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プロローグ 〜月の光

満月の夜のことだった。アルプスの麓の混じり気のないそよ風に揺られ、青い草の光沢はまるでさざ波のように、丘の向こうへ駆けていく。月の光は、物置小屋のこの小さな窓からまっすぐに光の柱を下ろした。埃をかぶって白くなってしまった木の床に、爺さんの靴の大きな跡が見えた。

私たちは、月明かりに照らされた足元を見下ろしていた。
「覚えているかい。この月よりずっと眩しくて、黄色い光が僕らを照らす世界にいたことを」
マリオネットは言った。ああ覚えているとも。となりの国の大きな街のパッサージュにある骨董屋の、ショーウィンドウの中のことだろう。
マリオネットは続けた。
「あのひと冬の、なんと懐かしいことだ。街のみんなは元気にしているだろうか。赤いコートのアーリャは、今はどんな大人になっているかな。また見かけるなんてきっと叶いっこないんだが、考えてしまう。しばらく考えていたら、その考えた中のどこかにはいて、考えたうちの何かをしていているかもしれない。そうしたら、僕の考えは正しいってことになるんじゃないかな。それじゃあ、今日着ていたコートの色だって当てることができる。金色か銀色か緑色か黄色、それともきっと今度も赤いはずだ!」
マリオネットは楽しそうだった。腕を組んで、放り出した足を揺らしていた。ガラスの目は月明かりできらきらと輝いていた。

しかし、私はこの時の彼も病的であると感じ取っていた。目は虚ろで天井の方を向いているし(人形の埋め込まれた目だから仕方ないにせよ)、そのひょうきんな振る舞いも、彼自身心が自然に沈んでいくのをごまかすためにやっているようだと、私は分析した。
それにこたえるように、マリオネットはうわ言をこぼすように
「知っているよ。今言ってみた色は、ショーウィンドウの中の色を全部挙げただけだ。他の色は知らない。普通の女の人間はそんな色の服を着ないんだ。でもアーリャはつまらない色のは着ないんだ」
彼は、その女の子がずっと特別なままでいてほしいらしい。時計である私は愛しいということを理解しないので、アーリャはごく普通の幼い少女だったように記憶している。だが彼にとって赤いコートを着る彼女が、ショーウィンドウの内側から飛び出したような存在に思えて、人とものの間の永遠の壁を超えた繋がりを見出したのかもしれない。この辺りの不条理もきっと彼は理解しているから、私は一層マリオネットが憐れに思えた。

程なくして、満月はマリオネットの頰を照らすほどまで傾くと、彼は月明かりから顔を背けた。先程の陽気もいつしか消えた。
「あのひと冬の、なんと厭わしいことだ。覚えているかい、あの頃の僕は甚だしく情けない。眩しいほどの光の中で、僕は何も見えちゃいなかった。ひどく後悔している。僕はあれから光を見るたびに、どこかの誰かに謝ってきた。でも、今は何も感じない。もう駄目かもしれない」
この時のマリオネットは病人だった。もはや病人以上にひどく疲れ、どこを見るでもなく、自分というものからひたすらに逃げようとし、遂に殺してしまったかのような佇まいをしていた。


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