の音楽がわからないやつは俺のコンサーに来なくていい、との主義だったらしい。友達にしたくないタイプである。彼はユダヤ系ドイツ人だったので一九三三年以降ドイツを追い出された。アメリカ合衆国へ行った。けれども世渡りができず、トラブルメーカーだった彼はアメリカで成功できなかった。失敗したといったほうがいい。彼の音楽も彼の人格も、アメリカ人が認めるところとならなかった。戦争が終わるとすぐヨーロッパへ戻っている。
 知る人は知る。しかし一般の音楽ファンに人気がない彼はその後も鳴かず飛ばずだった。だがアメリカ滞在中から健康を崩し、帰欧後は寝たばこの不始末により全身火傷を負い、飛行機のタラップから転落する大怪我をし、さらに脳卒中により半身不随となった。そのころからクレンペラーの運がひらかれる。スター指揮者を欲していたレコード会社の販売戦略によって、彼はイギリスのフィルハーモニア管弦楽団と組み、大量のレコード録音を開始した。体の障害によりその頃の彼は速いテンポを取れなくなっていた。手が思うように動かないのだ。さらには口をうまく動かせないため、オーケストラのメンバーに意志を伝えるにも苦労した。オーケストラからすればなにを言っているのか聞き取れなかった。そのためしばしば癇癪を起こしたそうだ。だがそんな肉体の障碍が彼の音楽のスケールを雄大にした。もともと、テンポを動かさず小細工をしない演奏を得意にしていたから、それが音楽の雄大さに発展したのである。オーケストラメンバーも狷介な性格のこの老人を敬愛した。なにを言ってるのかわからないし、よく怒るし、高齢と身体障碍のため指揮台に一人で登ることもできない老人。演奏中に寝てしまうことさえあったこの老人を慕った。かれが指揮台にいるだけで素晴らしい音楽を奏でることができたからである。
 さてそんなクレンペラーの録音遺産は無数と言っていいほどたくさんある。正式なスタジオ録音も多いし、ライヴ録音はそれよりさらに多いかもしれない。かれの録音の特徴は出来不出来の差が激しいことである。素晴らしい演奏に接すると人生が変わるほど魂をゆすぶられる。しかしダメな演奏は徹底してだめだ。おもしろくもおかしくもない。録音をたくさん聞いてじぶんでたしかめるしかないだろう。
 クレンペラーとおなじく音楽家マーラーの弟子だったブルーノ・ヴァルター。本名はシュレジンガーで、ヴァルターはミドルネームだそうだが、指揮者デビューの時ヴァルターを名乗った。彼の演奏は一〇代の少年の時から親しんだ。作風はクレンペラーの正に反対だ。温厚で温かく親しみやすい。いつも微笑みを絶やさない音楽。一生涯笑ったことがない音楽をしたクレンペラーと、生涯微笑みを忘れなかったヴァルター。苦難の人生を歩んだことではふたりとも同様であるが、同一の師からよくもこれほど正反対の弟子が生まれたとおう。
 ヴァルターの演奏も数多く残されている。出来不出来の差が激しいこともクレンペラーに同じ。ヴァルターの欠点は、その温かさが弛みに変わってしまうことがあることである。弛緩した音楽ほど飽きるものはない。けれども持って生まれた明るく溌剌としてはずんだ美質が存分に現われたときのヴァルター音楽はまさに楽園の愉悦のようだ。たとえばステレオ録音によるべートーヴェン交響曲第二番ニ長調(コロンビア交響楽団)。若葉にそよぐ薫風のようにさわやかな馥郁たる青春の香りにあふれ、若さに弾むこの演奏が、八〇歳を過ぎた人によるとは、教えられなければ誰も想像しないだろう。それからモノラル録音のほうのモーツァルト交響曲第三九番(ニューヨーク・フィルハーモニック)。輝くようなヴァイオリンの主旋律と、胸をかきむしるようなかなしみにくれる副旋律の対比。そこに弛緩のかけらもない。これぞ理想のモーツアルトである。べートーヴェンの田園交響曲の録音はヴァルター指揮コロンビア交響楽団のものと、ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニーのもの、二つあればじゅうぶんだ。前者は不満を言う所がない名演奏だ。後者は指揮は平凡だがウィーンフィルの音がとろけるほど美しい。
 二人共に自伝を遺した。ただし自身が筆を取ったのでなく、インタビューアーがまとめた聞き書き形式である。歴史研究者はぜひ目を通すといいと思う。音楽家人名と専門用語が頻出するため一般の研究者にとっては煩わしいだろうが、二〇世紀前半のドイツの様子が詳細に記録されているからである。ことにブルーノ・ヴァルターの自伝「主題と変奏」はいつどこで誰と会い何を語ったとか、あたかも日記のように細密だ。ちなみにこの本に飛行機墜落事故のことが書かれている。オットー・クレンペラーは飛行機のタラップから墜ちただけで済んだが、ヴァルターは乗っていた飛行機そのものが墜落したのである。ギリシアあたりの海辺の沼沢地のような場所へ落ちたそうだ。墜ちる飛行機の中を体験するとはこういうことかと思わされる。クレンペラーの本は絶版で、古書店で買えるが、極めて高価である。各地の図書館を精査すれば、見つけられるかもしれぬ。
 余談だがヴァルターのリハーサル収録がCDレコードの付録として付いていた。彼の練習風景は、「グッドモーニング、ジェントルメン」の挨拶からはじまり、決して大きな声を出さないで紳士的で丁寧なものであった。ひどくドイツ風に訛った英語だったため私でもほぼ聞き取ることができた。

夏風

 録音技術がなかった時代。具体的には一九世紀以前のことだが、作曲家は自分の作品を聞く機会が少なかった。ピアノ独奏や歌は別だが、演奏に数十人以上を要する大規模編成の曲を聞ける機会は乏しかった。頭の中に響かせた想像上の音楽を楽譜に書きつけた。それが実際の音として響くのを聞くことは作曲家の人生でも数少なかった。

 聴衆もまた音楽を聞ける機会がまれにしかなかった。例えば第九のような有名曲でも、生涯に数回くらいしか聞くことがなかったと想像される。それはプロの音楽家もおそらくそうで、楽譜を読み、先輩音楽家の話を聞いて、音楽作品をこうかなああかなと研究した。だから、じっさいに音として聞けるコンサートが開かれたとき、その聞く態度の真剣さは現代の私たちの比ではなかっただろう。稀にしか遇えないチャンスにめぐりあえたのだから一音たりとも聞き逃すまいと神経を集中させただろう。
 私たちは耳が肥えている。
 古今東西の有名曲、無名曲をかたっぱしから聞いている。子供時代から録音音楽を聞いている。有名な曲なら、じっさいのコンサートの座席に座る以前に数十回は録音を聞いている。しかもそれらはときの流れに濾過されて生きのこった名演奏中の名演奏ばかりだ。そんなとびきりすばらしい演奏に慣れた私たちがコンサートにでかけたら、たいがいは違和感をおぼえるものだ。音のバランスが違う。独奏楽器の音がかき消され聞こえないなどと。だがそれはお門違いな失望だ。録音による音楽は、商品としての質が販売に耐ええるよう家庭のオーディオ再生に最適化された音に調整してあるのだから。不自然な音なのだ。不自然な音に慣れすぎて、コンサートのほんものの音に不平を言うのだ、私たちは。
 演奏家のほうも現代は困難な時代だ。とびきり上等な録音による演奏で耳が肥えたお客相手に演奏を聞かせなければならない。聴衆は録音で聞き慣れたハイフェッツとかホロヴィッツの演奏と比較しつつ聞いているのだ。技巧にせよ音楽性にせよ、過去の超一流音楽家と較べられてしまう現代の演奏家はじつに酷な環境にいる。
 音楽にゆたかな感性があった思想家のサイードがテキスト主義を論じていた。現代人はあらゆることについて、「知っている」。みんなものしりだ。ただしそれは本とか、写真とか映画とかテレビとかのテキストを通した知識だ。たとえば、行ったことがない国の観光名所についての該博な知識を私たちはもっているし、本やインターネットをつうじてその知識をもっともっと増やすことができる。その結果、じっさいのその土地を旅行したとき、私たちはテキストとして「知っている」知識と、そこに出現した現実のその土地を無意識に比較し、齟齬をおぼえ、がっかり失望したりするのだ。あらかじめテキストとして知ってしまっているがゆえに、じかにその土地を肌で感じるたいあたりの経験に乏しくなってしまう。
 私たちは音楽を聞く以前からその音楽作品を「知っている」。知りすぎるほど「知っている」。だからコンサートへ行く目的が、「知っている曲を体験する」ことになっている。一九世紀以前の人はそうでなかった。コンサートでその作品を初めて知ったのである。コンサートで曲を体験して知ったのである。知ることとと体験することの順番が私たちと逆である。二〇世紀三〇年代ころから、コンサートの曲目が過去の作曲家の作品中心となり、同時代の作曲家による作品がプログラムから排除された。この現象が、レコードと蓄音機と録音音楽ファン増加と並行していることは、おそらく偶然でないだろう。
 たしかに録音音楽の功績はおおきい。おおぜいの人がすばらしい音楽を安価にいつでも聞けるようになった。それから、その音楽(および作曲家)と一対一で向き合って聞くことができるようになった。たくさんの聴衆とたくさんの演奏家とスタッフがいる場所でのコンサートで、作品の世界に深く沈潜することは意外に難しい。雑音や他人の視線など感興を妨害する情報がおおいからだ。家でならそれらノイズをカットできる。夜、灯りをすべて消しバッハのレコードをかければドイツの深い森のような哲学的世界に沈むことができる。音楽を聞きながら涙をながすこともある。録音のこうした功績は大きいけれど、知らない音楽に全身で体当りする体験を録音は奪ってしまった。
 昔の人と、私たちと、どちらが仕合わせだろうか。

作る

 ある編集者出身作家がかつて、作家と編集者の関係を野球のピッチャーとキャッチャーに喩えた。一段高いマウンドの上で、観客全員の視線を浴びて華麗に舞う投手と、防護マスクで顔を隠し地面にうずくまる捕手。投手が調子を落としかけたら、捕手はすかさず一八メートル走ってピッチャーを励ましに行く。投手はマウンドをほんの一歩か二歩おりるだけだ。投手成績の何割かはおそらく捕手の手柄なのだろうが、キャッチャーが数字で評価されることはない。
 本とは、書いた人の作品であるとともに、それを出版した本屋さんの商品である。著作権が著者にあるとともに、出版権は出版社にある。おおざっぱにいえば、本に書かれている文章は著者のものであり、本という物体は出版社のものである。
 ここから本をつくる人に、著者と編集者の二人がいることがわかるだろう。著者については説明不要だろう。編集者とは、大きな出版社の場合はその会社の社員であり、小さな出版社の場合は社長が兼務することもある。編集者の仕事は本のプロデュースである。出版物の計画を立て、著者(または著者候補)と折衝し、出版後の広告宣伝活動もする。出版社も営利企業であり、本は商品である。編集者はつねに読者の好みや需要を頭の片隅に常駐させている。世の中に訴えたいこと、ひろめたいと思っている思想はあるけれど、それが編集者の頭脳のすべてを占領することはない。一方的で独善的な主張に満ちた本を出版してみても、その本がベストセラーになることはまずないのである。編集者は視野が広く、かんがえが柔軟でなければならないのである。編集者はゼネラリストだ。
 これにたいして著者はスペシャリストだ。概して知識と視野が狭く鋭い。それは美点でもある。これと粘り強い執拗さが結びつくと、素晴らしい作家や思想家、研究者になれるかもしれない。だが美質はその副作用として、独善的自己主張をまねいてしまう。良い著者であっても、読者の存在を顧慮しない一方的主張になってしまいがちだ。そうなってしまったら、読者はそっぽをむく。せっかく素晴らしい内容の本であるのに読んでもらえないのである。
 ここに出版物が著者と編集者の共同作業であることの長所があるのだ。常に読者の存在と、本の売れ行きを忘れない編集者の広い視野が、読者を無視する一方的主張に傾きがちな著者を矯めることがきる。矯正してもっと良い本にできるのである。著者一人で作る本より、編集者とともに複数視点で作る本のほうが良い本になるのだ。
 インターネットのセルフ出版の本は拙著を含めて当たりハズレが大きく、大多数がハズレだ。私見によれば、その原因がここにある。執筆、編集、校正、出版の各作業を一人だけで行い、他人の視点が入っていないから、読者を忘れ、著者の主張ばかりになってしまう。そういう本は読んで面白くないものだ。電子出版の今後の課題は、いかに編集者的人物の広い視野を取り入れ、出版物の質を上昇させるかである。
 世の中は編集者出身作家が多くいる。かつて出版社で編集者をしていた人が転身した作家たちである。はじめから作家であった人と比較すると、編集者出身作家はおおむね作品の質にばらつきがすくなく、読みやすく、商業的に成功している人が多い印象がある。それはかれらが作家転身後も編集者としてのセンスを忘れないからであろう。複数視点を同一人物の中に維持しているのである。
 また編集者出身作家の特徴として直接自己主張が少ないことを挙げよう。なんらかの主張を読者に告げたい時にも、かれらはそれを間接的に表現したり、ルポルタージュとして社会的事実に語らせて主張しようとする。自分をルポされる事実の影に抑制する傾向がある。
 本を作る現場での第三アクターは校正者である。
 校正者の存在は影が薄い。一般にそんな職業は知られていないであろう。元来は原稿の誤字脱字を指摘する仕事であった。工場でいえば「製品検査係」のようなものであった。だが近年は二つの理由により校正者の役割が大きく変わった。一つは、印刷工場の職人さんが活字を手で拾っていた時代と違い、単純な誤字脱字が減少したこと。二つは、長引く出版不況により、校正を省略してしまうか、編集者が兼務する出版社が増えたことである。そのため校正者の仕事がぜんたいに校閲に近づいた。その本の「最初の読者」として、意味不明確な表現を指摘するとか、不適切な言葉使いを指摘する業務等の比重が大きくなったのである。
 どんな本においても、著者はその分野の専門家である。編集者も校正者もその分野における知識と技能とでは著者に比肩し得ない。しかし専門家は専門家であるがゆえの罠に嵌まることがある。例えば、この程度のことなら誰でも知っているはずだと、ちょっとした専門用語を説明抜きで使用したりする。専門家だから「こんな初歩的な用語は説明不要だ」と判断しがちだが、じっさいは世の中の多数の人はその言葉の意味を知らなかったりする。だから「最初の読者」である校正者がそんな専門家の陥穽を指摘してあげるのである。こうしてより良い本になってゆく。その意味で現在の各出版社による校正省略傾向は、本の質低下を招くだろう。憂慮すべき事態である。
 ちなみに編輯者は「作り手」の側の人なので、専門の校正者のようにはまちがいを見抜けない。校正者は「作り手ではない」からこそ原稿の間違いが見えるのである。
 文章を書く仕事をした経験者ならばだれしも、自分の原稿の間違いが見えないことに驚いたことがあるはずだ。何度も見直したのに、間違いが見えない。それなのにその原稿を、校正者にみせたら、あっという間に間違いを何箇所も指摘された体験があるだろう。固定観念が根強いからか、誰でも自分の間違いは見えないものなのである。しかし他人の間違いはよくみえるのだ。他人の原稿ならば、渡されてちょっと眺めれば間違いが見える。長年の熟練のおかげもあるけれど、私などは瞬間的に間違いが見える。編集者は著者ではないが、本をつくるがわなので、自分が手がけている原稿の間違いに気づきにくい。
 作り手側にいないからこそプロの校正者は間違いと不適切を瞬時に指摘できるのである。

つゆ

 六月のつゆのさきのじきになると死んだ叔母をおもいだす。叔母が死んでもう四〇年にもなる。
 広い沼を見おろす丘の上の病院の一室で叔母は死んだ。乳がんだった。まだ三〇歳代だった。
 叔母は立派な人でなかった。無学歴で、教養はなく、お世辞にも美人とは言えなかった。趣味と言えることはタバコとパチンコくらいだった。ある晩など、パチンコ屋であたったからと、景品を抱えて夜十時頃わが家へ突然やってきたりした。一度結婚し離婚していた。
 どちらかといえば、だらしない生き方をしてる人と、世間から後ろ指さされるタイプの人だった。
 叔母は変な趣味をもっていた。注射が好きだったのだ。チクッとされる感覚が気持ちいいと言っていた。そこで病気でもないのに、なにか仮病の口実をこしらえては近所の町医者へ通った。そんな人なのに、ガンが末期になるまで気づかなかったのだ。
 丘の上の病院に入院してからは、私はときおり叔母を訪ねた。ひとりで行ったこともあったし、脚が不自由なわが母と一緒に電車に乗って行ったこともあった。叔母は母の妹だ。私は十代半ばだった。
 最後に会ったのは六月上旬、晴れた気持ちのいい午後だった。湖面を吹き抜ける薫風が病室のガラス窓の外側で踊っていた。それは生命にあふれていた。風のいのちのダンスだった。
 窓に背を向け、上半身を立たせてもらった叔母が、「私と違って頭がよくしっかりしてるんだから、よく勉強してがんばるんだよ」、と私に言った。私は意外に感じた。自分をしっかりしているとも、いい人だとも、思ったことがなかったからだ。
 それが叔母の最後の言葉だった。叔母は末期がんであることを知らされていないはずなのに、じぶんが間もなく死んでゆく身であることを悟っている人の言葉に違いなかった。そこに死への恐怖はまったくなかった。容貌は衰えて醜かったのに、悟りきった高僧の後光のような荘厳を私は感じた。
 翌日の未明に叔母は死んだ。だらしない生き方をし、なんの取り柄もなかった叔母が、すこしも取り乱さず、私に人生を教え訓し立派に死んでいった。
 葬儀の日も晴れてひどく暑かった。
 爾来四〇年、毎年六月はじめを迎えるとあのときの叔母を想起する。いつの間にか私は叔母よりずっと年上になった。自らの死を意識せざるをえない年齢になった。
 人とはあんなに立派に死んでいくものなのだろうか。

みづたま

 叔母が亡くなった。遺児がふたりいた。あたしよりちょいと若い従兄弟である。
 小さいほうが高校へ進むことになった。叔母が意外にも貯金を残していたためなんとかなったのである。
 父母がいない従兄弟の入学式にあたしの母が出席する約束をしていた。だが母も病身で脚が不自由だった。当日の朝、どうしても起き上がることができなかった。そこであたしが代わることにして従兄弟の了承をえた。代理のそのまた代理である。
 あたしは一九歳。
 従兄弟は不満顔だった。
 学校から来た案内書を一緒に見て、ほらここに父兄って書いてあるだろ。父は無理だけど、兄くらいにはなれるよ。そう言って納得させた。
 菜種梅雨というのか。ぐずついた雨模様の日々がつづいていた。二人して電車に乗り学校につくと傘の花が咲いていた。
 空からのみづたまがあたしたちの顔を打った。天が校庭の水たまりに雨の粒を落とすたびに泥水が跳ねた。
 母子二人連ればかりのなかであたしたちは浮いていた。
 式が始まった。
 父兄席にいたあたしはとりわけめだっていた。晴れ着というものがなかったので、家でいちばんいいと思える服を着てはいたものの、四十歳前後のお母さんたちに囲まれた十九歳の「父兄」はいかにも異質だった。父兄だか生徒だかわからないのがそこにいることが異彩を放っていた。あたしはしだいにいたたまれない気持ちになった。
 あめあめ降れ降れ
 母さんが蛇の目でお迎えうれしいな
 ぴちぴち
 ちゃぷちゃぷ
 らんらんらん
 あたしたちいとこに迎えてくれる母さんはいなかった。
 母をなくしたばかりの従兄弟はこう歌いたかっただろう。
 雨雨降れ降れもっと降れ
 あたしのいい人連れてこい
 雨雨降れ降れもっと降れ
 あたしの母ちゃん連れてこい

夏檸檬

 永田町の国会図書館の前と館内に
「ナショナル・ダイエット・ライブラリー」
と大きく書いてある。
 ダイエット、である。初めてみたとき奇異を感じた。ダイエットって何のことだ? 痩身術の本を集めた国立痩身図書館じゃないのに。ロングマンの英英辞典を引いたら「政治または教会の問題について話し合いをすること。(いくつかの国で)パーラメントのことをいう。」となっていた。それで謎が解けた。日本の国会をダイエットと英語訳しているのだ。ふつうの英語だと、議会をパーラメントとかコングレスというので、日本の国会もそうなのかと思っていた。
 議員さんが痩せるほどはたらく場所という意味ではないらしい。
 夏が近づいた。
 浄土真宗の門徒は先祖供養をしないから盆だとてとくべつなことをしない。門徒はふだんから線香を立てない。香炉に横に寝かせて置く。火災予防のためである。現在のように立派な消防署がなかった江戸時代は仏壇から出火する火事が多かったのだ。線香を灰に突き刺して直立させる風習は禅宗からひろまったのではなかろうか。線香一本が燃え尽きるまでとか、座禅する時間を線香で計るからである。寝かせたら線香が見えない。
 ぼくは夏が好きだ。秋と冬が嫌いだ。晩秋はとくにいやだ。もしできるなら、毎年八月半ばから一月まではオーストラリアに住みたいくらいだ。
「中国人は時間的推移を分解して周期とし、その周期を四分する傾向を有する。まず自然的な時間では一年を周期としてこれを春夏秋冬の四季に分ける。四季に分けるのは必ずしも必然の結果ではなく、夏と冬のニ季に分けることもまた可能なのである。」 宮崎市定「史記を語る」五五頁
 大和朝廷時代の先祖が中国輸入の四季概念をこの列島へ導入したのだろう。季節は二季でも三季でもいいはずだ。無季だって可だ。春夏秋冬という概念が刷り込まれているために、ぼくたちは春とか夏の季節の実在を実体視してしまう。ほんとうは概念だけがあるのだ。冬とか秋は存在しないのだ。
 それはそうとしてぼくは十代のときからおもっていたのだが、一年を陽半期と陰半期の二季に分けてみても良いのではなかろうか。
 陽半期は二月から七月。陰半期は八月から一月である。太陽の光が増え、生命たちが繁茂する拡大の季節を陽半期。その反対が陰半期である。年で最も暑い八月を陰半期の開始とするのは、気温こそ高いが、八月に入ると翳りと衰退の兆候をあきらかに感じざるをえないからである。日中の時間が短くなる。夜には秋の虫が鳴く。生命衰える秋の始まりがすぐそこに来ていることを感じざるを得ないからである。夏の終わりは、一年の終わりの哀愁をぼくにもっとも強く感じさせる。
 柑橘の花は春に咲く。濃い緑色の葉の間から香り高い綺麗な花を咲かせる。残念ながら檸檬の花をぼくは見たことがない。ふつうの温州みかんの花ならばたくさん見た。檸檬も蜜柑も、陽半期に花を咲かせ、真夏の陽光を浴びて実を太らせる。夏はきらめく生命の季節である。やがて時が過ぎ、実りの陰半期に、房もたわわに檸檬の実をつけることだろう。
 ぼくは直接触れた情報のみ信用する。この目でみた物ごと、この耳で聞いた誰かのお話、耳にきこえた音、鼻で嗅いだ匂い、夏の日射しに打たれる檸檬の葉をぼくは信用する。田園の農地で汗にまみれてはたらく農夫の言葉をぼくは信用する。テレビ新聞インターネット等々を通した情報をぼくが信じ用いることはない。それらは概念だからである。仏教哲学のことばで表現すると、それは虚妄なる識がみる「境」であるからである。それは真でない「仮」である。諸法の仮相である。仮なる概念を実体視すると、ぼくたちはひっくりかえってしまい、ひっくりかえった逆さまの世界こそ正義だと主張する人に変わってしまう。それが暴力と不寛容など世界のあらゆる不幸の連鎖の根源なのである。

高い空

 暑い暑い夏がようやく過ぎると空がにわかに高くなる。爽やかな秋風がたち、命もえる盛夏が去ったさみしさを感じさせる。
 長い、わかりにくい、とっつきにくいと嫌われがちなブルックナー音楽であるが、私は十六歳で初めて聞いたときいっぺんに好きになった。難しいとはすこしも感じなかった。相性があうのだろう。それから長い年月聞いてきた。しかるにいい演奏にめぐりあえない。コンサートでの実演はことにそうで、聞くに耐えないひどい演奏にばかりあたった。レコードでなら状況はずっと良かったが、一曲を通してすべてに満足する演奏に接したことはない。ブルックナーとはよほど演奏が困難な音楽作品らしい。批評家が褒めた演奏についても、私の琴線にひびくものと、ぜんぜんそうでないものとがあった。例えばカール・シューリヒト指揮ヴィーン・フィルハーモニー管弦楽団の第八第九交響曲などどこがいいのかわからなかった。以下、一曲ずつ良かった演奏を挙げてみる。
 交響曲第二番ハ短調。私はこの曲がブルックナー作品中でも特に好きだ。リカルド・シャイー指揮の録音がよかった。オーケストラはどこだか忘れた。
 交響曲第三番ニ短調。版がいっぱいある曲。カール・ベーム指揮ウィーン・フィルハーモニーのものがよかった。指揮は平凡である。けれども失格点をつけるほど悪くもない。ウィーン・フィルのほの暗い響きが好きなのである。
  交響曲第四番変ホ長調「ロマンティック」。ブルックナー作品として例外的に作品の質が低いので誰の演奏を聞いてもいいのでないか。
  交響曲第五番変ロ長調。ブルックナーの最高傑作である。はじめはなじめないが二回三回と辛抱して聞くと作品のほうからその素晴らしい世界へ招き入れてくれる。オイゲン・ヨッフム指揮のものが比較的よかった。オーケストラはたしかアムステルダムのコンセルトヘボウだった。この録音は腰が軽い。重厚な音のならギュンター・ヴァント指揮ベルリン・フィルハーモニー管弦楽団のライヴ録音が良い。
  交響曲第六番イ長調。前作でブルックナーはすべてを達成したと感じたのだろう。この第六番で作風と作曲法をがらりと変更した。この曲は神秘的な「原始の霧」で始まらないし、前期ブルックナーの特徴である全休止が二箇所しか無い。リズムが躍動する曲調もそれまでになかった。第六交響曲については、すばらしく感動したと思える録音を聞いたことがない。私はこの曲が大好きなのに。
 交響曲第七番ホ長調。カール・シューリヒト指揮ハーグ・フィルハーモニーのものと、朝比奈隆指揮大阪フィルハーモニー交響楽団の聖フローリアンでのライヴ録音がよい。
  交響曲第八番ハ短調。死に際にこの曲の第三楽章アダージョを聞かせてもらいたいと願っているくらい好きなのに、この曲ほどいい演奏がない作品も珍しかろう。世に出ているレコードの多くが箸にも棒にもかからない駄演奏である。いいなと思える録音であっても、開始から終了まで全曲をとおして感動する演奏はない。ゆえに推薦録音はない。けれども第四楽章だけに限るならば、ハンス・クナパープブッシュ指揮ミュンヘン・フィルハーモニーのものがいいだろう。三楽章までは詰まらないが、終楽章の演奏はいい。スケールが大きいしわかりやすい。
  交響曲第九番ニ短調。最後の作品で作曲家の死によって未完成に終わった。この曲もまた演奏困難らしく、魂をふるわせるほどの録音演奏にで遇えていない。
 ブラームスの音楽は晩秋の重苦しい厚い雲に覆われた暗い空である。
 ブルックナー音楽は澄んだ初秋の高い空をおもわせる。ちょうどブルックナーの命日のころの空だ。第六交響曲の緩徐楽章をきくたび私はそれを感じる。かれはまさにかれにぴったりの日を選んで死んだ。
 

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