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料理が楽しくなくなった話

数ヶ月前から一人暮らしを始めた。

当初は料理が楽しかった。「この料理が食べたい」というよりは、その日に食べたいと感じた「食材」(例:ナス、カブ)に合わせて何を作るかを考えていた。

大して料理をしてこない人生だったけど、意外とできんじゃんとか、全然美味いじゃんとか、わりと生活と両立できるなとか、思いのほかルンルンとこなしていた。

実際美味しかったのかは疑問で、経験の浅い自分がこれを生み出したのかという感激によるバイアスが入っていたかもしれない。でもそういうのも含め、料理は自分にとって前向きなアクティビティだった。

「クミンって聞いたことあるけどどんな味だっけ?」とか
「ジャンバラヤとはなんぞや」とか
「私が酢豚を作れてしまった・・!」とか
「豚キムのキム調整にチャーハン作ってみるか」とか

未開拓の森を探検しているようなワクワクと、それでいて探求したものがまるごと自分ごととして享受できる満足感。

それが数ヶ月経った今、楽しくなくなってしまった。

気づいた時には、ただただ色んな味の炒め物を作っているだけの感覚になっていて、食事がガソリン補給のような義務的な営みになっていた。スーパーで出来合いのお惣菜を買うことも増えた。

何かがおかしい。妙にしっくりこない。何が変わってしまったのか。

気づいたのは、いつのまにか料理が「いかにストックを作っておくか」の発想になっていたこと。平日は仕事があるし、出勤した日なんかは1時間かけて帰宅して、そこから料理となると、正直自分の時間がそれだけで終わる。加えて、冬は会社の繁忙期だったりするので、帰宅時間も遅かったりする。

だんだんと、「時間がある今のうちに大量に作っておかないと、明日のお昼ご飯用のおかずが足りなくなって、会社近辺の栄養無いのに割高な何かを買うことになる」という発想で、いかに大量に作り、いかに栄養を摂取するか、という思考になっていた。

先日から農と地域を繋ぐといったことをコンセプトにしている地域カフェでボランティアに参加している。参加初日に、真っ赤なトマトとマッシュルームをおすそわけして頂いた。

近所のスーパーはトマトが妙に高く、一人暮らしを始めてから一度も食べていなかった。マッシュルームも、ずっと食べたかったものの、マッシュルームをひきたてる料理となると「大量生産系」の料理が作れない気がして手が出せていなかった。

久しぶりにわくわくした。何を作ろう。どう食べよう。どうすれば一番この食材が美味しく食べれるのだろう。

結局トマトは一切れだけそのまま食べて(絶品でした)、残りで中華系の卵スープを作った。色んなレシピがあったけど、片栗粉も入れるような、自分基準では一歩手間の入ったレシピを参考にしてみた。自分の好みよりも少し酸味が強かったが、しばらく忘れていた幸福感と満足感に包まれた。

最近の探求トピックとして、都会の生活が自然と離れてしまっていることや、食や農業が自分ごとではなくなってきていること、資本主義の副作用として「人間にとって自然だった何か、生きる実感をもたらしていた何か」が非効率で非合理的なものとして切り捨てられてきてしまったことなどを読んでいる。

先日アップした共感資本主義でも取り上げられていたが、お金の性質の悪いところは「貯蓄できること」。そのことにより「貯蓄が目的化されてしまっていること」。

自分の小さな生活のなかでしっかりと体感した瞬間だった。

ちなみに今後は、お昼用のおかずはストックを作っておき、夕飯は基本的に毎晩作る、難しい日は喜んでスーパーのお惣菜を楽しむ、という方向で試してみようと想う。

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