見出し画像

足りないのは「言葉」だ

最近、メガヒットと言われるトレンドがなくなっている。特に、飲料、食品業界では、プチヒットと言われる一発の盛り上がりはあっても、時代や世の中のインパクトを与えるようなものは生まれていない。一時は国民的ブームにのし上がるほど、「食」が社会に与える影響はあったが、なぜだろうか?

1、おいしさが「定型化」している

何かを飲んだり食べたりするとき、おいしさを感じることは、誰もがもっている感覚。それが、メディアからSNSまで、同じような「言葉」の羅列で、商品は新しくとも、表現は陳腐化している。

「コクがある。濃厚である」
「旨味がある」
「甘みがあって、酸味もあって」

すべては、物質的「要素」の説明であり、必要な要素のピックアップにすぎない。つまり、違うものを結局のところ「同じ表現」で当てはめてしまう「定型化」によって、すべてが均質に見えてしまうのである。

そんな時代に必要なことは、おいしさを、それだけのものとして「表現」することである。

2、食とは「文化」である

私達にとって、食べ物は、単なる栄養素を与えるものだけではない。何を食べるか、誰と食べるかは、考え方や行き方を表し、あるいはその時の時代の世情をも表現する。

だから、食のシーンはできるだけ、多面的にそして情緒的に語られる方が良い。かつての小説に食のシーンが描かれていることが多いが、その情景は、単に文字を読みすすめているだけなのに、想像ができたことだろう。

けれども、最近は「映え(ばえ)」のような「写真で一発勝負」といった表現方法が多用されることによって、おいしさは「定型化」され「曖昧」にされている。個々の商品やその人の受け止め方が省略されてしまっているのだ。

そんな退屈な表現が繰り返し社会をSNSを通したデジタルの中に蓄積されていくだけであり、そこに物語はない。情緒的な風景のない、無機質で物質的な存在だけが鎮座するその先に見えるの世界は、ただ、私たちは、モノとものとして捉えるだけであり、それを人間が、心で消化しないまま、ただ身体的なエネルギーとして咀嚼していく姿にすぎない。つまるところ、「モノ」という完全栄養食1種類で良い世界を目指そうとしているのである。

3,「文字」で語れ、「書いて」魅せよ

日本語は、漢字1つだけで、意味をもつ「表意文字」である。それらにひらがなやカタカナを組み合わせた文章としたとき、その組み合わせは無限である。

僅かな違いを表現することもできる。同じものを食べても、同じ文章は一人として出てくることはないだろう。それだけ、「個々の感性を表する」ツールとして、私達の日本語は、高度で、かつ濃密なコミュニケーションを実現することができるのである。

しかし、SNSを中心とした世界では、写真をシェアするか、それを見た人が「いいね」というボタンを押すだけで、そこに関わった人の個性はすべて均質かされていく。

どう感じたのか
だれが感じたのか
同じと違うはあったのか

そんなコト細かい、人と人との「間」にこそ、視点の違いや受け止め方の客観視があり、それが多用な世界における「他人」という存在を認め、尊厳を与える行為となる。

先にあげたようなデジタル世界の参画の仕方では、「量」としての存在は示すことはできても、そこに「感性」や「感情」は埋没したままである。そうした、無機質な見えない相手と対面を続ける先に、私たちは何を目指すのだろう。

もしかしたら、魅力的な何かが見えているのか。それとも熱狂しすぎて、周りさえ、そして自分自身の姿さえ客体視できていないのか。冷静さを取り戻したとき、社会全体の焦りと気づきは、世の中を一気に無気力にさせてしまうほど脆弱な社会かもしれない。

だから、不器用でもいい。適切な言葉が思い出せなくてもいい。ただ、そこにあなたという人間の痕跡を残し、そして、その言葉を通してまた誰かが自分という存在を気づくことのできる「言葉」を、もっと大切にしてほしいと思う。

おいしさは「言葉にする」こと。そして、「文章」として目に見える形に書き記すこと。そうやって、頭の中の世界が自分をすこしずつ、文字という形で可視化していく。

デジタル世界とは、そうした「言葉」をすっ飛ばして、「0と1」の世界にしてしまうこと。そんな世界には、人間は効率を妨げる存在であるし、無駄の極みであり、そして、人間がいつまでもその世界で覇権をもてるなんていうおこがましさは、幻想にすぎない世界になっていくだろう。

人を魅了するのは、人であり、人を表現した数字ではないのである。

日本と世界を飛び回った各地域の経験と、小論文全国1位の言語化力を活かし、デジタル社会への一歩を踏み出す人を応援します!