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居心地を求めて成長が止まる件

年始の目標に「もうわたしを理解してくれる人以外付き合わない」と共感ワールドに向かうような宣言が飛び交って、ちょっと違和感を感じました。確かに、大事にしてくれない人と、真面目に付き合う必要はないんだけど、一報で、居心地の良さを求めて共感ばかりを求めていると、成長止まって停滞期に入るよっていうお話。

1,「理不尽」は不要。でも対応は「必要」

あんな理不尽な会社はない、みたいによく言われる、世の中の「理不尽」ってやつ。確かに悪いことやズルすること、人のやさしさに付け入る会社や人がいることは確かです。それ自体はたしかに悪い。でも、それを避けて、自分の周りの雑音をどんどん遠ざけて、褒めて、伸ばしてくれる場所を求めていくと、たしかに居心地のいい場所に落ち着くことはできる。

一方で、変化や状況への対応力はどんどん落ちていくと思うんですよね。人間の成長には一定の「ストレス」ってやつは大事で、その多くは嫌なことや、イライラすること、不安なことなどであって、それに対応するから、自分の対処能力は上がっていく。それが成長です。

ところが、最近特に「共感力」みたいなことが言われるようになってきていて、自分に耳が痛いことや、厳しいこと、不徳の致すところなど、指摘や事態を「そもそも避ける」ように仕向けてしまう人が増えているように思います。

まあ、できれば嫌なことは避けたいですよ。でも、それを乗り越えることで、嫌なことは嫌ではなくなったり、学びがあることも多々あるのですよ。

もちろん、生命に影響をあたえるような事態は逃げる必要はありますが、どんな人や状況であれ、それに向き合い、対応することから逃げないほうが、結局同じ壁にぶつからずに、もっと上のステージに行けると思うのです。

2、「居心地」は求めるな

居心地がいい場所にいると、傷つくこともなければ、攻撃もされない。いわば安全地帯のようなもの。一時的な休息としてはいいかもしれないが、それが仕事や日常生活の中で殆どを占めると、同じ考えや見方をもった人や、ただ褒め称える関係のみだけが残り、共に成長が止まっている事に気づかない。

世の中は変化の激しいところ。外は極寒の北風がビュービュー吹き付ける中、部屋の中でぬくぬくしているとき、仮に、家が飛ばされて暴風雨の中に置かれたら、果たして対処できるでしょうか。

無理に外に行けと言ってるのではないのです。急変する事態や、変化に対応力が無くなっていく。一定の許容できるストレスの中にいないと、対応力が落ちていくという話です。

だから、異なる意見や価値観が異なるひとに、「真剣に向き合わない」としても「遮断すること」は違うと思う。苦手意識を持つような人や状況、分野があるのなら、あえてそれに立ち向かう。それが「成長」だと思うのです。

3、本当に強い人は、本当に辛いことを知っている

人との境目や付き合い方に線引をしてしまうのは、自ら多様性や変化への対応力を切り捨ててしまうことになる。だから、どんな人や物へも常に「開かれた状態」は保っておく必要はあると思います。

苦手な人、嫌われている人などいても、もし話しかけられたら、無視しないでどう対処するかを考える。相手に100%悪いところはなくて、70%かもしれないし、15%かもしれない。残された共感できるところや良いところ、向き合っても害がないところで対処していくことができれば、自身の対応力と人間の幅は広がっていく。

罵声を浴びせられたり、露骨に嫌がらせをされたり、いじめられたり、そんなつらい経験を乗り越えてきている人ほど、無闇やたらに怒らないし、人との線引もしない。

昔の仕返しや執念が渦巻いて、相手を拒絶したり、遠ざけたり、視界から遮断したり…もうその時点で、あなたはまだ「過去の執着から抜け出せていない」と思います。

人には無限の可能性がある。変化に対応する生き物のみが生き残れる。

だからこそ、すべての人の可能性を信じ、生かしていくことが、結果的に「自分が生き抜く」ために最も有効な方法だと思うのですけどね。

怒りの感情や憎悪があるうちはまだまだですよ。考えが後ろ向き。未来を見据えても不安が湧いてくるだけ。今、目の前の事実のみと向き合い、冷静に対処していく。それこそが「人間力の幅」そのものになっていくのです。


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